番号 | 日付 | 題名 | 投稿者 | 返信元 | 読出数 |
258 | 1/5(月) 01:44:38 |
症状報告(40) ― 母親が泣いていた | 芦田宏直 | No.124 | 4366 |
今日は、家内の病院で印象的な風景に出会った。子供(中学3年生か、高校1,2年生という年齢の男の子)が病気で入院。車椅子で母親に押されている。お父さんが見舞いに来ていた。長期出張中で、お正月にやっと時間が取れ、東京に帰ってきた。今日、東京を発つということころか。もうお別れの玄関だ。何度も握手を繰り返し、「くよくよするな、焦るなよ」と父親は子供に何度も言っているが、子供は黙っている。母親はその光景を目の当たりにして車椅子の後ろで子供に見つからないように涙を人差し指でぬぐっている。この子は、重病なのか。家内が私に向かって何かしゃべり続けていたが、その家族のことが気になって何も聞いてはいなかった。いつも家内と休憩する、女子医大脳神経センター玄関の出来事だ(私たちにはいつも長いすで時間をつぶすロビーの“特等席”があるが、ここは玄関で出入りする人々がすべて見える)。子供が重病というのも悲惨だ。特にその子を生んだお母さんにはこれほどの悲劇はないだろう。そのうえその父親に子供を過剰に気遣わせることにももっと心を痛めているのだろう。私には、その母親の涙が幾重もの悲しさに見えた。曙橋フジテレビ通りのマックで買ったポテトを間断なく食べている場合ではなかった。 そう思っていると、正月から妻を車椅子で散歩させている60歳前後の男の人が目の前を通る。これも何となく情けない。こういった初老の男は、みんな優しそうな顔をしている。家族に重病の病人がいると、その周りの家族はみんな優しそうな目をしている。こういう優しさは、よくない。優しくならざるを得ない優しさだからだ。優しい、というのはもともと必然性とは無縁だ。そうあり得る必要性はないところで示しうる優しさ、が本来の優しさだろう。全体が後ろ向きになっている優しさ(病気というのは治ってもともとゼロだから)は、家族の弱体化とほとんど同じだ。だから本来、家族だけでは病人は元気にはならない(と思う)。 お見舞いが大切なのは、(火急の家族ではない)別に来る必要もない人が来てくれる、というところにある(これが、人が優しいということの本来の意味だ)。たぶん本当はこれがパワーの源泉のような気がする(私は、人の葬式とか、人の見舞いというものを形式的なものだと思ってずーっとまともに“参加”してこなかったが、それは間違っていることを今回の家内の入院で学んだ)。他人は冷たいものだが、その冷たい他人が見舞いに来てくれるということこそが暖かいことなのだ。そもそも他人は冷たい、などと(わけのわからないことを)思うことこそが病人や病人の家族の特徴だ。そういった貧乏性的な心性が家族のパワーを萎縮させる。そういった家族の看病のまなざしは、みんな優しい(“世間”が小さくなるようにして、目が小さくなっている)。お金もないのに無理してワンボックスカーを買って、土日に家族をキャンプに連れて行くお父さんのようなまなざしだ。こういったお父さんは(優しいが故に)大概仕事ができない。 私は、父親が5ヶ月間入院していたが(3月に入院して8月に亡くなったが)、死んでしまっては元も子もない、退院するのなら見舞いも必要ない、と思って入院のその間2回しか(2回目は父が死んだその日だった)病院には見舞いに行かなかった。母親がずーっと付き添っていたということもあるが、家族のパワーが萎縮するのを本能的に嫌がっていたのだと思う。だから、今の私も家内を見舞いに行くという感じはない。高校時代に戻って、“彼女に会いに行く”そんな感じだ。だから病院に行って彼女が元気そうではないときにはすぐに帰ることにしている。元気でない病人を見舞うときほどイヤなものはない(変なことだが)。だから私は、周りの人には優しそうな人には見えていないはずだ。それでいいと思っている。 |
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