番号 | 日付 | 題名 | 投稿者 | 返信元 | 読出数 |
159 | 5/27(火) 23:44:57 |
症状報告(17) ― そして息子が倒れた | 芦田宏直 | No.124 | 4670 |
今度は、一人息子の太郎が“倒れた”。(たぶん)風邪だと思うが、熱が38度を超えてしまった。しかも今週月曜日から中間試験の真っ最中。今日もテラハウスを早退して8時過ぎに帰宅したが、勉強もせずに寝ていた。「試験に自信のない奴は大概試験中に体の調子を悪くする。おまえもそうなんじゃないの? 試験前には身震いするくらいの自信をもって挑まないと」とからかうと「だって、今日は自信のある科目だったよ」とまじめに応えていた。「明日は休んだ方がいいかな。再試はしてくれるの?」と私が言うと、「ダメ。零点扱いだから、今日はもう寝るけれど試験だけは受けてみるよ。ライティング(明日は「ライティング(英作文)」の試験があるらしい)は何とかなるでしょ」と自分に慰めるように言っていた。 そうは言っても、私が、家に着いたらすぐに食べられるように(「すし買って帰るからな」とテラハウスを出るときに“予告”して)、一推しのおいしい寿司屋のにぎりとネギトロ巻きを買って帰ったら(私が食べたいだけだったかもしれないが)、しばらくして起きてきて一緒に食べることになった。そのときの会話が先の会話。「高3にもなれば、自炊できるでしょ」と思う人もいるかもしれないが、今、我が家では、この私の用意する8時過ぎの夕食が唯一の(家族の)絆。息子もどんなに私が遅くなってもなぜか食べずに“待っている”。その気持ちが何となく私もわかるような気がするので意味もなくなぜか私が夕食を用意してしまう。今日も私が帰宅が遅そうなのを心配して家内が「先に食べてれば」と言ったらしいが「待ってる」と言っていたらしい。 家内と私の子育ての暗黙の原則の一つは、高校を卒業するまでは子供を家で一人きりにしないこと。留守番をさせないということだ。私は、息子の太郎を生後2ヶ月から小学校へ入るまで5年以上毎日保育園に迎えに行ったし、家内は20年以上勤務している会社を今でも毎日定時に(就業規則に沿って)帰宅している(勤務先のみなさん、ゴメンナサイ)。「芦田さんに仕事を頼もうと思ったら、5時までがリミット。6時には(必ず)もういない」という不文律が20年続いてきた。会社を出てからも乗り換えのホームを走り続けての20年だった。そうやって、今頃身体を悪くしているのかもしれない(俗な勘ぐりだが)。 昔、『台風クラブ』(http://store.yahoo.co.jp/digiconeiga/pibd-7074.html)という相米慎二の名作映画の中で「かえりました、お帰りなさい」と独り言を言い続ける中学生の登場人物がいたが、なんとも印象的なせりふだった。今でも頭の中にこびり付いている。若い世代の狂気なくらいの孤独をこんなに上手にえぐった映画はない。森田健作、武田鉄矢の青春論なんてくそくらえだ。 ひとりもいない家に帰ることのさびしさはいったいどこから来るのだろう。わが息子も、(われわれが少し遅れて)帰ると玄関や廊下はもちろんいつもすべての部屋の電気を(その部屋に居もしないのに)付けっ放しにしている。「何してるのよ、もったいない」と私が家内に言うと「太郎はいつもこうなのよ」と注意する様子もない。別に特に淋しい家ではないのだが(おそらく普通にはその逆の家族にしかみえない)、なんとなくその感じはわからないわけではない。 息子・太郎のことで言えば、彼にはさびしさの原・痕跡(Urspur)とでもいうものがあって、生後2ヶ月で預けた私立の保育園から数ヶ月後に公立の保育園に転園した瞬間1週間泣き続けて、急遽再度元の私立の保育園に戻したことがあった。太郎は、その保育園の沖縄出身の保母さん(「我那覇」という沖縄そのもののような名前の優しい保母さんだった)によく懐いていたのである。それ以来、寝るときにタオルを離さない(我が家ではそれを「牛乳のタオル」と呼んでいるが)。 我那覇先生に預かってもらっていた時に牛乳がこぼれたときに拭くタオル(首周りにかけるタオル)を転園した保育園でも使っており、泣き続けながらそのタオルを離さなかったといういわく付きの薄青色のタオル。それが「牛乳のタオル」である。18年近くになるそのタオルが今では(今でも)ボロボロに断片化して、その一部しか残っていないが、それでも自室のベッドの枕付近に置いてある。時々家内がからかうようにして「捨てようか」と声をかけるが、「いいよ(すてなくてもいいよ)」とさりげなく(低い声で)かわしている。そのさりげなさに妙にリアリティがあるものだから、勝手に捨てるわけにもいかない。たぶん我那覇先生からの別離は、母胎からの別離の第二の別離であったほどのショックだったのだろう。 母親からの卒業式は、むずかしい。その卒業の最後の年に母親が倒れた。わずかばかりに残っている「牛乳のタオル」は、今太郎の中でどうなっているのだろうか。私は子育てに内容的に関わろうとは思わないが(現に小さいときから息子に話すこと、教えること、怒ることなどほとんどない)、こういった原・痕跡(Urspur)には関心がある。お腹が空いていても私が帰るのを待って食事を取ろうとする息子の気持ちは、いわば男のマザーシップのようなものだ。会社を出てからも乗り換えのホームを走り続けての家内の20年は、決して無駄ではなかったように思う。 |
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