番号 | 日付 | 題名 | 投稿者 | 返信元 | 読出数 |
134 | 3/23(日) 22:16:21 |
症状報告(3) | 芦田宏直 | No.124 | 5009 |
やはり1週間くらいでは退院は無理だったが(春休み中は病院暮らしかもしれない)、家内はやっと自分で立てるようになってきた(昨日は車椅子を自ら押しながら歩いていたが、今日は車椅子なしに自立的に歩けるようになったらしい)。生命力というのは大変なものだ。病名もやっと特定できたようだ。やはり免疫異常による「多発性硬化症」だった(でも私には3年前の病気との関連が未だにわからないhttp://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%90%b6%8a%88%8b%ea&mode=and&v=322&e=msg&lp=322&st=0)。ヨーロッパではそれほど珍しい病気ではないらしい。「厚生労働省」から「難病」扱いされているが、先生は「直しますし、直ります」と言ってくれる。後者の「直ります」という言葉がいい。でも、この病気は「芦田さんのように聡明な方に多いんです」と根拠のないことも言うから、あやしいことはあやしいが。この先生は、学究肌の先生でいつも早朝は髪が立っている。話し始めると1時間、2時間、病気について話してくれるらしい。テラハウスで言えば、芦沢(兄)先生のような感じ。だからヘンな先生だ。そんな先生が「聡明な方 … 」と似合いもしない冗談を言うから余計におかしい。でも髪型にこだわる先生よりははるかにましかもしれない。 免疫異常というのは不思議なものだ。女性の免疫性で一番不思議なのは、受精から出産までの経過だ。胎内の子供は彼女にとって他者(異物)だが、彼女の免疫機能は、そのとき、そう認識しない。〈出産〉とは、その他者を他者として認識することの結果に過ぎない。出産は免役機能の一つに過ぎない。だから、受精から出産までの経緯は女性の微妙な免疫バランスの中で生じている。女性の「多発性硬化症」が男性の2倍もあるというのは、そのためだろう。 むかし免疫学者の多田富雄が書いた『免疫の意味論』(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00944722&volno=0000)がちょっとしたブームになったことがあった。この著作の最大の錯誤は、免疫的な同一性と他者(異物)性という概念(生物的な概念)を、自己性と他者性 ― 彼は「自己」と「非自己」という言い方をする ― という哲学的・思想的な概念と同列に扱ったことにある。免疫的な同一性と他者と、哲学的な自己と他者との違いは、前者は機能的な差異に過ぎないが、自己や他者は(断じて)機能ではないということだ。〈自己〉という哲学的に長い歴史と研鑽を積んだ概念に、多田は単に無知なだけである。こういった研究者を“お調子者”と言う。 それは、単に経営学的な(凡庸な)組織論にすぎないものを似非哲学的な組織論を駆使して語ろうとする一橋大学(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=92)の野中郁次郎(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%CC%EE%C3%E6%B0%EA%BC%A1%CF%BA&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=1&s1=za&dp=)の錯誤と同じものだ。そもそも「知識マネージメント」なんて、グループウエアが常識の時代においてはフツーのことだ(彼はパソコンができない)。KJ法がワープロの出現においてもはやそれとしては意味がなくなったように(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=30)、「知識マネージメント」もネットワーク時代のパソコンにおいては意味がなくなっている。それに気づいていないのは野中(野中一派)だけだ。どちらの“学者”もそれぞれの専門分野の研究者からはまともに相手にされていない、できそこないの研究者に過ぎない。専門的でない研究者はすぐに哲学や社会論に頭を突っ込みがちになる。困ったことだ。 研究者というのは、まともな研究者であれば、他分野の概念を使ったりはしないし、他分野の話題に入り込みもしない。最近、イラク問題でいろいろな研究者がテレビに呼ばれて話し続けているが、テレビに出ている大学人があやしいのは、テレビでは突然専門外のことについて質問されたりすることがあり、それについて応えなければならない場面が多々あるからだ。結局、常識をなぞっただけの事しか言えなくなっていく。久米宏(http://www.oto.co.jp/otokumehiro.html)や田原総一朗(http://www.mmbc.jp/mmbc/kolam/pulo/tahala.html)の振りに「したがって」とか「それゆえ」というような書き言葉で(西尾幹二http://nitiroku.hp.infoseek.co.jp/ のように)対応しているかぎりは、テレビの〈現在〉 ― というかテレビの本質は〈現在〉にしかない ― に応えきることができない。〈専門性〉とは、時間制で言えば、かぎりなく過去と蓄積と用意であって、拡散する〈現在〉には決して馴染まないものなのだ。 だから本来の大学人は、テレビには向いていない。ただ黙々と自分の専門分野のことについて(誰にもわからないテクニカルタームで)語り続けるか、それとも沈黙し続けるかのいずれかであるからだ。他人がわからないことをしゃべる、あるいは沈黙するというのは実は大変なことなのだ。それが大学人の誠実というものだ。こんなことが通俗的なおしゃべりをし続けるジャーナリズムに合うわけがない。だから、テレビに出る大学人はもはや専門家ではない。テレビに出るくらいなら、専門分野の穴蔵の中に一生閉じこもっていたほうがいい。 ところで、江畑謙介(http://www.namiki-shobo.co.jp/html01/kiko019.html)はいつ寝ているのだろう。NHKにずーっと出続けている。それに髪の毛が10年前の湾岸戦争と時よりも増えている。ロゲイン(http://www.456.com/rogaine2/)が効いたのかもしれない。アメリカの軍事戦術の成長よりは、江畑謙介の髪の毛の成長の方がはるかに大きい。 |
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