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 番号 日付  題名 投稿者 返信元  読出数
1095 9/29(木)
13:55:56
 「チェックシート」も「最初の二ヶ月」もそれだけでは役に立たない。  メール転送 芦田宏直  No.1059  4337 

 
また今日木曜日の昼食がダメになってしまいましたが、「Y」先生、先生の授業「経験」は、“良心的な”授業の部類に入りますが、それ以上でも以下でもありません。

たぶんほとんどの専門学校や大学で、少しでも授業運営のことをまじめに考えている先生であるならば、チェックシートやいくつかの教材(サブテキスト)くらいは用意するだろう、教場見回りも怠らないだろうといういみで、これは標準的な授業のまともな部類にたしかにはいると思います。

われわれが、この先生のタイプの授業でさえも不満だったのは、「再提出」の問題です。課題提出型で授業を進めていくと、必ず出さない学生が出てきます。そして「再提出」を一度許すとますます締め切りに間に合わせない学生が出てきます。学生が間に合わせないばかりではなく、教員も時間やカリキュラムや授業計画を遵守する傾向を失い始めます。「再提出」は、追再試とほとんど同じ悪弊を残すわけです。“後でなんとかなる”というものです。

「再提出」は試験で言えば、落第です。落第の意味は二つあります。一つは学生が落第したこと。これは月並みな意味でそうです。もう一つの落第があります。なぜ、期日が守れる指導ができなかったのか、何十時間も授業で同伴指導しているのに、なぜ期日にまともな作品を提出させることが出来なかったのか。その意味で“落第”は、学生の落第の前に、その教員の落第なのです。「再提出」主義は、その教員が落第している現象を覆い隠すように機能します。

もう一つの問題。チェックシートの問題です。われわれもチェックシートを有していますが、(私の経験では)これも解決にはなりません。理由は二つあります。

1)チェックシートが本来的に機能するのは、たとえば、「方位は記入されているか」などの極めて単純な項目についてだけであって、この種のシートにすべて○が付いたからと言って、それで“合格”とは言い難いということ。加算総和は、真理ではないという意味でも。

2)だからといって、「敷地が有効に活用されているか」、などという抽象度の高いチェックになってしまうと、○を付けるにしても×をつけるにしても、その意味があいまいでチェックシートの意味をなさないこと。「有効」とか「活用」の意味自体を細かく分節化する必要が出てきますが、細かくすればするほど(このレベルでは)“考え方”の違いが前面化し、“採点”に馴染まない傾向が高まること。

だから、課題作品に対してチェックシートで評価を客観化するというのは、(避けられない方途ではありますが)問題の解決にはならない。

われわれは、したがって、(われわれの教育改革以後は)課題提出や課題作品を履修判定には直接用いません。かならず、〈試験〉を行います。試験の中で実習試験を行います(実習授業であっても必ず知識要素を50%くらいは取り入れています)。本格的なものになると実習の試験を2時間、3時間かけて行う場合もあります(2級建築士試験や1級建築士試験のように)。いずれにしても、授業時間の中で作られていく作品を履修判定の対象とはしません。

授業時間の中で作られていく作品は、教員との“合同”作業の結果に過ぎないからです(ペーパー試験で言えば、カンニングの連続のような試験にすぎない)。それは学ぶ過程での作品であって、試すための作品ではあり得ない。教員のアドバイスが一切ない状態で何を描けるのか。それが教員の実力、学生の実力を問う本来の試験であるはずです。チェックシートが生きるのも死ぬのも、試験を授業プロセスから完全に切り離すことが重要です。ほとんどの専門学校、大学は、このことができていません。課題提出主義(=個別指導主義)は、授業プロセスと試験の境界をあいまいにし、そのことによって担当教員の教育力評価、学生の本当の(=自立的な)実力評価をあいまいにしているのです。

一方、実習の提出物管理については、一日一課題主義を取り(90分授業×四コマの中で1作品を仕上げるカリキュラムになっている)、二級建築士試験の製図試験のように4時間半で製図を仕上げるための訓練を早い時期からやっています。作品課題を長期のスパンで構えると必ず進捗管理が破綻するからです。

先の非常勤の「U」先生が作品提出ができていない学生がほとんどだったというのは(「前回、たった2人しか提出できなかったのに、今回は4人を除く全員が提出してきました」http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=1091.1059.5)、期末においてそうだった、ということではなくて、一日課題で破綻していた、ということにすぎません。すぐにでも取り戻せる破綻に過ぎないのです(だから、われわれは“介入”したわけです)。期末での破綻は取り返しがつきませんが、カリキュラム全体を工夫すれば(“良心”や“善意”で工夫するのではなく)、全体の水準を確保することができます。われわれのカリキュラムでは、一日課題を日々螺旋状に上昇させていくことによって、複雑で高度な作品をクラスの誰でもが描けるようになっています(まだまだ不満なところはありますが)。

最後に、「最初の二ヶ月」は確かに大切ですが、その後もずっと大切です。大概の専門学校は、2年生になると出席率が落ちます。学校の履修システム(=試験評価)の杜撰(ずさん)さが上級生には見えてきて、学校の“過ごし方”を覚え始めるからです。

本来は、上級生になればなるほど、専門性の高い、興味深い中身を学ぶことになるのですから、出席率は高まるはずですが、そうならない現状があります。それは「最初の2ヶ月」では律しきれない何かです。

結局、第1にはカリキュラムが破綻しているということ。第2には1年生の基礎を学ぶとそれなりに(製図の)手が動くようになり、ほおっておいても授業はすすむようになりますから、2年生の授業は「はい、昨日の続きをやって下さい」の連続、個別講評の連続になります。これでは高度知識、高度技術は身に付かないし、もちろん出席率はあがらない。熱心な学生が自分で勉強し続けているだけのことです。

現在、われわれの建築科の平均出席率(今年度9月29日現在)は、1年生98%。2年生98%です。改革前は、1年生と2年生とでは10%くらいの差がありましたが、ほぼ同じ出席率を確保出来るようになりました。われわれは2年次に於ける就職活動も“欠席扱い”しますのから(おそらく全国でもっとも厳しい、かつ精度の高い出席カウントをしています)、それを勘案すると今では2年生の方が出席率が高いとも言えます。やっと“正常”な状態に戻ったということです。このような成果(とりあえずの成果)は“良心的な”教員の“熱心な”取り組みからだけでは絶対に生じません。

授業や教育の破綻を学生や教員の個人的な問題にすりかえず、履修評価システムの全面的な見直し(それに基づくカリキュラム全体の見直し)なしには、あり得なかったものです。現在の教育課題は、出口(企業側)の要求に対しても、入り口に於ける現状(いわゆる“基礎学力低下”)に対しても個人的な努力で何とかなるほどには甘くありません。学校全体が教育のノウハウを蓄積し、組織的に改善を積み重ねていく必要があります。そのこと以外に、個々の教員の専門的な、そしてまた個性的な研鑽がフルに発揮されることはありえない、と私は思います。


1059 校長の仕事(18) ― 建築と構造力学 メール転送 芦田宏直 ↑この記事を引用して返信を書く
    ┣ 1087 返信: 校長の仕事(18) ― 建築と構造力学 メール転送 芦田宏直
    ┣ 1088 1087番への返信:「改革」は進むも地獄、後退するも地獄。 メール転送 芦田宏直
    ┣ 1089 精神分析は医学か文学か メール転送 u
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    ┣ 1097 「最初の二ヶ月」教育は学生をバカにしている。 メール転送 芦田宏直
    ┣ 1098 学生をバカにするわけがない、むしろ愛情の表れだ。 メール転送 Y
    ┣ 1099 学生だけが『聞く姿勢』『学ぶ姿勢』『考える姿勢』がないのではない ― 私は断固学生を擁護します。 メール転送 芦田宏直


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