2002/5/4(日) 芦田宏直
この第三期総集編のトップ記事は、「クルマ購入法10箇条」(532番)でヒット数は469、第二位は「宇多田ヒカルの最新アルバムを聴いて」(517番)ヒット数450、第三位は「倒産しそうな会社で働く人たちへ」(570番)ヒット数412、第四位は「マンション大規模修繕10箇条」(375番)ヒット数375、第五位は「清水の孤独 ― 金メダルを取るということ」(548番)344ヒット、第六位「 キムタクの人気と信仰について」(521番)340ヒット、第七位「お正月の二人」(513番)ヒット数331、第八位は「現役論 ― 永坂田津子の1周忌によせて」(559番)315ヒット、第九位は「季節はずれの桜と二匹の犬」(595番)ヒット数307、第十位は「東京工科専門学校式辞」(612番)ヒット数286と続く。私が個人的に好きなのは、"二匹の犬"論。570番の倒産会社論も、「忙しい」と一言アップしたことがとんでもないことになってしまった印象深い議論だった(ヒット数はいずれも4月28日現在)。
ところで、この第三期総集編は、「芦田の毎日」の4月28日以来の中断がきっかけになっている。
「返信」者同士の“誹謗中傷”が相次いだからだ。しかも、他者の名前を装ってのものさえもでてきてしまった。それが中断の理由である。
しかし、こういったものがインターネットである。インターネット現象そのものである。そしてインターネット現象とは、世界論、あるいは人間の根本現象ですらある。
そもそも、こう書いている私が、芦田「である」ことさえも不確かなことだ。そう語っている「芦田」が、芦田でないとしたら。
ドレイファスは、最近翻訳された『インターネットについて』という本の中で、インターネットには、身体が介在していないということを非難しているが、とても哲学者とは思えないほどひどい議論だ。
むしろ、インターネットは、根本的に匿名であることによって、身体的なのである。
たとえば、私は、匿名であるが故の“誹謗中傷”が生じれば、「芦田の毎日」を中断することが〈できる〉。つまらなくなれば(個人的に)やめればいい。これはあらゆるインターネットサイトの根本原理である。これは、私自身が身体的に反応したということである。
この場合の“身体”ということについて、私は、今から15年前(もう15年経ってしまった)に以下のように書いていた(拙著『書物の時間』のあとがき(「累積について」)。少し長いが引用してみる。
「自分が当然だと思っていることでも、他人にとってはそうではないことがある。感情的なこと、価値に関すること、あるいは経験的なことについては、そういうことは日常的にありふれたことであるにしても、だからといって理性的なことでは、それが例外的なこととは言い切れない。むしろ経験的なたぐいのことについては、初めから他人の趣向や環境と合わせること(一致させること)など諦めきっているところがあるから、かえって、他人の違うことが問題になることなどないのである。
しかし、仮に理性が、あるいは理性と言われているものが感情や価値や経験性と区別されるところが後者の相対的な性格を脱するところにあるとすれば、理性的なことについて『他人にとってそうではない』という事情は放置できることではないであろうし、なかなかあきらめきれるものではない。ひとは、『証明』『論証』『妥当性』などという理性の言葉が、対立の和解のためというよりも、その対立の組織化のために用いられもすることをよく知っている。
むろん、このことは、『そうではない』他人を説得することの問題、『説得の技術』に関わる問題に横滑りさせるべきではない。理性的な事柄は、だれにでも、それとして理解されることであるはずなのに(自分と違って)『他人にとってそうではない』ということは、理性的なことが承認(納得)を待って初めてそれであるということではないだろう。
個人が或る事柄を承認するかしないかは、どのように事柄の内容を制限しようとも ― ここまでは理性、ここからは感情、ここまでは事実、ここからは価値というふうに ― 心理的な問題に帰趨するはずである。
個体的(身体を有した)個人ということで言えば、人は、心の底では承認していても『否』と言うことができるし、またわかっていなくても、わかったふりをすることができるからである。そして、そういったそぶりを『真である』とか『偽である』というふうに判断する材料それ自身が経験的に相対的な性格を帯びざるを得ないことははっきりしている」(『書物の時間』「累積について ― あとがきにかえて」347ページ〜348ページ)。
この引用の最後半部、「人は、心の底では承認していても『否』と言うことができるし、またわかっていなくても、わかったふりをすることができるからである。そして、そういったそぶりを『真である』とか『偽である』というふうに判断する材料それ自身が経験的に相対的な性格を帯びざるを得ないことははっきりしている」というところが、インターネットの情報交換の原理である。インターネット情報の最大の原理は、匿名性ということである。匿名性というのは、名前が明示されていないということではなくて、名前もまた偽りでありうることを意味している。
そういった“自由”が、インターネットが広範な情報交換の場になっていることの意味である。誰の検閲も受けずに発信できる情報とは、もともとが身体的であるがゆえの自由なのである。
つまり、〈インターネット〉とは、固有名詞が形式的であると同時にもっとも実体に近い指示性を有していることの両義性そのものだということだ。
この続きの議論は、ぜひ、第四期「芦田の毎日」の最初の議論としたい。今しばらくお待ち下さい。なお、この再開までの交信は、芦田のメール(ashida@tera-house.ac.jp)までお願いします。
以下が第三期総集編です。
2002/1/1(火)01:11 - 芦田宏直 - 344 hit(s)
紅白歌合戦が終わりました。私的なベストランキングは、以下の通り。
第一位:イムジン河(キム・ヨンジャ)
これはすごかった。私はモダンな日本的ジャンルとしての“フォークソング”=「イムジン河」を期待していたが、曲が始まって、なんだ演歌になっているじゃないか、と失望していた。ところが数十秒経つとこれがまたすごい。どんどん聞かせ始める。「イムジン河」は本当の民族の唄だったんだ、ということがわかりはじめてなぜか涙が出てきて止まらなかった。要するに私が30年前に聞いていた「イムジン河」の方がウソの唄だったというのがよくわかった。キム・ヨンジャはすごい。
第二位:大井追っかけ音次郎(氷川きよし)
これは思いの外よかった。氷川きよしは一年で声もよく出るようになった。何よりもスピード感(立ち上がりの力)と力感がある。由紀さおり姉妹がいくら技術で唱っても追いつけない魅力があった。五木ひろしも森進一も北島三郎もたんにうまいだけで魅力的ではない。氷川きよしの唄は、演歌陣の中では圧倒的だった。
第三位:出逢いの唄(吉幾三)
吉幾三は、いつも紅白がいい。同じ演歌歌手でも自ら作って、歌える貴重な歌手で、その創作性が演歌にインテリジェントな匂いを含ませている。相変わらず、唄の最後で泣いていたが、最後は笑ってごまかしていた。創作者でありながら泣いているのがこの人の魅力のすべてだ。
第四位:fragile(Every Little Thing)
これは、若手の中では秀逸だった。いつもほっぺを赤く塗りすぎていて歌を聞く前に顔を見て笑ってしまうELTだが、今回は少し赤みを押さえて素直に曲が聴けた。浜崎あゆみくらいに化粧の仕方を教えてもらえばいいのに。衣装も珍しく素敵だった。頬が赤くない分、髪の毛が少し赤みがかかっていて、みどり色の衣装とよく似合っていた。ZONEのsecret baseは、相変わらずボーカルが小憎たらしい顔をして唱っていたし、しかも、この唄のいちばんいいところである中間のイントロのところで唄が終わってしまっていたのが残念だった。えなりかずきは、なぜいつもあがらないのか。こいつは親父が死んでも同じ顔をしているのかもしれない。
第五位:楽しい人が好き(香西かおり)
この唄は、作曲・作詞:中山大三郎の勝利といった感じの唄だった。初めて聞いた歌にもかかわらず、いまだに印象に残っている。むかし、都はるみの「にごりえの町」という唄も紅白で初めて聞いて感激したことがあったが、この唄もなかなかのものだった。
5位以下はない。相変わらず、和田アキ子は最低の歌手だ。単にあがり症だというのではなく、単に唄が下手だ。なぜ、誰もそれを指摘しないのだろう。個人的には安室奈美恵のSAY THE WORDに期待していたが、やっぱりすごくあがっていてダメだった。踊りはよかったが、腰の幅の広いベルトのコスチューム(横のライン)が踊りのライン(縦のライン)の美しさを妨げていて台無しだった。浜崎あゆみや小柳ゆきは不良であればこれくらいは唱えるよな、という感じの歌唱力にとどまっている(なんでレコード大賞が取れるのか? カラオケ通いの不良には一筋の光明かもしれない)。ゴスペラーズは、ゴスペルを一度も聴いたことがないのか? よくそんな名前が付けられるものだ。普通の歌手としては普通の歌唱力なのだから、「普通’ズ」という名前でも付けていれば、唄が「うまい」と言ってやってもよかったのに。
なお、同時に見ていた6chの格闘王決定戦(K1 vs プロレス)では、アメリカ人ドン・フライとフランス人シリル・アビディの戦いがもっとも印象的だった。アビディの負けたときの表情が何とも言えなかった。プロレス派のドン・フライは、終始落ち着いていた。この落ち着き方は、プロレスがK1 より強いというよりはドン・フライ自身の人格に依存しているように思えた。
さらに同時に見ていた4chのナイナイの岡村は、外回りで終始滑っていた。芸人は一度滑り始めると止められない。特に外回りのロケでは大変だ。最後には火の中に突っ込もうとしていたが、本当はチンチンを出したかったのだろう。でも生放送では無理なことだ。嗚呼、岡村 … 。
2002/1/5(土)02:32 - 芦田宏直 - 331 hit(s)
みなさん、お正月はどうでしたか? 貧乏な我が家は、恒例の元旦映画鑑賞。一年で唯一の劇場鑑賞の日。しかも家族一家で(といっても長男一人ですから三人だけのことですが)。去年は息子の受験勉強で一年ぶりの元旦映画鑑賞でした。時間は午後13:30開始が一本目。場所はほとんどが伊勢丹前の新宿スカラ座か新宿文化シネマか新宿東映パラス。今回は新宿スカラ座「スパイゲーム」(ブラピとロバートレッドフォード)と新宿東映パラス「バンディッツ」(ブルースウイリス)の2本を見たが、どちらも面白くなかった(「スパイゲーム」70点。「バンディッツ」65点)どちらも“前半”が長すぎる。カメラと音楽は「スパイゲーム」の方が断然よかったが、あと30分長くないと外国人=日本人である私たちにはにはおもしろいところが8割しかわからない。「バンディッツ」のブルースウイリスは、いつ見てもブルースウイリス。この役者もそろそろ別の芸風をもたないと、高倉健や仲代達也になってしまう。本当は2本目にはトムクルーズの「バニラスカイ」を見たかったが、「スパイゲーム」のあと、あまり時間がなくて、すでに最前列しか空いておらず、やむなく「バンディッツ」になってしまった。いずれにしても2本とも70点以上の映画になったことはない。こんなもんでしょ、映画なんて。
そういった映画ニヒリズムに陥ったときのために行くのが新宿ルミネ前の地下「天狗」。我が家族は誰一人も酒を飲まないが下手なファミリーレストランよりは「天狗」のメニューの方が楽しい。「ウーロン茶三つ」から始まって、酒なしで、3人で8000円近く食ってしまった。お正月のDINNERとしてはしけた金額だが、「天狗」を酒なしで8000円というのは結構なものだ(わかるひとにはわかる)。「バーミヤン」で三人で8000円近く食べて、レシートに(なぜか)「6人」と記載されている大食い家族が芦田家なのである。天狗で元旦にこれくらいくってもおかしくはない。しかも映画が面白くなかったのだからこれくらいは当然だ(やけ食い)。
毎年思うが、元旦でも新宿には人が結構いる。特に若いカップルなんかに会うと、この子たちは、どうやって(どんな言い訳をして)家から出てきているのだろうと思う。元旦から家を出るのはなかなか難しいことだ。私は(なぜか)中学時代から今の家内とつきあっていたので、元旦や三箇日にデートなんてとてもできなかったことを思い出す。紅白歌合戦を見ることも正月三箇日もその日くらいは家の者と一緒にいるのが年末年始というものだろう。もともと年末年始というのは、〈終わり〉や〈生誕〉という行事なのだから、それは家族(死と生誕の場所)の行事なのである。だからみんなあんな渋滞に巻き込まれながらも田舎に帰る(家族を意識する)。正月三箇日(+紅白歌合戦)くらいは、恋人のことを思ってイライラしながら家族と過ごすというのが、その過ごし方だろう。もともと家族というのはイライラするものだ。それは死と生誕という矛盾した時間を有しているからだ。
「こいつら、家族はどこにいるんだろう」と思って、「天狗」の席の斜め前の若いカップルをずーっと見ていた。そういった家族との緊張感をほおっておいてデートに走る女で、無事に自らの家族を構成する女なんてごくわずかだろう。気を付けておいた方がいいですよ、となりの彼氏。そういえば、新宿に出るときの京王線では、大晦日をラブホテルですごした(と思われる)二人が前に座っていた。着替えていないストッキング(糸が解れそうになっている)がその証拠。これも寂しい。いつでも会えるのに大晦日くらい家族のところに帰れよ。ラブホテルのベッドで紅白歌合戦なんて、サイテーじゃないか。還ることのできない女性が出ていくこと(お嫁に行くこと)なんてできるわけがない(セクハラか?)。
ところで、私は年賀状をまだ書けていない。結局、今年は書けずじまいか … 。私自身が終わり方と始まり方を仕切れていないのかもしれない。
2002/1/9(水)23:56 - 芦田宏直 - 450 hit(s)
宇多田ヒカルの最新DVDが2枚出ている。「UH2」(2001/9/21発売)と「UNPLUGGED」(2001/11/28発売)。最近、年明けに2枚買ったが、「UH2」(ビデオクリップ集)は買わない方がいい。衣装も化粧も映像も三流の駄作クリップ集だ。「UNPLUGGED」は、ライブDVD(MTV UNPLUGGED)。Wait&Seeから始まって、FINAL DISTANCEで終わる8曲集まったアルバムだが、これは悪くはない。最初、バンドの連中と音が合わなくて3曲目のAddicted To You からやっと何とか聞けるようになってくるが(最後になるほど演奏者とボーカルがぴったりと合ってくるが)、宇多田の唄の歌い方が手に取るようにわかってなかなかのものだった。小さな収録用のスタジオで唱っているため、メイクも衣装も普段の生活並みにそこそこ(UNPLUGGEDな化粧と衣装)。それがまた〈歌〉そのものを浮かび上がらせていてよかった。それがタイトルにあるUNPLUGGEDな感じ(PLUGを抜いた、リラックスした感じ)なのだろう。でも演奏者はもう少しお金をかけてワンランク上の連中を集めてもよかったと思う。ピアノもギターも編曲(特にストリングスの編曲)も60点ぎりぎりだった。現在、私の手元にある宇多田DVDのうち(UH1、ボヘミアンサマー2000、UNPLUGGED)、どれか一つだけというなら、「ボヘミアンサマー2000」だろうが(この中で歌った、尾崎豊の「I love you」と山口百恵の「プレイバックpart2」が特によかった。特に尾崎の「I love you」を尾崎以外の人が歌って様になったのを聞いたのは、この宇多田の歌が初めてだった。ついでにお母さん、藤圭子の「新宿の女」を歌ってほしかったが)、二枚目を買うとしたなら、この「UNPLUGGED」だ。宇多田の熱心なフアンなら「UNPLUGGED」が一番かもしれない。
特にこのアルバムで藤圭子が全面的に宇多田をヘルプしているのがよくわかった(ちらちらとメイキングの場面で藤圭子が映っていたのが印象的だった)。私は、宇多田が歌っているときにはその最善の時でさえ(最善の時にこそ)藤圭子のほんの一部の才能でしか歌っていないと思っている。それくらいに藤圭子はすごかった。藤圭子の歌を聞きたいから、宇多田を聞いているようなものだ。現に藤圭子は、宇多田が世の中に登場してからは自らは歌おうとしない。たぶん、我が娘、宇多田ヒカルが自分(藤圭子)を歌手として抜いたときに、再び藤圭子は歌い始めるような気がする。誰にも(娘にも)言わない心の奥底でそう思っているような気がする。
私は、個人的にはAddicted To Youが一番好きだが(最新の「traveling」はパワーが落ちている)、ここ(「UNPLUGGED」)でしか唱われない仕方でのFINAL DISTANCEもよかった(「UH2」のFINAL DISTANCEはサイテー)。
宇多田は決して歌がうまいとは思えないが(それでも紅白歌合戦の和田アキ子よりはうまいが)、作っている人が歌っているという強みが前面化していてトータルには魅力的な歌になっている。加藤登紀子が作って歌っても弱みにしかならないが、宇多田はそれが強みになっている。
浜崎あゆみも下手ではないけれど声の種類が一種類しかないのでたぶん長持ちしないだろう。森昌子のようなうまさでしかない。松田聖子の方が(浜崎より)うまいと言えるのは、声の種類が多重にあるからだ(最近は歳を取ってその多重な声音が平板化しつつあるが)。作りはしない〈歌手〉というのは、歌の解釈が命だから、声の色が均質なのは命取りだ。歌を自由にこなせないからである。CHEMISTRYなんて、〈歌手〉と言えるほどに歌がうまいわけではない(ゴスペラーズはもっとそうだが)。彼らも自分たちで作っているのだろう、と思って下手な歌を許していたのに、(年末の紅白歌合戦のときに)息子に聞いたら他人が作った歌を歌っているらしい。許せないことだ。自分(たち)で作っていないにもかかわらず、歌う人(たち)は、みずからの歌(作者によって与えられた歌)の解釈を自由にできるだけの力量がなければならない。この〈解釈〉を歌唱力というのだから。稲垣潤一だって、シンガーソングライターみたいな(モグラみたいな)顔をして人(他人)が作った歌を歌っているが、他人が作った歌を歌っている割には歌が下手だ。まして秋元康なんてチンピラ作詞家が作った歌(たしか「ドラマティックレイン」という〈雨〉についての理解がきわめて通俗的な駄作があったと思うが)を歌うには美空ひばり並みに歌を自由に解釈できる歌唱力(同じく秋元康作詞の、〈川〉についてのきわめて通俗的な理解に満ちた「川の流れのように」なんて、美空ひばりが歌わなければ誰も取り上げなかった歌だろう)がないとダメだ。
音楽業界では、ちょっと下手な歌手は、「シンガーソングライター」として“売り出す”のが常道になっている。もちろん本人が作っているわけではない。あるいは、人気が落ちてくれば、松田聖子「作詞」なんて変種も出てくる(松田聖子に歌詞としての詩が書けるなんて、あるわけがない)。最近で言えば、有里知花という新人歌手は、歌が下手なため、英語で歌って登場している(「Island Dancer」という曲)。なかなかしゃれた曲で思わず買ってしまったが、何語で歌っているかわからないくらい英語も下手だった(私の息子は、「これ、中国語?」と真顔で問うていた)。たぶん、この歌手が日本語でそのまま歌ったら私はこの新人歌手を認めはしなかっただろう(現にこのアルバムの最後に「友情」という唯一日本語で歌う歌が入っていたが、聞けたものではなかった)。プロデューサーの売り出し戦略の勝ちなのである。
作ることとそれを歌うこととの間には、微妙な関係がある。作ろうが、歌おうが、歌われた歌は、それ自体、〈存在する歌〉でも〈歌う〉ことだけでもない、相乗的な力強さを持たなければならない。宇多田の歌う唄には、それがあるように思えた。それでも、歌うことしかしなかったお母さん、藤圭子には未だに勝てていない(永遠に勝てないだろう)。だから藤圭子は永遠に歌わないような気がする。私は、この藤圭子の決断を絶対的に支持する。
2002/1/24(木)22:52 - 芦田宏直 - 202 hit(s)
本日、テラホールに、三井物産戦略研究所所長の寺島実郎氏を招いて、持論のNPO論を展開していただきました。久方ぶりの知的なナマ話に刺激を受けました。従来の彼の著作からの話と今日の話を織り交ぜて紹介します。
寺島実郎のNPO論は、従来からそうですが、三つの視点がある。
一つは、〈公(パブリック)〉という概念は〈官〉でも〈民〉でもない。日本社会では、民間の紛争を何でも〈官〉に訴えて解決するという“オカミ”崇拝の傾向がある。また一方では、“民間にできることは民間に”という小泉的な市場開放論がある。しかし、〈公(パブリック)〉は、市場主義的な〈民間〉に対立する〈官〉を直ちに意味しないし、また民間中の民間であるボランティア運動的な〈公(パブリック)〉でもない。このことの意味は残りの二つの契機を重ねればわかる。
その二つ目。3人に1人が60才を超える高齢化社会を前に、税金を徴収してそれを再配分するという古典的な図式では、消費税の税率の議論を超えて膨大な税負担を勤労者(高齢社会ではどんどん減っていく勤労者)に強いることになり、社会的な窒息死は必然となる。介護を税金(端的な他者)でまかなうことなどできないわけだ。新しい〈地域〉概念や〈パブリック〉という契機(アメリカのようにNPOへの寄付行為が減税処置される契機)がそれを救うことになる。
その三つ目。IT化社会は労働を単純化する。ワークシェアリングもIT化によって“中間管理職”がいなくなり、労働が平板化しているからこそ可能な政策であって、フリータの増加もそのことと無関係ではない。〈労働〉に“生き甲斐”や“キャリア”という概念が入り込めなくなっている。若いフリータたちは、その分、“自由に”生き始めたのである。従来の縦社会の階段を昇っても最後は階段を外されるお父さんの末路を見ているからである。しかし彼らは、従来の概念で言えば、低賃金労働者にすぎない。リストラされたお父さんは、だからそれでも反論する。若いうちはいいが、歳をとったら、どうするんだい? と。ここで、寺島は、パブリックという概念を持ち出す。低賃金であっても、パブリックな仕事に生き甲斐を見出す〈労働者〉がいてもいいではないか、と。単に〈ボランティア〉でもない。かといって〈官〉でもない“公共的なフリータ”。これがNPO組織である。なんとアメリカでは1000万人の雇用をこのNPOが吸収しているという。歳を取ったフリータは、“公共”化する。あるいは低賃金労働者は、公共労働(NPO)の中で、“生き甲斐”を見出す。フリータの“自分探し”は、〈公共性〉にその終点を見出すのである。
これが、寺島のNPO論である(かなり私の勝手な解釈が入っているが)。下手なフリータ論よりもずっとおもしろいのが、寺島NPO論である ― 最近読んだ玄田有史(学習院大学経済学部教授)の『仕事の中の曖昧な不安 ― 揺れる若年の現在』(中央公論社)は、若いフリータを〈自営〉志向で総括しているが、これは寺島よりはるかに通俗的でくだらない議論だ。
私には、寺島のNPO公共論は、共産党や公明党の“低賃金労働者”が、「それでも私は、〈社会〉のために頑張っている」と歯をくいしばって機関誌を朝早くから配ったり、選挙運動をヘルプしているのとほとんどかわらないことのように思えるし、また、新保守主義や新歴史主義(たとえば、西部邁のような左翼転向者のそれ)における“パブリック”とほとんど変わらないもののようにも思える。
ただ、そういった〈思想〉なしでも、つまり若い(“落ちこぼれ”の)フリータにこそ公共性が成立するということを指摘している点で、新しい事態を指摘しているとも言える。
テラホールは、“ハイタッチ”な満杯の人で埋まっていた。久しぶりに刺激に満ちた講演会だった。
2002/1/27(日)21:11 - 芦田宏直 - 340 hit(s)
キムタクは、どうも気にくわない。先週、8chの「スマスマ」の稲垣吾郎復帰を見ていたが、キムタクはどうも気にくわない。たしかにきれいな顔をしていると思うが、“かっこよさ”というものが、他人の視線の中でしか形成されていない。彼の人となりのよさもよく耳にするが、それも、そう振る舞うのがかっこいいというイメージを実際に振る舞っているだけのことだ。実際にそうするのが難しいという意味ではほめられることかもしれないが、かっこよさの内容そのものは通俗的だ。私がキムタクがいいと思った最初で最後は、『あすなろ白書』の取手治クン役の演技だった。このときは、他人の視線を気にしない(脚本をよく理解した)むき出しの取り組みがあった。
こういった、他人に見られること、他人の表象に合わせることは、人気者(アイドル、芸能人)の条件なのだろうが、そういった人たちも、何年か経つと“自分自身”を見出したり、その“自分自身”を認めてくれるファンを見出したりし始める。もっとも前者と後者との区別を截然とするのは難しいことだが。
他人に見られることを存在の条件とするという意味では、ほとんどの宗教がそうだ。この場合、他人とは〈神〉のことである。神様は何でも見ていらっしゃるのよ、とクリスチャンの母親が娘に教えたら、神様ってエッチな人ね、と娘が答えるエピソードを伝えていたのは、ニーチエだ。その通り、クリスチャンはみんなエッチなのである。神なしにはセックスすらできない(というより神への不倫なしにはクリスチャンのセックスは存在しない)。キルケゴール(クリスチャンの“実存”主義者)の言う「不安」なんて、神が見ている中の宗教的「不安」にすぎない。しかし、本当の不安や孤独は、神さえも見ていないという(自分は世界の、あるいは世界を超えたも誰からも見られていないという)不安、孤独だろう。宗教者の不安なんてたかがしれている。キムタクの人気がたかがしれているように、宗教者(信仰者)はすべて三流の芸能人にすぎないのである。その意味で、信仰者とは、一人になれない者のことを言う。あるいは厳密に言い換えれば、一人になるために神の(もう一人の他人の)力を借りる者のことをいうのである。
もちろん、本当の不安、孤独は、自分が本当に一人でしかないことに気づくことの中にしかない。自己というものがあるとすれば、それは単独で(社会的にでもなく、宗教的にでもなく)自分に向かうことの中にしかない。
会社の仕事でも、人が見ていないと仕事をしない人は、管理職になれない。社長が見ていないと仕事をしない人は、会社を大きくできない。マスコミが見ていないと会社を大きくできない人は、“社会”や“世界”を変えることができない。云々。こういった拡大の契機は、実は、すべて孤独や不安の契機である。〈経営者〉や〈リーダー〉が真に孤独「である」ことが、こういった拡大の諸段階を決めている。あなたは、孤独に仕事をしていますか?
2002/2/3(日)18:04 - 芦田宏直 - 469 hit(s)
クルマ購入法10箇条
1)一番に〈形〉だ。いくら高性能と言ってもカタチがよくなければ納得できないだろう。他人に洗車させるのがつらいくらいにカタチに惚れ込まなければ、買っても、走っても意味がない。特にリヤビューは大切かもしれない。リヤビューは一番長い時間、じっと見られる場所だから。先々代のシルビアなんて、リヤビューの美しさでだけで売れたようなものだ。後ろに付いているクルマのドライバーや助手席の彼女に、信号待ちで止まったとき「かっこいいね、このクルマ」と言わせたら、勝ちというところだろう。
たぶんクルマのデザインで一番難しいのはCピラー(クルマの天井をフロントで支えるのがAピラー、中間で支えるのがBピラー、後部で支えているのがCピラー)が降りているところだろう。ここは、サイドビューとリヤビューの整合を取らなければならない一番難しい造形だ。サイドから見れば美しいのに、後ろにまわったら陳腐、その逆でリヤから見ればきれいだのに、サイドビューが陳腐というのは、Cピラーの降ろし方(言い換えれば、リヤウインドウの三次元曲面の造形)を失敗しているのである。クルマというのは、全方位で見られるというのが、デザイナーの苦労のしどころだ。要するにデザイン的には、前も後ろもない。すべてが前方といってもよい。そういった緊張感が集約されているところ、そこがCピラーのラインだ。
たとえば、96年に発表されたBMWの5シリーズ(BMWの傑作の一つ)はサイドビューは優れているのに、リヤービューにまわると、小振りで場合によっては先代の3シーリーズと区別が付かなくなる(全幅が1800もあるのに、シルビヤや新カローラより小さく感じる)。これはCピラー、つまりはリヤウインドウの造形が通俗的だからだ。
Cピラーの天井から降りてくるラインが、サイド曲面を重視するか、リヤ曲面を重視するかでクルマの印象は決定的に異なってくる。両者の整合を取ろうとすれば、リヤウインドウを3次元的に立体化するのが一番楽な遣り方である(ガラス屋さんは技術的にいやがるが)。ポルシェ944のリヤウインドウやそれをまねたFC13BのRX−7などは、リヤウインドウの3次元化(リヤガラス面をサイド面まで曲がり込ませて、Cピラーをリヤビューから隠すこと)を徹底的に押し進めて、リヤビューとサイドビューの造形に整合性を持たせていた。見事な造形だった。
最近では、先代ホンダオデッセイがCピラーをリヤビューから見えなくすることによって、ガラス屋さんの技術に頼らないで(経済的に)、サイド−リヤの整合性をとっていた。オデッセイを乗用車のように見せるホンダらしいうまいやり方だった。
もう一つは、タイヤハウスの美しさもポイントの一つだ。これには、日本のクルマはすべて落第。日本は官許的な規制で、冬場のチェーンを付けやすくするためにタイヤとフェンダーアーチとの間に不均整な隙間が空けてある。この間抜けた空間が美しいサイドビューを台無しにしてしまっている。そのこともあって、タイヤハウスのデザインは日本では進化が止まっている。もっとも美しいタイヤハウスのデザインはフェラーリだ。誰が見てもバカが乗っているとしか思えないフェラーリもあのタイヤハウスの美しさにはうっとりしてしまう。
2)次は、エンジンではなくて、足回り。クルマには、飛行機や船舶と同じように、ロールイング、ピッチング、ヨーイングという3方向の揺れがある。ローリングはクルマを正面から見たときの左右の揺れ(コーナーリングに影響がある)。ピッチングは、クルマを真横から見たときに前後の揺れ(発進、加速、減速、停止といった場合のクルマの挙動に影響がある)。ヨーイングはクルマを真上から見たときの左右の揺れ(主にハンドリングに影響がある)。
この中でもっとも不快なのが、ピッチング。(たとえば信号で)クルマが止まるときにクルマのノーズが沈む、ふたたび発進(あるいは加速)するときに今度はノーズが浮き上がる(リヤが沈む)。これが日常的なピッチング。ダメなクルマほど、浮いたり、沈んだりの度合いが大きい。車酔いの原因の一つだ。ホンダの“高級車”レジェンドが、高級車でもなんでもないのは、ピッチングがひどすぎるからだ。急ブレーキを踏んでフロントがおおきく沈むクルマを高級車とは言わない。250万円以上のクルマを買うとき(試乗したとき)は、まず、急ブレーキを踏む。ノーズがおおきく沈めば、買うのを止めましょう。
ローリングは、特に高速でコーナーに飛び込んだときに、ノーズの内側がふくれあがる現象。優れたクルマほど、このふくれ上がりを制御してくれる。左へ曲がろうとしたらノーズの左側が自然に沈んでくれる(浮かばずに)、右へ曲がろうとしたらノーズの右側が自然に沈んでくれる(浮かばずに)、これがローリングに強いクルマの快適さ。
ヨーイングは、クルマの向きを変えるときに、クルマの前方が重すぎたり、後ろが重すぎたりすると、左右に降られる動きの収束が悪くなり、自在なハンドリングが阻害される動きを言う。フロントが重いクルマはハンドリングが鈍重だし、リヤが重いクルマ(ポルシェ911)は加重移動の影響が大きくて下手なドライバーはすぐにスピンさせてしまう。
これら三つの動きを不快感なく制御するのがクルマの足回り(サスペンション)。“乗り心地がいい”というのは、単にふわふわしているクルマではない。単に柔らかいクルマは先の3つの動きが複雑に増幅されて、危険なクルマ、酔いやすいクルマでさえある(ローリングは危険、ピッチングは不快、ヨーイングは鈍重な感じをクルマに与える)。単に足回りが堅いクルマもダメだ。堅い足回りが活きてくるのは、非日常域。通常の走り全体の10%もない、そのためだけにがちがちな足回りでは、意味がない。不快なだけ。とばさないと面白くないクルマも決していいクルマとは言えない。まともなスポーツカーを除いて、この三つの動きを上手に制御しているクルマといえば、(日本では)レガシィぐらいだろう。最近のクルマで最悪の足回りといえば、ニューソアラ。トヨタの高級車はすべて足回りがダメ。フランスのシトロエンなんか、ふにゃふにゃのように見えますが、なかなかどうしてしっかりしています。ドイツ車ではベンツの足回りが一番ダメ。あんなクルマで時速200キロオーバーで走るドイツ人の気が知れない。ベンツに乗る人は、よく「安全性能をとった」といいますが、ボディの安全性ならば、ボルボの方がはるかに安全。ボルボも、乗っている人は安全だが、当たった方は粉々になるから、何が安全だかわからない。ボルボは乗っていない人には危険だ。自分勝手なクルマなのである。
3)次は、エンジン。運転がうまい人ならば、私があげた2番目のポイントの足回りよりも、このエンジン性能がすべてだろう。足回りはドライビングテクニックで何とかなるが、力そのもの(エンジン)は、テクニックではどうにもならないからである。しかし、私も含めてほとんどの人は、運転がへただ。だから足回りに頼らざるを得ない。
しかし下手な人でもエンジン性能は大切だ。クルマはアクセルオン、つまり加速し続けているときが一番挙動が安定している(特にFR:リヤドライブ車の場合)。特にコーナーリングでアクセルコントロールできる容量は、エンジンの高回転容量に依存している。気持ちよく高回転がまわるエンジン。2速、3速でも100キロ、200キロ出せるエンジン。これは限りなく安全なクルマなのである。ホンダのV-TECKエンジンなんて8000回転が難なくまわる最高のエンジンだ。
高回転エンジンで気を付けることは、オイルクーラーの装備だ。日本車にはエンジンオイルクーラーが付いていない。スカイラインGT−Rでさえついていない(イギリス用の輸出仕様車にはついているが)。要するに8000回転が楽々まわるエンジンであっても、10分間も回すことができない。オイルの湯温が140度を超えてエンジンが焼き付いてしまうからである。たとえば、ポルシェの最高速度表示はかつて「巡航最高速度280km/h」という表示がしてあった。つまり時速280キロで(=高回転を維持しながら)、ずーっと走り続けることのできる速度がポルシェの最高速である。エンジンの冷却技術に優れているということだ。
カローラとゴルフ。100キロ以下では、燃費は、断然カローラの方がいいが、100キロを超え始めるとゴルフが断然よくなってくる。エンジンルームの空気の回し方(エンジンの冷し方)に独自のノウハウがあるのが理由らしい(カローラ設計者の話)。それもこれも巡航最高速という目標がドイツ車にはあるからだ。日本車の最高速は、瞬間の最高速(何の意味もない最高速)にすぎない。役立たずの男みたいなものだ。
4)次は、色。色も大切だ。濃い色は、飽きが早い。それに手入れも難しい。一般に色が濃いほど、塗装面は柔らなくなると言われている。黒い色なんて、拭いただけで傷が付く。クルマの塗装面が一番傷むときというのは、実は洗車の時だ。いくら強い雨が降っても拭くときほど強く雨が降る(雨が当たる)ということはない。ワックスがけなんて塗装面を傷つけることなしにはあり得ない。もともと磨くというのは、傷をつけるということなのだから。かといって、もっとも硬質な白色も面白くない色だ。一番むなしいのは、白はどんなに磨いても光らないということ(あたりまえの話だが)。手入れも簡単、適度に光沢もある色というのは、結局シルバーになるが、ここから先は好みの問題。
5)次は、ブレーキ。止まれないクルマは、飛ばせない。スピードと制動は、速さの裏表。どんなにエンジンと足回りがよくてもブレーキがダメなクルマは、ドレッシングがダメなサラダのように、はがゆいものだ。ブレーキはききがいいとか悪いとかいうより、踏んだら踏んだ度合いだけきくという感じがすべて。少し踏むだけできくとか突然きき始めるとかではなくききのリニア感が重要。コーナーリングでは、リニアな制動の有無が決定的だ。俗に言う「カックンブレーキ」だけは避けよう。
6)次は、価格。これは難しい。たとえば、オーディオとクルマという趣味の一番違うところは、オーディオは家庭内に隠せるが(人目に付かないが)、クルマは隠れて走ることができないということ。クリーニング屋もその家庭から預かる衣類によって、その家庭の暮らし向きの“グレード”を極め尽くしているが、クルマもその家庭の“グレード”を“表現”することになってしまう。個人的な趣味にとどまらないところが、要注意。好きな車だからといって、せっせとお金を貯めて1000万円以上のクルマを買ってしまったりしたら、その後が大変。それより安いクルマ(ほとんどがそれより安いクルマだと思うが)が好きになったときに、素直に乗り換えても、“世間”は、許してくれない。“勢いがなくなった(暮らしが傾いた)”ということになる。
特に、戸建てに住んでいる人は注意。30坪くらいの家で、フェラーリが小さな自宅駐車場にあったりすると(開口間口の半分以上が駐車場という悲しい戸建て住宅)、他にやることあるんじゃないの? と知らない人にまで思われてしまう。
クルマが趣味の人は、マンション住まいの方が無難。マンションの方が“暮らし向き”が間接的にしか出ない分、クルマ選びの自由度が高まるからだ。戸建ては、それに比べて、暮らし向きが直接的に露呈してしまう。
30坪くらいなら、洗濯物まで露呈してしまう。クリーニング屋の分析を待つまでもなく、〈生活〉が露呈する。これはきつい。逆に言うと、マンションで、テラスの天井に物干し竿を設置するステイが付いていたり(本来は手すりの下方で、洗濯物が外部下方から見えない位置に設置すべきだ)、布団をテラスの手すりに掛けているようなマンションは、非生活的な生活を志向するマンション族の精神に反したマンションなのである(最近のマンションの乾し竿のステイは、普及型のマンションでさえ、天井には付かなくなっている)。だからマンション暮らしでもテラスに布団や洗濯物が干してあるマンションでは、400万円以上のクルマは買うのに勇気がいるかもしれない。
もともと都市生活では、その人の“家”が見えないことと〈自由〉とは同じことを意味していた。都市化とは生活(=家)を隠すことだったのである。そして、クルマとは、その家から自由に遠ざかることだった。都市化とモータリゼーションは軌を一にしている。そして、その家とクルマが交差する〈駐車場〉は、もっとも矛盾した場所なのである。最高に自由なオープンカーを買ったのに、野ざらし駐車場しかない。これは喜劇ではなくて悲劇だ。家に合わせたらクルマを買う意味がない。クルマに合わせたら、それを保管する場所がない。
いろいろと考え始めると好きとか嫌いということだけで選べないことが出てくるのが、クルマ選びの難しいところ。トヨタ的に整序された階層・階級的なランキングに従うのも面白くないが、社長よりいいクルマ(高いクルマ)に乗るのも気が引ける。それに、そもそもそういった右肩上がりの階級的なクルマ購入(トヨタ的な階級主義)も幻想に近いものになってきた。自由にクルマを選ぶとすれば、自らが、そういった〈社会〉や〈生活〉から自由でなくてはならない。でも、そんなこともともと不可能なことだ。さて、どうする?
7)次は、自動車雑誌、自動車評論家に気を付けろということ。そもそも“自動車評論”というものはあり得ない。基本的に工業品であるのがクルマなのだから、高いクルマの方がいいに決まっている。「このクラスや価格では」などという条件文なしにはありえないのが自動車批評というものだ。自動車批評に比べれば、カメラ批評は辛らつで、こんなこと書いてもいいのかというくらいに自由なコメントが成立している。なぜか? 安いからだ。みんな(カールツァイスの交換レンズ以外)ほとんどが自分で買えるものだし、価格差も自動車ほどにはない。
だから、もし唯一真実を語る自動車批評があるとすれば、お金を儲ける方法を紹介する批評以外にはないのである。商品開発やマーケティング担当者は、かつては目黒のミツワ(かつてのポルシェの正規代理店)にいけばよかった。その時期、その時期で調子のいい業界の関係者がポルシェを買いにきたのである。15年前は金融関係者か不動産屋、10年前はサッカー選手、5年前からはITベンチャーの若手社長などというように。
〈自動車〉というのは、その意味では純粋な批評の対象ではないのである。単に社会的、単に反社会的なだけである。“高名な”経済学者、宇沢弘文には『自動車の社会的費用』(岩波新書)という著作があるが、この本も、単に私はクルマが嫌いだと書かれてあるだけである。「社会的」という場合の〈社会〉という概念が、狭すぎるか、広すぎるのである。全く意味のない“分析”に終始している。
たとえば、〈文芸批評〉が存在しうるのは、夏目漱石やフォークナーの作品も、最近の新人の作家の作品も同じ値段で売っているからだ。「このクラスでは」という留保はない。〈批評〉という領域は、留保のない領域なのだ(厳密に言えば、諸々の留保を取り去っていくのが〈批評〉という行為だ)。
クルマの批評には、数々の留保がつきまとう。そもそも、自動車評論家も、作り手であるメーカーから借りて、その車を批評する。高くて、いちいち買えないからだ。本気で悪口を書いたら、次からは貸してくれない。自動車雑誌は、そのクルマがユーザーに販売されるときにはすでに記事にしておく必要があるから、評論家がそこで文章を書くには、メーカーが販売前に開く試乗会に名指しで呼ばれなくてはならない。メーカーに(本気で)嫌われたら、雑誌も評論家稼業も成り立たないのである。奥歯にものが挟まったようなコメントが続くのはそのためだ。
徳大寺有恒のように、内容ではなくて文体の妙でもたせるスタイルを取らない限り、批評になり得ないのである。小林彰太郎に始まる『カーグラフィック』派(CG、NAVI、ENJINEなどの諸雑誌)に集まる批評家たちが特に勉強したわけでもない文明批評や社会批評に傾斜していくのは、クルマ批評では間がもたないからだ。というよりクルマ批評の陳腐さを覆い隠すためだ。
要するに雑誌や評論家の言うこと(あるいは私の狭い素人経験)を聞く必要はない。自分で乗って、自分で納得することだ。たぶん、彼らの言うことで正しいことは、全長、全幅、車高と車重くらいだろう。私の経験では、雑誌=評論家の言うことと一致したことなど10%あるかないかだから、ほとんど意味がない。むしろ裏切られて無用な装備を追加したりすることの方が多い。
8)次は、ディーラーとガソリンスタンドとのつきあい方。ディーラーの営業マンは、買ってしまったら、ほとんど意味のない存在だということを理解しておくこと。重要なのは、そのクルマをメンテしてくれるメカサービスマンたち。買うときに自分の担当者を決めてもらって、一度は出会っておいた方がいい。ガソリンスタンドも、日常的なメンテの拠点。親しくしておけば、クルマや駐車場の中に工具や洗車用具を貯め込んでおかなくても、ガソリンスタンドのお兄さんたちがすべてやってくれる。
9)次は、NAVIとカーオーディオ。これは、趣味の問題。本当に車の好きな人は、エンジンの音を聞いていたり、ハンドリングを楽しんだりしているだろうから、こんなものは余分かもしれない。特にマニュアル車に乗っている人にとって、シフトチェンジをするときのエンジン音は決定的な要素。カーオーディオや車内電話は、オートマチックトランスミッションの存在や普及なしには考えられない ― ついでに言っておくと、“オートマ”は、ポルシェのティプトロニックでさえ、まだ不十分。どうしてもタイムラグがある。最近出たBMWのM3にはSMGIIというタイムラグのないオートマが用意されているが、これも先代M3の時に装備されたときは故障だらけのオートマだった。今回もそれほど改善されているとは思えない。エンジンを楽しむならやっぱりマニュアル車だ。
しかしながら、それほどもクルマばかりに打ち込んでいられないというのも一般的なドライバーだろう。
まずは、カーナビですが、これは、パイオニアを買うしかない。なんと言っても測位性能が抜群。これを超えるものはない。さらにありがたいのはメディアがハードデスクになっているため、リルート(道を間違えた場合の再探索)も一秒もかからない(他の機種であれば5秒から10秒は覚悟しなければならない)。このハードデスクは、しかも圧縮ファイルで音楽CDを20枚から150枚までファイル名(曲名、歌手名)付きで格納できる。ヘンなカーオーディオを買うより全然便利。もちろん、携帯電話のハンズフリーにも標準装備で対応。携帯の電話番号帳を読み込んで、音声で呼び出し、自動的に電話をかけてくれる。これから、買う人は、これ以外にはない。
カーオーディオは、純正品レベルでは、なぜかトヨタが優れている。トヨタはクルマの純粋性能以外のこと(平均的なお客が喜びそうなこと)に大変熱心なメーカーだ。
自分で組み立てるときの私のお薦めは、メインのプレイヤーは、ADDZESTのDRX9255EXL。この新製品が出ているが、こちらの方が音はいい。何でも新製品をほめたがるのが紹介雑誌の悪いところ。10万円を超えるプレイヤーは捨てるほどあるが、そんなものを買う人はセルシオ(単に静かなだけのクルマ)に乗る以外に意味がない。スピーカーは、PIONEER(carrozzeria)のKEVLARシリーズで充分。
アンプは、ARC AUDIO(ドイツのARCUSではありません。アメリカのARC AUDIOのARC4050CXL(4オーム55W×4ch)くらいがおすすめです。3年前にできたアメリカの会社ですが、情報量も元気さもあるいい音が出ます。スピード(立ち上がり)感がいまいちですが、「このクラスでは」ピカイチの音が出ます(日本では「ジャンライン」という会社:03−3330−1199 が扱っています)。
そんなにお金がないよ、という人は、SONYのチューンアップウーハーXS-AW5Xを追加するだけでかなり音がよくなります。ウーハーは、ベイブリッジで土曜日の深夜騒ぐためにだけあるのではなく、全体に音を引き締めたり、押し出し感をヘルプしますから、下手にアンプやスピーカーを変えるより効果があります。3万円で音がよみがえります。やってみて下さい。設置場所は、助手席の足下がおすすめです。
カーオーディオは、NAVIと違って、実際に自分の車に付けてみないとわからないという恐怖があります。他人クルマでいい音がしたからといって、自分のクルマでその音が出るとは限りません。それに「ナカミチ&レカロ」ショップのお兄さんでも、誰一人〈音〉をセッティングできる人はいません(彼らは単に成金マーケットに寄生しているだけですから)。取り付けと配線がオートバックスやオートテックのサービスより少しだけ丁寧にできるだけです。〈音〉をセッティングしたいときは、秋葉原の“高級”オーディオショップのお兄さんに頼むしかありません。しかしそもそも他人に〈音〉のセッティングを頼むようであれば、カーオーディオなんてものに金をつぎ込む意味と資格はないのです。そんなときは、先のSONYのチューンアップウーハーXS-AW5X の追加だけで充分です。
10)最後に、クルマに乗る人(車の好きな人)はバカです。どんなに会社でペイペイ(平々)として働いている人もクルマを運転し始めると急に態度が大きくなって、社会批評、文明批評、人物批評を独り言とともにぶつぶつとやり始める。クルマは、自分が、世界の中心にいるように世界を主体化します。自分が世界の中心にいることなどあり得ないことですから(そもそも世界とは中心のないことなのですから)、〈事故〉が起きる。クルマの快感に、〈事故〉は必然的です。〈事故〉とは、世界を主体化などできないという啓示(世界の真理)なのです。
土日の散歩で犬をつれて歩いている人を見かけますが(昨日も世田谷ヤマギワ電気の近くで見てしまった)、たしかに、彼らは幸せそうには見えるけれどもスマートには見えない。おなじように、クルマに乗っている人も楽しそうには見えるけれどもスマートには見えない。散歩の幸せも主体の快感も、大人のインテリジェンスにははるかに遠い。道路がどんなに渋滞していても、それは個体の外面的な寄せ集めであって、通勤電車の共同体に比べれば、はるかに閉鎖的な空間なのです。通勤電車では、人は思考しますが、自動車の中で思考する人はいません。〈外〉に向かう契機がないからです。タクシー運転手を横山やすしが嫌ったのには少しは理由があるのです。
クルマは外出の道具ですが、それは〈外〉に出ているのではなく、内部が延長しているだけです。だから、渋滞を予想してでもクルマで出ようとするのは、自室の延長による安心感を人が得たいからなのです。ある種の帝国主義的膨張主義がクルマによる外出の思想です。クルマに乗る人は、〈外出〉を否定しようとするのです。
しかし、人は、どんなときでも〈外出〉しているときにだけ、考えることをする。クルマに乗り続けるというのは、バカになり続けているというのと同じことです。宇沢弘文もくだらないデータを出して“分析”などしないで、そう言えばよかったのです。
補遺)クルマを買ったときに“馴らし”にいくドライブコース、あるいは、走ることだけが目的の場合のドライブコースのおすすめ。私は、いつも用賀インターから厚木インター、厚木インターから小田原厚木道路、小田原厚木道路から箱根ターンバイク(相模湾がきれい)、大観山から箱根峠(富士山がきれい)を経由して(間違っても箱根新道を走ってはいけない)、芦ノ湖スカイライン、芦ノ湖スカイラインを10分走ると「箱根レイクビュー(0460-3-6363)」という名前とは一致しない小さな休憩所(うどんやそば、土産物も売っているが、私は「雲助うどん」と「ポテト」をいつも食べている)がある。富士山も芦ノ湖も駿河湾側も一望できる場所だ。
クルマを降りて、その小屋の後ろの丘に登ると無愛想なヤギが3頭ほどいる(私は、だからこの休憩所を「ヤギ小屋」と呼んで、マイNAVIに登録している)。そこが、私のドライブの終点。ここから同じ道を戻ってくる(ヤギ小屋の先の箱根スカイラインは楽しくも何ともないからだ)。世田谷南烏山の自宅まで片道100キロほど。往復200キロ(ほとんどが有料&高速道路)。ゆっくり走っても午後から出て、夕方5:00前には帰ってこられる。第三京浜から西湘バイパスを経由して(こちらの方が景色はずっといい)、箱根ターンバイク、芦ノ湖スカイラインという手もあるが、クルマを海風(潮風)にあてたくない人にはすすめない。とびっきりの美女を口説きたい人にはいいかもしれないが、いくらクルマに乗る人がバカだからと言っても、クルマを不純に使ってはいけない。
2002/2/13(水)22:31 - 芦田宏直 - 344 hit(s)
清水は、偉い。今日の朝日の夕刊(2002/2/13)の写真見ましたか(朝日新聞はろくでもない新聞だが、この夕刊の写真(高山顕治撮影)は最高の写真だ)? 花を掲げて、メダル(銀メダル)を掲げない。銀メダルなんて、メダルじゃないという表情。自分は負けたんだ(悔しい)、という表情。お母さんしか慰めることのできない子供のようなうぶな悲しみに包まれていた。愛苦しく、悲しい(母の子宮の中に包まれたがっているかのような)表情だった。この写真は必ず見てください。見つめて5秒も経つと(必ず)泣けてきます。
痛み止めを打っての出場。「いいときの半分の状態」(朝日夕刊2002/2/13)だったが、「どんな状況であれ、勝つのが実力者」(同上)。その通り。負けると、負けた“原因”を探りがちだが、そんな原因など存在しない。そういった原因探しは、勝った者には、何もトラブルがなかったように勘違いしている。むかし、F1で勝てない理由をマシン(クルマ)の所為にしていた鈴木亜久里や片山右京のことを思い出す。かれらは、常勝するアイルトンセナのマシンには何のトラブルもないかのように、マシンの所為にしていた(マシンの所為だと口外していた)。しかし、勝者も、敗者以上にトラブルを抱えている。勝者になったために目立たないだけのことだ。努力やトラブルは、勝者のためにあるのであって、敗者にそれを語る資格はない。敗者はだから敗者なのだ。というより、努力やトラブルをそれとして語るには、勝者になるしかないのである。そのための努力なのである。
負けるというのは、最高の孤独だ。だから誰も負けたくはない。なのに「朝日」の記事は「銀メダルを『負け』といえる清水は、幸せな競技者なのかもしれない」と締めくくっていた(写真:高山顕治は最高、記事:志方浩文はサイテー)。バカな。銀メダルをとるための戦いなんて存在するわけがない。勝つことに順位などない。戦いは留保なく勝つからこそ美しいのであって、銀を取るということは、相対性の極値、つまり、最高に屈辱的なことだ。それを一番よくわかっているのは、清水自身。清水の表情(同上)は、敗者の孤独を実に見事に映し出していた。嗚呼、清水。
2002/2/14(木)08:15 - おいぼれた元受講生 - 209 hit(s)
昨日の夕刊をポストから取りだして1面を見た瞬間清水選手の写真が私を釘付けにしました。
涙があふれてずっとテーブルに置いて、それから帰宅した家族全員に見せました。
もう子供達も夫も私に頼ることなくいたわってさえくれるようになったこのごろですが
私には世界の清水選手が家族のように私にしか見せない表情に見えとても近くに感じました。
この文章を読んでいて、私の先日の返信を主宰者の所長はしっかり読んで下さっていたと勝手に思いこみました。
「芦田の毎日」へのデビューはおいぼれた私には度胸が必要でした。
毎日、読んだ数が増えるか心配で落ち着きませんでした。
テラハウスに通ったおかげでこんなに楽しいパソコンライフを送っています。
今日もさわやかな冬の一日となりますよう頑張ります。
2002/2/24(日)13:54 - 芦田宏直 - 315 hit(s)
1年前の今日24日は、大雪が降っていたのを思い出す。というのも、その大雪の日が、恩師・永坂田津子の密葬の日だったからだ。もう1年が経ってしまった。
永坂は、生涯現役だった。たしかそんな追悼文を書いて、友人(知人)代表として葬儀で読み上げた。しかし、生涯現役というのは孤独だ。それは、弟子を作らない、組織、支持者に頼らない、ということと同じだ。したがって、孤独に一生を終えるしかない。
年を取れば、適当に上役になり、人の世話をし、若い人が育ち、その“伝承”の中で、引退の準備をする。年を取るにつれて祝賀会や誕生パーティに集まる人が増え、その本人よりも周りの方がにぎやかになっていく。それが、引退というものだ。引退しても、周りがにぎやかになっていく分、引退の寂しさはつのらない。むしろ逆かもしれない。周りがにぎやかになって幾分、現役気分が希薄になっていく。そうやって現役を引退するときがやってくる、というように。
そういった引退の条件は、交際関係が二重にできていることである。現役というのは、自分が知っている人(一緒に仕事をした人)だけの関係にとどまるため、祝賀会や誕生パーティーが開かれることがない。“大人”になってからの祝賀会や誕生パーティーというのは、本人が知らない人(二重目の交際関係に関わる人)が集まることなしには、まず存在し得ない。これが葬儀が、そして一周忌が盛大になる契機である。
人はなぜ集まるのか? それは一重ではなくて二重(二重以上の)の関係が生じているからだ。どんな偉大な人物でも、一重の、直接的な関係の中では、好き嫌いが前面化して「友達の輪」は広がらない(ヘーゲルは「召使いは英雄がわからない」と言っていた)。〈勢力〉とは「友達の友達」(=伝承や伝説)ができるときに生じるのである。
永坂は、その点、生涯現役だった。永坂は、生涯にわたる作品を61才(1994年)で『隠喩の消滅』(審美社)にまとめたが、私が『書物の時間』処女作(行路社)を35才(1989年)で出したときには、本気で嫉妬していた。私なんかと比べること自体が陳腐なくらいに大きな業績と名声と有していたのに、それでも、若い私が「本(『書物の時間』)が出ます」と言ったときには顔が引きつっていた。そのとき、この先生は、生涯、現役でいるつもりなんだな、と思ったことを覚えている。だから、昨年のお葬式も、彼女の業績に比べれば、はるかに規模の小さなものだった。無名の私が、友人(知人)代表として、追悼文を読み上げるくらいだから尚更だ。そして、1周忌さえないようだ。こんなものでしょう、永坂先生。
〈現役〉は、伝承や伝説(あるいは社会的な名声)を好まない。いつも素手で相手と対峙しようとする。永坂と話をするときには、私も従って、いつも無礼講のように対峙せざるを得なかった。こういった緊張は、決して、伝承や伝説にはならない。二人にしかわからない関係だから。私も、スタッフに対しても上長に対しても、二人にしかわからない関係(一重の関係)でしか、対峙していない自分にふと気づくときがある(永坂より、少しは世話好きだと思うが)。いつの間にか、私も永坂をなぞっているのかもしれない。
だから、生涯現役は、孤独だ。死んでも死にっきりだ。一重の関係であった個人個人が想いつづけるしかない。弟子(や派閥)に守られて死んでいくというのも幸せなことだが、そういった“幸せな”上昇(=終焉)の仕方は、人生の後半3分の一は、現役ではない。学者(研究者)であれば、「入門」という書物やあれこれの啓蒙書を書き始めるたぐいの者は、みんな50才を超えて、すでに現役を引退しているのである。つまり、人生を振り返り始めているということだ。或る人間にスタッフや支持者や信奉者が増えていくプロセスというのは、その人間が人生を振り返り始めるプロセスに重なっている。作家は処女作に収斂する。芥川賞以後の作品は、芥川賞作品の回想録なのである。
親切(他者を世話すること、あるいは、仲間が増えること)とは、他者の現在に自分の過去を投射することであって、それは、反省(Reflection:折れ曲がること)の別名だ。しかし、それは自己が縮小していくことと同じことだ。ニーチェは、「支持者という者がいかに頼りない者であるかは、支持者の支持者であることをやめてようやくわかる」と言っていた。指導者というものは、実は、先に立つ者ではない(指導などしていない)。指導者はむしろ支持者への媚びから始まっている。指導者は、支持者に似るのであって、逆ではない。マルクスも、だから「私はマルクス主義者ではない」と言ったのである。ニーチェもマルクスも、生涯現役であることを選んだ。彼らは、何度も処女作を書き続けたのである。何度も生まれ変わったのである。
生涯現役の孤独とは、寂しさのことではない。何度も再生する、鮮烈さなのだ。私も永坂にならって、生涯、現役でいたいと思う。これが、私と永坂先生との1周忌だ。
2002/3/6(水)08:54 - 芦田宏直 - 332 hit(s)
現在、テラハウス14期カリキュラム(2002/4月〜9月)作成中。それと専門課程の新入学期のカリキュラム準備(と組織体制作り)が重なって、もう大変。どこも年度末で忙しいのでしょうが、たしかに3月は大変です。「芦田の毎日」、書きたいことは山ほどたまっているのですが、今、しばらくお待ち下さい。
2002/3/6(水)13:36 - 三十路を頑張るOL - 299 hit(s)
私の会社は3月は決算期でそれはものすごく忙しくなります。特にこの期の目標に到達するために営業マンの机の上は
机が見えないくらいいろんな資料や書類が積まれていきます。
ところでコピーについて一言。
私の会社では原則的にはコピーは自分ですることになっています。
ビルなかのワンフロアーの3分の1くらいがコピー室になっていて大量にするときなどはそこへいきます。
でももちろん私やいわゆる事務職の女性は会議の資料やちょっとした資料のコピーを依頼されることを拒んだりはしていません。
そういうときにはその書類の内容を確認したり頼まれなくても部分的に拡大する必要があるのか聞いたりそのあとのファイリングの必要性なども頼んできた人の性格や癖などを判断して確認したりしています。
最近は経費節減やごみ問題で再生用紙の使うこともありますが、再生用紙に回すかどうか内容によっては他の部署に見られたらまずいものもあるので再生用紙ボックスをチェックして、再生用紙にできないものだけを抜き取ってシュレッダーにかけたりもしています。
コピーだけについての仕事ってこうして書いてみると結構あるものだとびっくりです。
でも私の仕事の業績シート(自分の業務の予定や目標を期のはじめに書きどのように達成したかをまた期の終わりに書く自己評価書)にはコピーの業務は書いてはいけないことになっています。
べつに文句があるわけではないけど会社の業績に大いに貢献していると自分では思っているのですが。。。。
(投稿者名を少し変えました)
2002/3/6(水)15:20 - 芦田宏直 - 234 hit(s)
テラハウスへ転職しませんか。私の仕事を手伝ってください。今、テラハウスほど将来性のある職場はないと思っています。テラハウスは、The 職場 です。
2002/3/6(水)17:38 - 三十路を頑張るOL - 232 hit(s)
からかわれてるのですか?
私はコピーのプロでもないし、所属部門の経費の処理や稟議書の決裁ルートをチェックし社内稟議をとることなどそのほかにもいろいろな業務をしています。
この程度のコピーの対応の経験談で転職を受けてくださるのはやはり冗談かと思います。
私の会社では今は転職や退職は他人事ではない状況なのです。
さらに私は勤務時間中です。私の会社では私的なインターネットとEメール利用はかたく禁止されていて、グループウエアなんていったい何なのかと言いたくなる現状です。
私がこれを書けるのもいつからだったか、資料や情報をインターネットから取り出してまわりの上司や社員に提供してから重宝がられるようになり、
わたしのPCでもインターネットできるようにしてもらえたのです。
というわけで先ほどの返信にはもう少しコピーや電話の応対などの雑務の技を披露してみたかっただけで本当はもっといろいろくふうしていることも書きたかったけど
書いているうちに自己満足でしかないと思いあのような中途半端な返信になりました。
支離滅裂になりそうなのでこの辺にしますが、ちょっとびっくりしています。
2002/3/6(水)21:54 - 未来のキャリア - 231 hit(s)
ICAはともかくとして、誘われるのが羨ましい限り。
春休み バイトせずして 何をする なんて詠んでみたり?
バイトなんかの他にやることがあるっていえばあるけど、現実問題としてバイトしなきゃお金は無い。
バイトよりも有意義なこともあるんだなって最近思いました。例えば・・・ないかも。バイトにもよりますけどね。単調なのはすぐ飽きます。同じ行動の中にでも変化のある、実に有意義なものならやりたいですね。その有意義さが自己中なモノであっても。
自分の為になればそれでいいのかしら?そうでもないような。そこら辺は分からないです。所長、ここら辺を「分かりやすく」教えてください。自分のためになる事は積極的にするべき?それが乗り気じゃなくても?
話がめっちゃそれました。ここでバイトいいですね。変なしめくくりです、はい。
2002/3/6(水)23:58 - 芦田宏直 - 274 hit(s)
未来のキャリア> ICAはともかくとして、誘われるのが羨ましい限り。
「ICAはともかくとして」。この「ともかくとして」というコトバの使い方は、少し失礼でしょ。これでは「ICAとともかくとして」就職はできません。
未来のキャリア> バイトよりも有意義なこともあるんだなって最近思いました。例えば・・・ないかも。バイトにもよりますけどね。単調なのはすぐ飽きます。同じ行動の中にでも変化のある、実に有意義なものならやりたいですね。その有意義さが自己中なモノであっても。
第一に、「変化」のない仕事なんてありません。たとえ、どんなに「単調な」仕事であっても。
第二に、〈自己〉なんて、48才の今になっても、私には存在していません。いったい、自分が何に向いているのかさえ、未だにわかりません。私は“自己実現”のために仕事をするなんて、考えたこともありません。
未来のキャリア> 自分の為になればそれでいいのかしら?そうでもないような。そこら辺は分からないです。所長、ここら辺を「分かりやすく」教えてください。自分のためになる事は積極的にするべき?それが乗り気じゃなくても?
なぜ、あなたは、そんなにも「自分」に、あるいは「自分のために」こだわるのでしょうか? それほど「自分」というのは自明なことでしょうか。私は、そんなものはいつも棚に上げています。
以上、少しは「分かりやすく」なりましたか? 忙しいのは確かですが、質問があれば、いつでも答えますから、どうぞ。
2002/3/7(木)00:15 - 芦田宏直 - 273 hit(s)
サラリーマンは、自分から辞めてはダメです。クビにされる存在、それがサラリーマンです。逆に言えば、自分から辞めるサラリーマンは、結局のところ、クビにされたサラリーマンなのです。
スカウトされて、その気になるサラリーマンなんて、私は一切評価しません。バカです。そういった転職(辞職)の領域は、結局のところ、会社の(取り替え可能な)部品領域であって、“単なる”スペシャリストの領域での出来事です。
〈スペシャリスト〉というのは、部品のことです。部品とは、他人に使われる人材であって、使う人材(マネージャー)ではありません。つまりヒラ社員の別名です。スペシャリストは、会社にとっての〈人材〉ではありません。
そして、会社にとっての〈人材〉とは転職不能(代理不能な)存在のことをいうのです。こういった問題は不況下での(あるいはインターネット時代における雇用流動化における)就職状況、雇用状況の問題とは何の関係もない、不変の真理です。
その会社で役に立たない人間が、辞める、転職する、どちらも“クビ”ということです。無能だった(辞めさせられるにせよ、辞めるにせよ)ということです。“自分の”会社を大きくできない人間が他人の会社を大きくできるわけないでしょ。単純な真理です。
2002/3/7(木)14:20 - 半人前 - 248 hit(s)
再建中の会社の社員です。いくらリストラが進もうと僕は絶対この会社に残ってやる。
誰かが優秀な人材ばかりが辞めていくと言っていたが、
僕は「そんなことはない」と思っている。辞めた奴はそれまでだったと思う。
会社が再建できなければ自分で一からやり直すつもりで妻にもそう話した。これでいいと今日思った。
ここに書いても空しいが、このページは自由な発言を許してくれているので書いてみた。
2002/3/8(金)00:24 - 芦田宏直 - 413 hit(s)
そうですね。その通りです。大賛成。
そもそも、その人間が“外部”から誘われるほど実力があるとすれば、会社の最後を看取って立ち去ってからでも(沈没する船に最後までとどまる船長のように)、誘いはあるはずです。しかもそうであればあるほど、外部評価は高まるはずです。自らの会社を辞める(捨てる)人間は、誘いかけられている会社もいつかは捨てる人間であることを最初から吐露しているようなものだからです。
だから、そういったソケットのように交換可能な人材はスペシャリストにすぎないのです。スペシャリストは会社にとっての〈人材〉ではありません。交換可能な〈部品〉なのです。人材とは、会社の部品ではなくて、会社の精神を形成する人のことをいいます。そして、精神とは自立性の別名です。
結局、途中で辞職する(辞める人、辞めさせられる人)は、本当の意味で自立していない人です。最後(沈没する)まで待てない人なのです。既成の別のブランドに寄生する社会的な幼児なのです。自らがブランドであること、あろうとすることのできない人なのです。
管理職は、絶対自ら辞めてはいけない。部下がいるからです。管理職が辞めることができるのは、その上長からクビにされるときだけです。管理職は、だから、看取る人なのです。看取るというのは、何も“倒産”だけを意味するわけではありません。会社の限界がどこにあるのかを看取るのも、管理職の仕事です。
だから、管理職はリーダーとして先に立つ人でもあり、会社を大きくする人でもあるわけです。会社を大きくするというのは、そのつどの会社の現在(ブランドや過去の業績)を死に追いやることと同じです。管理職こそが積極的に会社を倒産させる(=看取る)使命、会社の未来を切り開く使命を負っているのです。
だから、倒産しそうな会社だから、しかも(能力のある)自分はそんな小さな、無力な会社に埋もれて道連れになりたくないから、転職するというのは、ふざけた認識なのです。管理職であるとすれば(大概のヘッドハンティングは何らかの管理職でしょうから)、サイテーの管理職です。そんな管理職を管理職にしているから(自分の会社を看取ることのできない管理職を管理職にしているから)、その会社は倒産するのです。
「半人前」さん、辞める人など見向きもせずに、ぜひ、会社を「再建」して“一人前”になって下さい。影ながら応援しています。
2002/3/8(金)10:06 - 半人前 - 262 hit(s)
力強い助言ありがとうございます。
今はまさに会社自体が「一人前」になるかどうかの瀬戸際である。
愛社精神など毛頭ないし、管理職でも一番平に近い職階だが、「会社の精神を形成する」という意味では、
バブルの頃よりずっと自分が会社を代表して仕事を進めていることを日々感じる。
いろんな部門で自分と同じように頑張ってる奴が何人かいるが
誰も口には出さないが同じことを感じているのがわかる。
とにかく頑張るしかない。
世間で言うほど悲壮感もないが、いかにバブル期がバブルだったかよくわかる。
終身雇用なんて死語になった。(そしらぬふりして、返信など書いている場合ではない)
ところで、学校経営も厳しいものがあるのではないか?と余計なことを思う。
なのにこの表題にはちょっと冷めた気持ちになったが、この過激な「毎日」のあちらこちらに
「積極的に学校の最後を看取る使命」と「教育の未来を切り開く使命」を持った管理職の精神を見る。
2002/3/17(日)02:04 - 芦田宏直 - 375 hit(s)
1)大規模修繕は管理組合理事会に任せてはいけない。理事会は、マンション管理の素人集団。たまに、建設会社の社長や一級建築士といった中途半端な専門家がいたら、個人的に理事会中を引き回すからもっと大変。ここに任せたら何をやり始めるかわからない。何をやっても責任をとらせることはできない。理事会と言っても“ボランティア”だから、責任をとらせることなどできない。“ボランティア”ほど高くつくものはない。はやりのNPOとはそもそもボランティア批判なのである。それに、同じマンションの“近隣”住民だから、間違ったこと、悪いことをやっていても指摘しづらい。そんなこんなが重なって、マンション管理組合の理事会の暴走は止められない。だから理事会にマンション管理の最大の仕事=大規模修繕を任せてはいけない。
2)大規模修繕は、どんなに悪徳の管理会社であっても、管理会社のリードでやらせること。管理会社と管理組合(理事会)は、管理組合が管理会社に管理を「委託」する関係にある。「委託」とは、マンション管理について素人である管理組合がその(一応の)専門家である管理会社にマンション管理を“委ね託す”ということだ。専門性のみならず、その良心も含めて怪しい管理会社もいっぱいあるが、しかし、怪しい理事会よりは遙かにまし。なんといっても、その専門性について経費を払って委託しているわけだから、内実はどうであれ、社会的な責任をとらせる関係にはある。
重要なことは、マンション管理について、絶えずこういった“社会性(外部性)”を介在させることだ。理事会は私的な人間の集まりにすぎない。総会においては、理事会で互選された理事長がほとんどの場合過半数を代表する存在になってしまう。つまり理事会が暴走し始めると組合は全く閉ざされた存在となり、しかもボランティアであるため、社会的な責任をとりうる関係にはならない。そんな中でわずかながらも外部との関係をとりうる存在が管理会社。これは管理会社は暴走しない(いつも正しい)ということではない。専門家ほど人をだます者はいないというのも事実だ。しかし理事会の間違いを是正するよりは、管理会社の間違いを是正する方が、遙かに簡単。専門性について経費を払っていること(業務を委託していること)の意味がそれである。特に理事会によって、私的になりがちな管理問題を、是正していくことになりうるのは、管理会社の管理ノウハウ以外にあり得ない(だから管理会社の選択は決定的。場合によっては管理会社は“私的な”理事会のお目付役でもあり得る)。
特に、大規模修繕のようなコストのかかる、専門知識が必要な事業の場合、理事会主導でことを進めると(そして不本意な結果に終わった場合)、「理事会が決めたことですから」と言って管理会社は自らの責任をとろうとしなくなる。そうなったときに、それでは理事会は“責任”がとれるかというととれるはずがない。“自分たち”で決めたのだから。これを自業自得というのである。
決議権(権限)が強ければ強いほど、その組織は社会化しなければならない。特に管理組合理事会のような民間中の民間の私的な理事会の私的な権限(私的な強権)の場合、管理「委託」という(管理会社との)関係が自業自得的な強権の危険性を回避できる唯一の回路なのである。
3)大規模修繕は、第一に“現状復帰”が大原則。“現状復帰”とは、新築時の仕様の機能や性能、あるいはデザインを再現することである。間違っても、施工業者ベース、理事会ベースでことを進めてはならない。工事業者は施工しやすいもの、利幅のとれるものを選びたがる。理事会は好みが前面化する。いつのまにか大規模修繕の趣旨(=資産保全)がずれてくるというのが大概の大規模修繕。前者は問題が見えやすいが、後者は厄介。ほとんどの組合員は、組合活動に無関心。したがって、現状復帰と異なるような変更が行われても問題はおこらない。たとえば、この玄関表札は汚れやすい、さびやすいから、掃除しやすいものにしようなんて“変更”が理事会で決まったりすることもままある。しかし、手のかかったグレード感のあるものは、ほとんどの場合、掃除が大変だったり、さびが出やすかったりするもの。機能性やメンテナンス性を重視すると、質感が損なわれたり、デザイン性(デザイン的な資産)が損なわれたりする。“現状復帰”という中には、そういったデザイン的な資産の保全も含まれている。それを気に入ってマンションを購入した人もいるからだ。したがって、本来は、資産保全のための管理を怠ったという反省やデザイン性を保持しながらの新たなメンテナンス体制の提案をしなくてはならない。そのことを含めての“現状復帰”なのである。ところが、ここでは、業者も理事会も管理会社も手間がかからないこと(機能性、合理性重視)のほうに傾きがちだ。
そして多数決(理事会であっても、総会であっても)をとれば、ほとんどの場合、手間がかからないことの方に決まってしまう。手間がかからないことは、客観的な“理由”があるが、デザイン的な“理由”は、幾分主観的(あるいは専門的)だからだ。そしてこういった細部の機能的、合理的“変更”を合法的な手続き(理事会、総会)でもって、積み重ねていくと、そのマンションは最初のデザイナーの(デザイン的)意図とは似て非なる最悪のマンションになりがち。
こういった場合、多数決は絶対避けるべきなのである。そもそもデザインを多数決で決めること自体が危険なことだ(「多数決」と言っても、大概は理事会、および理事長の好みにすぎない)。“現状復帰”というのは、そういった多数決に馴染まないものを処理する上でもきわめて重要な原則なのである。
4)大規模修繕は、仕様書作成が大切だが、設計監理を別会社にするほど神経質になるものでもない。大規模修繕は、工事の仕様や工事範囲を画定するための設計作業、直接工事を行う工事作業、工事が設計通りにできているかどうかを検証、指導する監理作業といった三つの層からできている。
通常、管理会社が設計+管理を担当し、工事業者を決定する場合が多いが、神経質な管理組合の場合(管理会社と理事会が対立している場合など)、設計・監理が別の場合もある。これはしかしほとんど意味がない。設計計画は誰にやらせても一つしかない場合はほとんど意味がない。いいのか悪いのかの評価のしようがないからだ。監理も、毎日工事現場に張り付くほどの根性でもない限り、工事を請け負った業者が本気で手抜きをやろうとしたら、それを見抜くことなどほとんど不可能。せいぜい、外から見える部分の指摘を後から行う程度のことだから、「監理」といってもいい加減なものだ。口うるさい理事が一人いれば充分。
5)仕様書作成は、工事入札に参加する業者にやらせること。もちろんすべて無料で、簡単な診断をやりながら仕様書を作成してくれる。こうすると複数の仕様書ができあがるから、評価がしやすくなる。そしてこの複数の仕様書の評価表を管理会社に作成させる。管理会社も自分たち自身で持っている工事部門や推薦工事業者の提案を持っているだろうから、その観点も踏まえて、仕様書の一覧ができあがることになる。こうするといくつかの項目で仕様が異なっていたり、工事範囲に違いがあったりして、素人の管理組合(理事会)にも少しは見えてくるものがある。またそういった差異を前にして“わが”管理会社がどんな解説を加えるのかもおもしろいところだ。このやり方の方が、わざわざお金を払って、設計会社を頼むより、遙かに建設的である。1社で設計をやるくらいなら(評価ができないのだから)、管理会社でやらせた方が金がかからない分、楽だ。
無料でやる設計書はあてにならないという場合もあるが、本当の修繕設計なんて、足場を組まないかぎり作れるはずがないのだから、本気の設計書も無料の設計書も金額ほどの違いはない。むしろ設計会社の仕様書は、累積加算的に修繕費用を積み上げていくものだから、かなり修繕費用(予想)が高いものになる。その提案を受けた管理組合(理事会)は、「これでは予算がたりない」と言い出して、どんどん修繕対象を削っていくことになり、貧弱な修繕設計書だけが後に残ることになる。下手をすると外壁修繕だけで終わりということになってしまう。最初から工事業者に競争させて、見積金額のラインがどのくらいになるのかという数字を見定めてから計画を立てれば、少ない予算でも常識的な修繕が可能になったかもしれないのに、まえもって計画を縮小させてから競争させてしまうために、不透明で不合理な修繕になってしまう。
ほとんどの場合、こういったやり方をすると予備費を全額使ってしまう場合が多い。「あれもやっておけばよかった」「これもやっておけばよかった」という後悔の連続で、追加工事がいつの間にかふくれあがってしまう。本来であれば、「予備費」は、工事着工後のアクシデントのためのものだが、新・仕様書なみの追加工事が続くことになる。これは、経済的にも道徳的にも不見識なやり方。
たとえば、1億円の工事で1千万円の予備費という予算が総会で承認されたとしよう。先のような追加工事が900万円になったという場合、この900万円分は、最初から仕様書に盛り込んでおけば、1億円で済む工事であったかもしれないという意味での経済的な不見識。別の言い方をすれば、その追加工事を含めた全体的な、最終の仕様書が最初から提出されていれば、1億200万円の見積もりを出しうる別の業者がいたかもしれないという道徳的な不見識。決定金額の不透明さが残ることになる。
建築工事というものは、規模が大きくなればなるほど、グロスの金額=細部を足した金額、にはならないものが多い。また大手の施工業者の中には、単独のマンション現場のコストのグロスどころか、複数の現場のコストを同時に見ながらの見積もりも出てくる。そうなると、単独加算される追加工事ほど割の合わないものはない。つまり、設計作業を工事から独立した業者に任せることのメリットは、ほとんどなく、むしろ害悪になることの方が多い、ということだ。
もうひとつ付け加えれば、修繕というものは、たとえどんなに完璧を期したとしても、ダメなときはダメということもある。タイル剥離を完璧に止めることなんて、どんな仕様書を作成しても不可能だ。精確に調査すればするほど、タイルの浮きの箇所がどんどん広がり、請負業者の見積もりを強迫神経症的につり上げるばかりだ。調査なんて(厳密に)するものではないのである。
それは、ちょうど過剰な健康診断に似ている。若い女の子が魔が差して超近代的な子宮ガン検診で、誰にでもあるような極小のガンが見つかり、一生妊娠できないほどの外科手術を施されるなんていう悲劇と似ている(専門家によると出産でこそ消える子宮ガンもあるらしい)。一番まともな仕様書があるとすれば、「タイル落下については10年間落ちない修繕をしてください。もし落ちたときには、10年間無料で直してください」と書いておくことだろう。これしかない。
6)工事業者の選択は、大きい(有名な)会社に越したことはないが、実際に工事をするのは小さな会社の下請けだという点では、工事の品質にそんなに大きな違いはない。違いがあるとすれば、ペンキを塗る職人が日本の高校中退組の若者か(大手の場合)、アジアの外国人であったりするか(中小の業者の場合)どうかくらいだ。工事業者の選択の問題は、やはり、同一の仕様書に対して見積価格をどのくらい下げてくるかが一番だ。
ここで、もう一度、工事業者の選択にまで至る“芦田方式”を整理しておこう。
(1)入札に参加する業者をとにかく集める。少ないよりは多い方がよい。大手(大成、鹿島、清水くらい)は必ず入れておくこと。出前のように普通に電話をすれば、いつでも来てくれる。当たり前のことだが組合員が直接経営に関与している会社は避けた方がいい。コネなどない方がいいくらいだ。コネがあるから安いというのは、この不況時代には単なる幻想だ。7社〜10社くらいが適当な数だろうか。もちろん必ず管理会社の推薦する業者(自社であってもいい)を入れておくこと。ただし、業者によっては、元請け(そのマンションを建てた建設業者)が最初から参加していると、入札に参加することをいやがるところがあるから、元請け業者は、最初からは入れない方がいいかもしれない。
(2)参加する業者がそろったら、仕様書(や工事範囲の画定)と見積書をその会社自身にそれぞれ個別に作らせること。一斉に業者を集めて、「我がマンションを自由に調査していただいて、10年目の大規模修繕として、あなたの会社がもっとも適切と思われる大規模修繕の設計書をお出し下さい」と言っておくだけでいい。一ヶ月もすれば、設計書と見積書がでてくる。この段階では、見積もり価格は参考程度にし、設計書の内容だけを重視すればいい。予算を早く組みたい場合は、すでに10年間つきあってきた管理会社が設計書を持っているはずだから(管理会社が委託業務の一環として大規模修繕の設計書作成を無料でおこなわないようであれば、そんな管理会社とはつきあわない方がいい)、その設計書に基づいた見積書と自社自身が調査した結果に基づく仕様書による見積書を二重に出させればよい。こうすると、それぞれの会社の価格競争力が見えやすくなる。私の経験では、管理会社の想定する見積価格から20%以上下がった価格が大規模修繕の実質価格と見なしておけばいい。
(3)この設計書と見積書を元に各業者にプレゼンをさせる。管理会社の仕様書と見積価格とを参照にしながら議論を煮詰めていくと、設計仕様と価格のだいたいの輪郭が見えてくるはずだ。ただし、この場合でもでている価格をそのままに考えてはいけない。価格はこの段階では20%以上低く見積もっていればいい。その前提で仕様のグレードを考えるべきだ。
(4)業者プレゼンが終わったら、共通仕様書を作成する。管理会社に整理させればいい。
(5)この共通仕様書を元に、再度参加業者に見積価格を出させる。
(6)業者を安い価格から順番に三つくらいに絞り込む。この場合も(たとえ、3位以内に入っていなくても)管理会社を必ず入れておくこと。
(7)三業者に、さらに入札させる(プレゼン付きでもいい)。三業者に価格差があまりないときは、業者の価格((5)で出した)を公開して入札させるのもいい方法だ。
(8)業者決定。しかし、決定は最後の値引きのチャンスでもあるから、最後まで諦めないこと。価格で、「これ以上無理」と言うときは、仕様や工事範囲で諦めた部分を再度復活させて押し込むこと。また最後の最後では、保証の10年期間中、その会社が倒産した場合、代理保証する会社のハンコももらっておくこと。
手順だけ示せば以上のようになるが、大事なことは、ここでも管理会社を中心に作業を進めることだ。大規模修繕は、10年のスパンで行うもの。10年間の管理となれば、管理会社と異なる(管理会社が関知しない)工事業者が入った場合には、責任の所在が二重化して曖昧になりやすい。管理が悪いのか、工事が悪いのか、といったとき、もし工事業者が、管理会社関連でない場合には、お互いの責任をなすりつけ合うことが多い。したがって、先の(1)〜(8)の行程は、全体として、管理会社の設計書の内容や工事見積もり価格をけん制するためのものと考えた方がいい。管理会社が設計や工事を請け負えば、すべては管理会社の責任。いつも顔を合わせている(将来にも渡る)関係だから、逃げようがない。本来ならば、業務委託費を毎年払っている関係だから、一番安い価格(修繕価格)を出す関係にもあるはず。逆に言えば、大規模修繕に際して価格競争力のある管理会社を選んでいることが重要。「大規模修繕」とはマンション管理の中でもっとも重要な管理行為なのだから。
管理会社をけん制して(適切な設計書+最安値の工事価格にして)、管理会社に工事を請け負わせれば、設計や工事監理の問題はほとんど問題にならない。まして、設計監理会社を別にすることもない。「ちゃんとやれ。手を抜くと管理委託契約を解約するぞ」と言っておけばそれで済む。
7)費用の問題は、マンション規模の問題とは限らない。規模の大きなマンションほど修繕価格は多額になるが、住戸毎の負担は、それとは逆比例する。たぶん総住戸が50戸以内のマンションであれば、借り入れなしに、大規模修繕は不可能。その場合(一時払いなしでやろうとすれば)、修繕積立金は、2倍から3倍にあげなければやっていけない(これまで5000円だった修繕積立金が、15000円になるのは当たり前と思った方がいい)。150戸を超える規模ならば、なんとかぎりぎりでやれる程度(修繕積立金は底を突くが)。要するに、10年目の大規模修繕を視野に置けば、200戸以内の規模のマンションを買うということは、きわめて危険だということだ。100戸以内のマンションを買うのなら、(たとえ小さくても)一戸建ての方がいい。50戸以下のマンションを買うということは、クルマを買うのと同じくらいの消費財を買うことなのだと覚悟した方がいい(絶対買ってはいけない)。
8)大規模修繕は、構造的、耐久的な補強(タイル剥離の防止、さび止めなど)と、外壁洗浄やエレベータ内の操作パネルの新品取り替えなどどちらかといえば、見栄え部分の“修繕”と二種類あるが、後者の贅沢も重要な部分だ。もう一度住民に「このマンションもきれいにすれば、まだまだなかなかのものだ」と思わせることは、大規模修繕の大切な要素。
タイルや外壁の補修ばかりやっていても、この意識は生まれない。共用玄関周りの刷新やエレベータの再内装・操作パネルの一新などを怠ったら、一体全体何に多額のお金を割いたのかわからないことになる。居住者の保全意識を高めるためにも(また次期の大規模修繕のための積立金の値上げのし易さのためにも)、見栄えの部分に対する設計は、ワンランク上の設計をするくらいの覚悟でやった方がいい。特に今はきれいでもこれからの10年間でどうなるかという観点からの見栄えのチェックが必要。
9)今後の10年を考えた場合、これまでの10年の管理がどうだったかのチェックを管理会社とともに行うこと。10年間で、どんなトラブル(傷の発生や雨漏りなど)が生じたのか。
よくあるのが、引っ越し時(転入、転出時)の傷の発生。これは、管理会社の問題。引っ越し業者に対する管理が不十分だったことをきちんと反省させる。引っ越しの際、引っ越し業者に作業前の現状を確認させて(できれば玄関周りやエレベータの当該箇所をデジカメなどで記録しておく)、傷の補修に責任(補修費の全額負担責任)を持たせることなど、今後10年間の管理体制を再度構築し直すことが大切。
最初の10年とその後の10年とでは、まず先にも触れたように引っ越しが多くなること。最初の購入者よりも資産保全意識が低下すること。管理会社も新築時に比較して管理意識が低下すること(管理担当者が入れ替わることも含めて)。などなどせっかく10年目にきれいにしても、最初の10年よりも劣化(構造的な劣化だけではなくて)が早まる要素はいくらでもでてくる。したがって、10年の大規模修繕が終わった段階で、再度管理体制を総点検し、マンションの資産価値を落とすような要素を予防的に除外できる方法を見出すことが大切。
10)私の大規模修繕のノウハウを一言で言えば、管理会社との関係を重視、尊重するということです。重視、尊重できないような管理会社を管理会社として委託契約しないことです。一にも二にも管理会社のノウハウなしにマンション管理は不可能です。特に理事会の暴走を防ぐ意味でも良識のある管理会社を選択することは必須です。
管理会社への不満(不満のない管理会社なんてないでしょうが)は、いきおい理事会の暴走に直結します。そうこうするうちに(組合員には必ず“世話付き”がいて)、いつのまにか理事会が(私物化を共有する)仲良しクラブのようになり、管理会社(のアドバイス)を排除するようになります。ほおっておくとマンション管理は悲惨な状況に陥ります。
それを防ぐのには、理事の多選を防ぐことだけで充分です。あとは、常駐する管理者の一つ上の上長(課長)、二つ上の上長(支社長)との関係を常に取っておくことです。常駐する管理者は、場合によっては、組合員の誰か(かつての理事長など)とつるんでいたり、ひどい場合には、組合員同士を対立させて、自らの管理不足を隠蔽する場合もあります。そのように自らの管理不足を組合員や上長に対して隠蔽する傾向があります。理事会には3回に一回は課長クラスを呼んで、問題点を指摘することなどが必要になります。最後は、議事録を詳細に付けさせること。この三つを守れば、大概の問題は解決できます。
マンションライフは、管理会社との関係で決まります。そこがうまくいけば、一戸建てよりははるかに快適な生活が可能になります。理事会や管理会社で苦労している人もいるかと思いますが、決して諦めずに頑張ってください。いつでも応援します。
2002/3/18(月)22:55 - マンション居住者 - 145 hit(s)
感心して読ませていただきましたが、ひとつだけ疑問があります。理事会を「素人集団」と決めつけるのはいかがなものか? 以前の別の大規模修繕の経験者やどこかの管理会社の人間もいるはず。また良識のある人もいるでしょう。むしろ理事会が頼りなくて、管理会社にだまされている人もたくさんいると思いますよ(私の経験でも)。
2002/3/19(火)00:06 - 芦田宏直 - 175 hit(s)
私が「素人」という言い方をしたのは、大規模修繕について無知という意味でのことではありません。理事に建設会社の社長がいようと一級建築士や有名なデザイナー、工学部の大学教授や民事訴訟専門の弁護士がいようと、それらの人は〈素人〉です。
私が言う〈素人〉とは、案件を決めたことに対して責任が持てない人のことを言います。理事会の決定が間違っていた場合、その理事会はどうやって責任をとるのですか? 真鍮にクリアコーティングした玄関表札がクリアーは剥離しやすいからといって、焼き付け塗装にして(質感を落として)しまったり、モルタルの笠木の、10年目のウレタン塗装について、グレーじゃ芸がないといって茶色に変えて、工事が終わり足場を外して再度マンションの全体が露呈したとき、(たとえば)失敗だなと認められる場合、その決定について理事会はどうやって責任を取るのですか。もう一度、やり直す費用は誰が出すのですか? こんな責任は誰も取れませんし、追求もできません。住民同士で訴訟なんて、よほどのことがない限り不可能です。理事会に楯を突くというのは、大変なことなのです。
なぜ、そうなるのか? 理事会はボランティアだからです。つまり善意、善人の集団なのです。善意の行為ほど修正するのに苦労するものはありません。したがって、反対意見が内外から聞こえてくる場合、この集団はきわめて自閉的な体裁をとることになります。“善意でやったことなのに、なぜ、そこまで言われるのか!?”というように。だから、まともな人は、誰も理事会に楯を突きません。“村八分”にされることを嫌うからです。専門的な意見が尊重されているのではなく、近所付き合いが前提されており、その本質は善意の集団ということなのです。
それは、対立を覚悟してまで意見を言う人がいないということです。専門性は、しかし、専門的であればあるほど対立する場合もあります(私は一昨年、専門的であろうとして理事長を一票差で解任されたことがあります)。善意の共同体を形成する理事会(=嫌われたくない理事会)は、だから専門的な議論のできない集団なのです。その意味で素人の集団なのです。要するに、理事会のトークとは、そこでどんな深刻な、あるいは知的な議論がなされようとも、その質としては、世間話を一歩も超えないものなのです。世間話に責任などあるはずがありません。
2002/3/20(水)09:09 - 「毎日」の一読者 - 137 hit(s)
芦田の毎日がこういうところへも入っていくとは驚きましたが、私も分譲のマンションに住む限り避けられない問題だと少し関心を寄せはじめていたところです。実は私も最近よい管理のマンションとは何かと疑問を持ち始めたことがあります。
私の住むマンションはまだ1年しかたっていないのですが管理事務所のマネージャーが気が利かず困っています。経験不足なのか奥様方の機嫌取りばかりで管理会社からの会報などについて質問しても一般的な頼りない返事ばかりで、まだ新しいからこちらが何も知らないと思っているのか表面上の対応しかしていません。
そればかりか個人的な用事を請けおったりして住民に対して不公平な奴なのです。一緒にスタッフとしている数名の管理員との連絡も悪いし、共用廊下の清掃について頼んだところ、クレームかと言わんばかりに弁解ばかりでスタッフをうまくつかってくれないからいつまでも私の要望は聞き入れられませんでした。
さらに先日は来客用の駐車場が満車になり友人が遊びに来て別の誘導されたところに置いていたら車が傷ついてしまいそのことでも責任回避まるだしのひどく冷たい対応をされ困ってしまいました。というかまだそのことでは私の中では解決していません。
この管理マネージャーを別の人間にかえてほしいくらいです。こういうことに深入りするのは近所付き合いに影響すると家族は反対します。
しかし、芦田さんは理事長解任になるところまで頑張られたというかすごいことですね。解任とはおだやかではありませんがそんなふうになるものなのですか?
2002/3/20(水)15:46 - 芦田宏直 - 327 hit(s)
「管理マネージャー」に対する不満は、その当人に直接言ってはダメです。ますますことを大きくしてしまいます。もともと問題を起こす人なのだから、その人に不満を直接言うことは、問題を大きくするだけです。管理会社の上長を呼び出すか、連絡して事情を話すのが近道です。要するに「管理マネージャー」も住民の一員と思っておいた方がいいと思います。こんなに口の軽い人はいません。
私が理事長を解任されたのは、以下の提案(文章)を理事会で議案にかけた直後です。壮絶なものでしたが、その後(解任された後)、どうなったと思いますか? とりあえず、アップしておきます。なんでもありの「芦田の毎日」です。
◎理事会活動における公開性について(某マンション理事会理事長:芦田宏直)
私がこのマンションの理事に立候補させていただいたのは、昨年引っ越してきたばかりで、どんな組合活動をやっているのか、知りたかったからです。
総会に出て、“初心者”であるにもかかわらず、思わず発言させていただいたとおり、すぐさまこのマンションの理事会活動は変だ、と思いました。屋上防水の「仕様書」を一理事に個人的に作らせるということが変だと思ったのです。屋上防水や外壁修繕など中・大規模修繕にかかわる「仕様書」の作成は、理事会活動の重要な仕事の一つです。今回の屋上防水の費用は3000万円。単にマンションの資産・生活保全に関わるだけではなく、組合員の積立金の少なくはない金額の拠出につながっているという点で、できうる限り公開的に仕様書をつくることが重要です。おおざっぱに言って、その金額の内容(内訳)が記載されているのが「仕様書」というものです。あるいは正確に言えば、どんな内容の屋上防水を行うのかを記載してあるのが「仕様書」というものです。施工業者は、「仕様書」に従って工事を行うだけですから、「仕様書」に不備があれば、屋上防水工事を行ったことにはなりません。施工業者は屋上防水に責任を負っているのではなく、仕様書通り工事を行うことに責任を負っているだけです。
したがって、「仕様書」の適正な作成が理事会活動の重要な柱になります。施工後、何か問題があった場合、仕様(仕様書)の不備か、施工の不備かが問われることが少なくはないからです。これを個人に任せるというのは、通常あり得ないことです。個人で責任をとることなどできないことですし、仮に取るにしても、組合全体のことを個人的な問題に帰するわけにはいきません。そのように個人に仕様書を作らせることを決定したのは組合(理事会)なのですから、基本的には、それは組合(理事会)の問題です。しかし、個人に任せることによって、その内容は個人的なままになります。現に前回の理事会では、今回の屋上防水の工事仕様を公開的・内容的に議論したことなど一度もありません(この詳細については後述)。しかもこれを公開的・内容的に議論することはほとんど不可能です。というのも個人的に作られたものを批判することは、結局個人批判になるからです。
毎日顔をつきあわす居住者の間でのそういった関係はできうる限り避けるべきです。精々のところ、「一級建築士でもある作成者を信頼して」などということになります。こう言われてしまうと、仕様書の問題を指摘することは、“不信頼”の表明と同じことになり、したがって、子細に仕様書を検討する機会を失うわけです。誰も好きこのんで個人批判などしたくはないのですから。
昨年度の理事会は、したがって、今回の屋上防水仕様書をまともに議論していません。たとえば、今回の“屋上防水”の範囲はどこをさしているかご存じですか? 当時、理事長であったMRさんでさえ、専用部分(ルーフバルコニー)の“屋上”がその範囲内に入っていないことをご存じでなかったわけです(前々回の理事会で管理会社のYさんにそのことを指摘されていたくらいですから)。そしてまた、4階棟の屋上部分(通称「渡り廊下」部分)も最初の仕様(見積もり対象仕様書)にはなく、業者が決定してから追加されたものになっています(この間の経緯は全く不明)。
要するに“屋上”という概念について理事全体で共有されていないわけです。さらに今回の屋上工事仕様について、トップコート(車でいえば、ワックスのようなものと思って下さい)については、部材メーカー保証は3年〜5年しかなく、遅くとも5年以内には再塗装の必要がありますが、それもまた今回の仕様書の中からはすっぽり抜けています。屋上防水の施工保証はたしかに10年ですが、使用している部材の保証期間は、部材毎に異なっており、トップコートの保証は(長くても)5年しかありません。見積もりをさせるときは、このトップコートの再塗装を含めた工事仕様書を作っておいた方が経費的に有利なのは明らかです。単独でやると当マンションの場合、700万円くらいになります。
もともと、屋上防水を大規模修繕と切り離してやること自体、割高になっている上に、トップコートの再塗装さえも仕様書から漏れているわけですから、今回の屋上防水は私の試算では、1000万円程度は割高なもの(無駄使い)になっています。あとは、屋上の水はけ処理です。当マンションのこれまでの屋上は水だまりが各所にできており、水はけがよくありませんでした。水だまりの部分が、トップコートの寿命を縮め、しいては屋上の防水性能を加速的に低下させるわけです。残念ながら、修繕された屋上には再び水たまりがあちこちにできています(とりあえず、「直せる限りは直しておいてほしい」と工事長には言っておきましたが、後の祭りです)。こういった補正処置も今回の仕様書の中には入っていません。私が以前住んでいたマンションで行った大規模修繕のときには仕様書の中には指示しませんでしたが、監理会社と協力して(元経費内で)勾配調整をやらせました。これがあるかないかで防水機能の維持には雲泥の差が生じます。
さらにもっと不思議だと思ったのは、今回の屋上防水の見積もり参加業者が、元請け企業(当マンションを最初に建てた関連の業者)ばかりだったことです。通常、元請け関連業者に見積もり提出させることは、“できレース”だと言われています。M理事が業界にお詳しいということで、「今回の大規模修繕で芦田のポケットには1000万円くらいは入るだろう。そんなことは業界の常識だ」と言われるのであれば、なぜ、こういった元請け業者ばかりの見積もりで満足されたのでしょうか。私には、三井建設は、最初から決まっていたとしか思えません。そう考えるのが“業界の常識”です。
通常、こういった大きな修繕には、元請け業者を参加させません。元請けを(最初から)参加させると、それ以外(元請け関連以外)の業者が見積もりを出すのをいやがります。元請けの仕事の横取りをするかのような行動が業界では嫌われるからです。大規模修繕の業者決定について1000万の“わいろ”が存在するより、遙かに常識的なのが、元請け参加のできレース見積もりなわけです。したがって私は、今回の大規模修繕仕様提案については、三井建設や東急建設には声をかけませんでした。三井建設を決めたM理事とはそこが違ったわけです(昨年の理事会の議事録を仔細に検討すると今回の屋上防水については、M理事は単に仕様書を個人的に作っただけではなく、業者決定もほとんど個人的に決めています:この経緯については後述します)。要するに、今回の屋上防水の3000万円はもっと安くできたということです。
つまり、今回の“屋上防水”決定には、(1)仕様書を個人に任せたこと (2)仕様書それ自体の不備 (3)業者決定にかかわる不備 といった三重のミスが重なっています。もっと悲劇なのは、このことを理事会のメンバーの中では私しか知らないということです。組合員はもっと知らないということです。1000万円以上の無駄使いをしているにもかかわらずです。
屋上防水施工の「監理者を誰にしますか」と私が2000年2月の理事会で言ったときに、ふたたび仕様書を作成した同じ人物に任せることになってしまいました。私にとっては、個人仕様書の危険をできるかぎり避けるための提案でしたが、「前年度からの流れがあるから」ということで、仕様書も施工監理も同じ人物、という最悪の事態に陥りました。「今後こういった個人的な処置を前提としない」という取り決めでまとめるのが精一杯のラインでした。こうなると、もう意見の出しようがありません。私の危惧を理解して下さる理事の方もおられましたが、よほどの勇気がないかぎり、個人的な仕様書や監理に意見を言うことなど不可能なのです。MR理事・S理事・M理事などは、ののしるかのように管理人のYさんに強く当たりますが、それは彼が東急コミュニティを代表しているからです。Yさんが個人で参加している、しかもボランティアで参加しているとすれば、そんな批判などできないはずです。
そこで私は、管理会社である東急コミュニティを理事会と三井建設との間に入れて、より詳細な仕様書を作ることにしました。しかしむろんこれは、M理事仕様書や三井建設を前提にした詳細化でしかないため、先の三重のミスが根本的に是正されることなど不可能です。この場にはM理事も監理者として参加されましたが、私が参加してこの場を持つこと自体不快な感じでおられたように思います。それ以後、私は、もうこの屋上防水について何も言わないようにしようと思いました(トップコートのことなどは12年度の総会議案で明確化しておけばよいと考えていました)。理事会がそう決めたのですから、私がここでものを言うことは、ますます個人的な対立にすり替わることを意味していたからです。何よりもM理事さん個人に私は何も言う気はなかったのですから。どんな仕事でも一人でやることに不備はつきものなのです。そういう決定をした理事会が批判されるべきなのです。
なぜ、理事会はそんな問題の多い決定を行ったのか? 「できるだけお金をかけずに、自前でやっていこう」というのが“方針”だったと当時理事長であったMR理事から聞いています。これもほとんど無知としか言いようのない“方針”です。屋上防水の仕様など管理会社がすぐに出してくれます。M理事仕様書よりも遙かに詳細な仕様書を(無料で)出してくれます。管理委託業務の中には、中期・長期修繕の計画のみならず、仕様書提案についての内容が入っています(中堅クラス以上の管理会社であれば当然の業務です)。仕様書を書くことにことさらの経費がかかるわけではありません。これは管理会社の委託契約料の中に費用が含まれているという理由からでもありません。全くの外部の会社に依頼するときにさえ、仕様書作成は基本的に無料です。したがって、わざわざ、理事会が自前で仕様書を作る危険をおかす必要などどこにもないのです。単に昨年度までの理事会が無知なだけです。
たとえば、M理事は、各施工会社が仕様書を作成するのを無料で行っていることをご存じではありませんでした(1999年4/8理事会)。5年目の中期修繕(主に鉄部の全体再塗装)、10年目の長期大規模修繕と、管理会社や関連会社が修繕計画や仕様書のたたき台を提案し、それを理事会が検討するというのが通常の組合活動です。このマンションは、不思議なことにそういったマンション管理の常識を離れたことばかりをやってきています。
こういったマンション管理の常識について無知になってしまうと、たとえば、大規模修繕の仕様書作成について、他の(外部の)業者が作成すること自体、すでに業者との関係ができあがっている、という幻想に見まわれてしまいます。S理事が提出されている仕様書と同じように、私も清水建設、大成建設、浅沼組、大本組に仕様書作成を依頼しました。ここまでは、どんな業者も無料です。もし仕様書作成について「有料だ」という業者がいるとすれば、断ればよいだけです。しかもこの段階では、不正の入る余地など全くありません。金銭が関わる施工業者決定とは全く無縁だからです。
私の紹介した4社は、家内の勤務している会社からの紹介です。以前、私が理事長を務めて大規模修繕を行ったマンションでもその会社から推薦された会社から4社程度仕様書、見積書作成を依頼しましたが、結局、管理会社(コスモスライフ社)の推薦する施工業者に決まりました。要するに仕様書作成と施工業者決定とは無縁なのです。仕様書ができた段階で、再度、依頼業者を拡大して(仕様書作成を依頼していない業者にまでも拡大して)決定すればよいわけです。もちろん仕様書提案を依頼した業者には見積もりを出させますが、今回のように何の因果でか疑惑が浮上している場合は、その会社を最終決定の際に外せばよいだけのことです。
大切なことは、標準仕様書を公開的に作成することです。とりあえず、管理会社である東急コミュニティに、仕様書を作らせます。ただしそういったものが提案されても、果たしてそれで本当によいのか、理事会では判断できません。したがって、同じように大規模修繕のノウハウを有している他の施工業者に同時に仕様書作成を依頼するわけです。各社から出てきた仕様書と東急コミュニティとの仕様書の比較対照表を作ります。そうやって、仕様書の凸凹を理事会で検討しながら(たとえば、東急コミュニティはタイルの浮きを8%程度と見積もっていますが、大成建設では調査の結果15%としています。こういった凸凹をどうみるかなどの検討が、この段階です)、公開的に評価しつつ、標準仕様書を作成します。ここまでのプロセスには、いっさい経費がかかりません。しかももっとも公開的で効果的な仕様書作成が可能になります。
私が既に取りかかっていたのは、ここまでですから、不正の入り込む余地などないのです。業者はそれなりの経費をかけて仕様書を作成しますが、小さな会社ならいざしらず、仕様書作成のノウハウを有している業者であれば、たとえ、施工を請け負えなくても仕様書作成くらいのことは無料でしてくれます。「1000万円をポケットに入れる」ことなどここでは全く起こり得ないのです。M理事個人に仕様書を作成させ(理事会のだれもが適正かどうかの評価ができていない仕様書によって)、元請けどうしに見積もりを出させ、M理事の「報告」で業者を決定した今回の屋上防水業者決定の経緯の方がはるかにあやしいわけです。
あとは、公開的に作成されたその標準仕様書にしたがって、再度、施工業者各社を募り、見積もり競争をさせればよいわけです。これも2段階でおこない、安い価格を出してきた上位3社程度にプレゼンテーションをさせ、再度見積もり提出をさせる、というのが効果的でしょう。私の試算では、今回の大規模修繕の場合、高グレードのフル修繕を行っても15000万円以内に収まると思います(公正に行った場合)。それ以上の金額になった場合は、“談合”があった(理事会の不正な運営があった)と考えるべきです。
さて、私が不思議でならないのは、そういった方法(前年度の理事会の屋上防水修繕よりははるかに公正な方法)を初回の理事会から提案しているにもかかわらず、なぜ、この理事会では議論が進まないのかということです。
そうこうするうちに2000年3月3日にタイル落下が実際に起こりました。管理会社の緊急調査がはいり、いつ落ちてもおかしくはない箇所が具体的に10箇所以上(管理会社の方から)指摘されました。生命に関わる落下箇所もあり、理事会としては、緊急処置としてパイロン設置や通行禁止区域を決定したわけです。むろんいつまでもパイロンや通行禁止区域を放置しておくわけにはいきません。もはや個別修繕では対応できないとの認識から直ちに大規模修繕のスケジュール化に取り組むべきだとの理事長提案(芦田提案)を3月の理事会で書面でさせていただきました。
そうして2000・4/8に修繕スケジュール提案をさせていただいたわけです。しかし、具体的な提案の話に入る前に「理事長は1000万円をポケットに入れるつもりか」「不正がないというのならその証拠を示せ」というM理事の発言から、大規模修繕の話はふたたびとん挫しました。
細かい話をここでするつもりはありませんが、私の疑念は、危険箇所が指摘されているにもかかわらず、なぜ、この理事会は大規模修繕に取り組まないのかということでした。S理事・MR理事も、「大規模修繕をやらないとは言っていない」などと言って問題をはぐらかすばかりです。「急にはできない」といいながら準備をしない(スケジュールをたてない)のですから、いつまでも“急”な状態は続きます。要するに「急にはできない」というのはやらないといっているのと同じです。
ことある毎に、このマンションの施工不良について言及されるS理事・M理事・MR理事であるにもかかわらず、なぜ、その対策である大規模修繕を先送りされるのか、この点が、私の疑念です。この人たちは、もし次のタイル落下がおこって、人命にかかわる事故が生じたときに、どうやって理事としての責任をとるのでしょうか? 私は理事長として大規模修繕の提案を形に残る仕方で提案しています。管理会社である東急コミュニティもタイル落下の危険性を具体的な報告書とともに指示しています。そうなると次回の事故の責任の半分以上が理事会の責任です。まして理事長である私が早急の取り組みを提案しているにも関わらず、取りかかろうとしない(スケジュールの話にさえ入らせない)場合には、その事故の大半が理事会の責任です。この理事会に私は理事(長)として責任をとることはできません。だから「辞退」を口にさせていただきました。
たぶん、この3人の理事たちは、芦田が大規模修繕を口にするから反対なのだと思います。大規模修繕が急務であることは、賢明な三理事にわからないはずがありません。大規模修繕に反対であるというより、私に個人的な反発があるのだということでしょう。その意味でなら、私が退けばいいだけのことです。
ではなぜ、M理事個人に仕様書を作らせたり、業者決定させたりしつつ、私への意味のない反発が、個人的に前面化するのでしょうか?
答えは、はっきりしています。理事会の役員の任期が「管理規約」の上で存在していないからです。私は昨年の総会に初めて出させていただいて、理事長が4期もつづいて同じ人であることに驚きました。理事長も理事もこの管理組合には任期がないのです。しかも“立候補”で自由に理事になることができます。こうなると理事会は個人的な傾向(なかよしクラブ的な傾向)が強化されることになります。一年目で初めて参加した理事はなかなか意見を言う機会がない状態が続きます。それが(私のような)初参加の理事長であった場合にはどうなるか目に見えています。「理事長であれば、もっと人の意見を聞いて」と私は何度も陰に陽に三理事から“指導”されました。同じことがこの三理事に言えます。何回も理事を経験されているのであれば、新参者の理事の意見を尊重すべきです。任期がない理事会活動に“馴れてくる”と内輪話や個人的・経験主義的な意見が前面化しはじめます。理事会の私物化です。
その最大の現れが、管理会社を無視した理事会運営です。この理事会は、かなり以前から管理会社の管理ノウハウを全く無視したところで運営されています。現状復帰の個別修繕が放置されていること(4、5,8,9号館の共用玄関のエアコンの不調、5号館の各階・1018のエレベータへの浸水、906の雨水吹き込みなど50項目以上の修繕・改良措置が長年手つかずになっています)、中期修繕が遅れたこと(鉄部塗装が10年目というのは通常の倍の長さ放置されていたということです)、屋上防水を個人仕様にしたこと、大規模修繕が遅れていることなど、通常、管理会社とのコミュニケーションがまともなマンションであれば起こり得ないことが生じているわけです。
仕様書作成が無料であることを知らないこと自体が、いかにこの理事会が閉じた、知見の狭いマンション管理をやってきたかを物語っています。管理会社である東急コミュニティは、もはやこのマンションの管理について何も言えない状況に追いやられています(別の言い方をすれば、東急コミュニティは、この理事会をとっくに見捨てています。なぜ仕様書を個人に作らせたのか、なぜ大規模修繕についての提案をここまで遅らせたのか、私は何度も管理会社に詰問しましたが「ご存じの通りの状況で」というのが精一杯の返答でした)。
理事会が強すぎるのです。任期のない理事が「立候補」を繰り返せば理事会が独走するのは当然のことです(しかもこの理事会には非常識にも居住者でない理事も存在しています)。「大規模修繕は、今年の理事会の場合、計画の策定までだ。昨年の総会でそう決めてある」などとMR副理事長(総会時の理事長)が言い出したときには(2000年4/8理事会)、私物化も極みのところまで来たと思いました。誰が次年度の理事会活動の“上限”を決めることができるというのでしょうか。もしそうしたことが“合法的”というなら、今年の理事会活動は依然としてMR“理事長”の手の中にあるということになります。通常の意識では考えられないことです。
これらは、悪意ある発言というよりも、理事任務の長期化で常識が麻痺してしまっているのです。そもそも今回の屋上防水こそ、一昨年の総会では、300万円の個別修繕費予算の中でしか考えられていなかったものであって、それが突然10倍の予算をかける全面屋上防水に変身したわけです。MR理事が理事長を務められるときには、こういった“上限”を超える活動が許されて、私が理事長就任直前・直後から口にしていた大規模修繕については、総会計画に従え、というのは、やはり理事会活動の私物化以外の何ものでもないのです。
もちろん、理事会を私物化したのは、芦田の方だという声が三理事からすぐさま聞こえてきそうな気もします。そこで一方的な私の言い分はとりあえず棚に上げて、この三理事が主導していた屋上防水工事がどのように“民主的に”決定されたのかを調べてみました。
まず、昨年度(1999)の理事会をみてみましょう。昨年度理事会は10回行われています。
(1)12/6 屋上防水についての記述なし
(2)1/30 屋上防水についての記述なし
(3)2/27 屋上防水についての記述なし
(4)4/3 屋上防水についての記述なし
(5)5/8 「屋上防水工事」について初めて議事録に載った理事会
(6)6/19 「見積もり依頼」、三井建設と東急コミュニティの2社に絞り込み
(7)7/17 「雨漏り」確認「アンケート」の実施、「総会」で実施承認
(8)8/21 「アンケート」集計、該当個所の「写真撮影」実施
(9)9/18 「屋上防水工事の実施について検討した」(議事録全文)
(10)10/23 「三井建設」に決定。「金額」は「未定(発注金額は未定)」
(11)12/6(11期総会)屋上防水工事決定
このように全部で10回の理事会が開かれており、5回目の理事会で初めて「屋上防水工事」という言葉が出てきます。第五回目から総会に至るまでの屋上防水についてふれられたすべての文章を原文そのままに抜き出してみます。
第五回:「屋上防水工事についてM副理事長より、仕様(案)について説明があり、了承された。この仕様に基づき近日中に各業者を呼んで工事説明会を実施し、見積もりを依頼することとなった。なお、ルーフバルコニーについても今回の工事に含めることにした」
第六回:「見積もりを依頼し、提出された5社について金額その他検討の結果、三井建設と東急コミュニティの2社と交渉することになった」
第七回:「雨漏り等がないかを確認するアンケートを最上階住戸に実施することになった。なお、今年度定期総会にて承認を得るスケジュールで準備をすすめることとなった」
第八回:「アンケート結果について報告され、雨漏りや染みがあるとの回答を寄せた住戸に対しては当該箇所の写真撮影を実施することになった」
第九回:「屋上防水工事の実施について検討した」
第十回:「M副理事長より次の通り、報告があり、総会に諮ることとした。施工会社:三井建設 発注金額:交渉中(3000万円前後の予定)」
以上が、屋上防水の費用:3000万円を支払う経緯のすべてです。私の疑問は、以下の7点です。
1)屋上防水だけをわざわざ大規模修繕と切り離して単独で行う議論がいっさいなされていない(分離修繕が高くつくという議論が全くなされていない)。言い換えれば、屋上防水工事の長期修繕上の位置づけがまったくないまま、突然、M理事(「M副理事長」)の仕様書提案が行われています。仕様書をM理事がつくる、ということに決まった経緯が全くないまま、最初から仕様書が提案されているわけです。
2)初回の仕様書提案があったときに「ルーフバルコニー」を「含める」といった議論があった以外、仕様書の内容について議論した経緯がまったくありません。要するに仕様書の内容の検討はほんの一回のM理事提案ですべて決まったということです。
3)その一回きりの議論でさえ真剣に行われていないことははっきりしています。ご存じのように「ルーフバルコニー」は、今回の屋上防水から実際は外されているからです。MR理事(当時理事長)が、この間の理事会(2000年4/8)で「ルーフバルコニーは含まれていたはずだ」といったことの経緯がこの議事録の事実にからんでおり、ということは、やはりこれ以後、M仕様書がまともに検討されたことはないということです。
4)修繕についての居住者アンケートは、通常、仕様書を作る前にとるものです。仕様書を突然作っておいて、しかも見積書を取ってから(第六回理事会)、アンケートを実施する(第七回理事会)などというのは、考えられない運営と言えます。仕様内容が決定しないにもかかわらず、どうして見積書(修繕費用)を出すことができるのでしょうか? 「業界をよく知っている」M理事がどうしてこういったわけのわからない段取りを組むのでしょうか?
5)さらに見積もりをとる業者がどのようにして選ばれたかが全く不明。さらに2社(三井建設と東急コミュニティ)に絞られた理由が「金額その他」となっており、結局2社に選ばれた理由は不明。理由が「その他」とはいったい何のことでしょうか?
6)そして最後に、業者決定。2社の内から三井建設が決定。理由の記載はなし。「その他」という曖昧な言葉どころか、「金額」という言葉も消え、M理事の「報告」だけで「三井建設」になっています。しかも「発注金額」は「未定」。こんな決定を行う理事会は、もはや組合員の代表ではありません。
7)総会では見積もり金額が出ていましたが(三井建設がとりあえず一番安い金額になっていましたが)、総会で出てきた数字は、どこで・いつの時点で明らかになっていた数字なのでしょうか? 議事録にその形跡はまったくありません。いったい見積金額はどの時点で誰に提出され、どういった評価の元に業者決定がなされたのでしょうか、全く不明。しかも、この議事録には記載されていませんが、東急コミュニティは、M理事から依頼されてすでに99年5月6日に3150万円(税込み)の見積もり(屋上防止の)を仕様書とともに提案しています。5月6日といえば、M理事が理事会ではじめて「屋上防水」を口にする2日前のことです。この見積額には、今回の防水工事では省かれたルーフバルコニーの一部分も含まれていました。このまぼろしの見積額が、どのように消されてしまったのか、不思議です。
そもそも、2900万円(税別)という総会で出された三井建設の金額は、それが典拠していたM仕様書にはなかった4階屋上部分(通称“渡り廊下”)の防水工事を省いたものであって、結局のところ組合からの支出額の実際は3150万円(税込み)になっています。この金額が、4階屋上部分(通称“渡り廊下”)を追加仕様にして払った三井建設への支払額なのです。つまり総会で出された仕様書、それに典拠する見積額とは別の仕様書・見積額で業者決定がなされたということです。これは業者決定の不公平、総会決議の軽視です。東急コミュニティは最初から(5月のM理事提案以前から)仕様書を作ったり、見積額を提案していた経緯から、再度金額を出したいとM理事に提案したのですが、M理事はそれを受け入れず、その表に出ない過程の中で三井建設に決まったわけです。
つまり三井と東急コミュニティの2社の絞り込みがなされて以後(第六回理事会)、金額交渉(=業者決定)は個人的・独断的になされたということです。そもそも全業者の見積もり提出先(期日は6月15日)は、理事長ではなく、M理事になっています。ここで明らかなのは、M理事がもともと関心を持っていたのは、仕様書作成ではなく、むしろ業者決定の方だったということです。むしろ大規模修繕(の業者決定)に関心があるのはM理事なのです。だからこそ、私の、あからさまな(公開的な)大規模修繕提案(特に元請けである三井建設を入れない提案)を排斥せざるを得ないのです。
以上7点から何を学ぶべきなのか? 三理事に「独断的」とされた、後任の理事長である私は何を学ぶべきなのでしょうか? しかし明らかなことは、昨年の理事会は通常では考えられないプロセスを経て、屋上防水:3000万円修繕の業者決定を行ったということです。
私は、理事長として大規模修繕仕様書をつくる準備提案をさせていただきました。それは今年度の一回目の理事会(昨年の12/18)からの提案でした。4ヶ月に渡る仕様書提案でさえ、「理事長の独断」(S理事・MR理事)、「芦田理事長は業者からの1000万円をポケットに入れている」(M理事)ということで退けられてしまいました。その発言の当事者たちが、突然の仕様書提案から始まって「三井建設」に決まるまでの極めて不透明な経緯を演出しているわけです(昨年の議事録の認定署名は第5回理事会まで行われており、その5回ともがMR理事・S理事・M理事によってなされている。あとは6回目以降はなぜか無署名)。要するに組合員に対する犯罪的とも言える私物化が行われているわけです。
もちろん、議事録ですべての経緯を尽くすことはできないでしょう。しかし、議事録が曖昧であること、大切なことが記載されていないこと(もし、三理事がそう言うのなら)それ自体が理事会の私物化の証であると言えます。要するに任期のない理事によって、なれ合いの運営がなされているからこそ議事録が充分ではないのです。
この三理事に、私の大規模修繕にかかわる理事会運営を批判する資格はありません。私は、少なくともこの三理事よりは遙かに公正な運営スケジュールを提案しています(2000年4/8)。不正の入り込む余地は全くありません。それどころか、仕様書作成・業者決定という、マンション環境保全(そして資産保全)にかかわる生命線とも言える課題を最も効果的な仕方で全うする方法を提案しています。これは、私が以前のマンションで理事長として大規模修繕に携わってきた成果です。というより、こうしておけばよかった、あれは失敗だった、などと後悔の連続であるのが、大規模修繕というものです。そういった失敗の経験を活かすことが私が大規模修繕に関心をいだいた最大の動機でした。
私が理事を退くことが、私個人への嫌疑をはらし、そのことが大規模修繕を整然とすすめることにつながるのであれば、私は喜んで理事長を辞退する、と私は4/8の理事会で発言しました。しかしもしそのことが、ふたたびこの三理事による大規模修繕への道につながっているとすれば、それこそが、不正、不適正な大規模修繕への道を開くことになるのです。もうそのときには、このマンションのすべてが立ち直りようのない状況に陥ると言えます。
私は、臨時総会を開くべきだと思います。もはやこの理事会は、自浄作用を失っています。もし私が「独断的」というのであれば、もっとも民主的な総会で、この大規模修繕提案の正否を問えばいいと思います。それが理事長である私に課せられた最後の課題です。
(初出2000年9月 マンションの全住戸に個人的に配布)
2002/3/21(木)18:48 - ぽこあぽこ - 134 hit(s)
どこからでもかかってこい!の相手は・・・
種類:ステータス依存性自己完結種
説明:幼稚園のPTAから始まってどのコミュニティにも生息している。戦い甲斐はあるがこちら消耗の度合いも桁外れに大きい。時に急性胃炎の原因ともなる。
正しいこと、理に叶った事を書かれているだけなのに、「個人的な理由」でそれに正面から取り組もうとしない相手(しかも「管理組合理事会」というステータスに価値を見出しているであろう相手)とがっぷり四つに組むのは勿体無い気がします。
2002/3/21(木)23:48 - 芦田宏直 - 159 hit(s)
理事会理事のマイナスの社会的特徴10タイプ(超私的見解)
1)地域の自営業(小店舗の“社長”)の理事の場合。めったに経験しない“会議”や“議長”という役回りが楽しくて、全体を引き回す人。世間話が多く、会議(理事会)が長くなる。挙げ句の果てに会議が終わったら「飲みに行きましょう」。彼にとって、理事会は“祭り”にすぎない。
2)引退した会社の役員の理事の場合。経験に執着、自慢話に終始する。話しているうちにいつの間にか何が議題かわからなくなる場合が多い。大手企業の役員で、上品な人は、自分の“知らない”議案の場合は、あっさりと人の言うことを認めるから、いざというときに役立たない。
3)ベンチャーの若手社長が理事の場合。何でも自分でやろうとするから、管理会社と対立しがち。管理会社も関係“業者”の一つということで、コストダウンの対象になってしまう。この手の社長が理事長になるとコストダウンにしか関心のないマンション管理になりがち。
4)大学教授、お医者さん(開業医)が理事の場合。組織決定という意味がわからない人が多い。他人に「先生」と呼ばれて、単独で仕事をするのが多いためにそうなる。人に頭を下げることができないため(頭を上げることはできても)、業者との契約の時の取引ができない。知識があるため、知識にだまされる場合が多い。
5)大手の会社員が理事の場合、会議には慣れているが、ライン(組織)がない会議のため、好き勝手なことを言いがち。日頃のライン会議のうっぷん晴らしになってしまう。何を言っても上司がいないというのは、酒を飲んだときのサラリーマンと同じ。理事会中は、酔っぱらった状態ということだ。
6)共産党や公明党の党員が理事の場合。これは難しい。住民同士ということで身分を隠す場合とそうでない場合とでは全然違ってくる。理事会は成因絶対数が少ないから、つるまれたら終わり。どちらの政党も、“暮らし”や“生活”を大切にする政党だから、問題がややこしくなる(暮らしや生活は本来は非政治的なものなのに)。しかし、マンション管理で政治が介入する場面というのは、近隣に高層マンションが建ったりして、日照権が侵される、といった超法規的な場面だけだ。建築基準法では、いつも合法だから、法律を超えた運動が必要になる。その場合は、〈政治〉しかない。政治は法を作るという意味で、いつも法を超えているからだ。それ以外は、党員理事の政治性は回避されるべきだ。
7)隠居中のご老人の理事の場合。バリアフリーには関心があるが、そのように、もっぱら機能的な便利さ(=特に安全性)を求めがち。デザイン保全や資産保全という点では、主張が薄い。雨風がしのげればいい、ということになる。マンション管理全般についての関心は薄い。
8)一人暮らしの40才までの女性(あるいは男性)が理事の場合。判断にそれほどの間違いはないが、勝てない、と思ったらすぐに諦める傾向がある。役に立ちそうで役に立たない場合が多い。この人たちには、どんな議論も、「理事会の内紛」に見えてしまい、挙げ句の果てに、マンションを出ていってしまう。
9)家庭の主婦が理事の場合。関心のあることにしか関心がない(失礼!)。
10)何期も理事を務めている理事の場合。最悪。どんな優れた人も、多選による馴れ合いは、百害あって一利なし。多選理事はかならず管理会社を排除し、身勝手な管理活動(責任の取れない管理活動)をし始める。一見、ラディカルに見えるが、結局は引き回しにすぎない。理事会には関心のない組合員が多いから、多選理事が同じ期に2人か3人いるだけで、その管理組合は、どうにでもなる。これは、共産党や公明党による引き回しよりはるかに問題が多い。両党は公党としての社会的な顔を有しているが、多選理事は、純粋なボランティアとして、“顔”なしの役員にすぎないからだ。多選を防ぐことは、理事会人選の基本。
注記)以上はタイプ(傾向)を示しただけで(かつマイナスの傾向だけに絞って示しただけで)、実体論ではありません。これを外れるそれぞれの人はいくらでもいますから、誤解なさらないように。
2002/3/22(金)21:37 - 一管理員 - 101 hit(s)
マンション理事会についてここまではっきり言える人は管理会社の中にもいません。簡単に讃辞を書くわけにもいかない立場なのですが「私が理事長を解任された理由」にある理事の10タイプの例はまったくその通りとしかいいようがない。実体に近い見解でびっくりしました。
マンションに住むみなさん、是非参考にされたし。もうマンションを数年ごとに買い換える時代には二度とならないのです。・・・ただし、私は芦田家のマンションには一切関与しておりません。
2002/3/23(土)00:07 - マンション理事 - 110 hit(s)
私も、現在、管理組合の理事で大規模修繕の最中ですが、第三条で触れられている「現状復帰」ばかりが、最善の修繕とも言えないと思います。住民同士が了解し合えれば、改善という意味での変更はあってもいいのではないでしょうか? その他の点は、大変勉強になりました。今後の修繕に活かしたいと思います。
2002/3/23(土)02:02 - 芦田宏直 - 139 hit(s)
もちろん、変更はあってもいいと思います。ただし、その場合は、変更が全体に及ぼす影響のシミュレーションを徹底的に行う必要があります。
たとえば、私の住むマンションでは、(現状では)バルコニーの手すりがモルタルのコンクリートのむき出しになっていました(その上にアルミの手すりが付いている仕様)。このモルタルの部分を笠木(かさぎ)といいます。外から見るとバルコニーのブラウン色タイル壁面の上部(グレーのモルタル部分)が25ミリくらいの厚さの帯で(10ミリの溝を介して)走っていました(従って、色はコンクリート色のグレーでした)。同じようにバルコニータイル壁面の下部も二段階の刻みの凝った作りで薄いベージュ色のラインをサイドに走らせていました。ブラウンタイルのバルコニーを上下のライン(モルタルグレーとベージュのライン)で挟んでいるそういった作りになっていたわけです。
モルタルの笠木は、10年経つと細かいひびが入り、大規模修繕では、通常ウレタン塗装の対象になります。しかし、ウレタン塗装は、光りやすく、最初のモルタルの質感が簡単には出ません。いかにも塗ったな、という感じで安っぽくなります。
そこで、我が理事会は何を思ったのか、タイルの色に近い、茶色に塗ることを提案しました。しかし、笠木部分をタイルの色と大して違わない茶色に塗ることは、バルコニー全体のイメージ、ひいてはマンション全体のデザインの大きな変更になります。単純に考えても、上部サイドラインに関して締まりのないのっぺらぼうなバルコニーの風景に変形してしまいます。同系色であるためにおかしくはありませんが、イメージが変わることは明らかです。
こういった変更を行う場合、まず、グレーであるとなぜいけないのか? の議論を公明正大に行うべきです。一つは、グレーのウレタン塗装では、光りやすく、安っぽいという場合、何色のグレーを検討したのか、現場のモルタルに近いグレーの色出しにどれほどの検討が加えられたのか(塗装業者、カラーコーディネータ、建築デザイナーなどの専門家の検討など)、ということが問題になります。我がマンションでは、既成色の2色のグレーを検討しただけで、早々と茶色に決まってしまいました。しかも茶色にした場合、全体の景観がどう変わるかのシミュレーションは一切ありませんでした。色見本だけで決めたわけです。
これは無謀です。6畳の部屋のカーテンでさえ、見本だけで決めるのには大概失敗します。それを160戸(1万2千平米の敷地を有する)のマンションで外壁バルコニーのデザインの大勢を決める笠木の色を景観シミュレーションなしに決めるというのは、無謀です。まだ足場が外されていないため、私もどうなるのか大変不安です。誰一人、全体がどう変わるのか知らないまま茶色にしてしまっているのです。
そもそも、最初にやるべきなのは、グレーの色出しを徹底的に行うことです。本当にモルタルの色に近いウレタングレーは出し得ない色なのかどうなのか、の徹底的な検証やってからこそ、他の色の“変更”を考えるべきであって、その検証過程は、今回の茶色決定の過程では根本的に抜けています。
笠木のモルタル仕様は、まず第一にデザイナーの選択が働いています。バルコニーのサイドラインに緊張感を持たせて、建物を大きく見せることに成功しています。わざわざ、このサイドラインを(タイルと同じ色の茶色にすることによって)消すことに、どんな意味があるのか? このことに、理事会は答えなくてはなりません。
しかし、そんなことに答えられるわけがありません。施工業者も設計監理者も、グレーがイヤなら、同系の茶色はどうか、という提案をしただけです。要するに「おかしくはない」という提案の仕方です。積極的な意味など何もないのです(あるはずがない)。
というのも、私は、このマンションのデザインは14年経った今でも、最新のマンションも含めて、他のどのマンションよりも優れた造形を形成していると思うからです。特に、このマンションは共通廊下を徹底して排除して(160戸の規模で10基のエレベータを配置するという贅沢な仕様になっています。私のフロアのエレベータは私の住戸しかありません。専用のエレベータになっています)、裏(背後)から見ても前から見ても同じ造形を保っています。そのためにクーラーの配管も外部から見えないように床置き式のものを標準仕様で用意する徹底さです。外壁からたれた縦にのびる配管が壁面のデザインを阻害するからです。そのように裏・表のない景観を成功させた最初(にして最後)のマンションが、我がマンションです。その威風堂々な景観にバルコニーの笠木のサイドラインが一役買っているわけです。マンションデザインを考える人は、必ず参照すべき優れた造形を保っています。
こういった議論が全くないまま、ウレタングレーは、「安っぽいから」という理由で笠木が茶色になりました。サイドラインが消えたわけです。バカなことをしたものです。今頃デザイナーは泣いていると思います。これもマンションの資産価値が減退することの一つです。デザインも資産なのですから。
私が言いたいことは、変更には、積極的な理由がなければならないということです。「おかしくはない」ということで、変更を重ねていけば、かなりの変更が自由になります。デザイナーの造形は、一つのコンセプトから細部が煮詰められていきますが、理事会の変更は「おかしくはない」細部の変更から、全体が形成されていくため、全体のコンセプトが消失していきます。そうやってデザイン資産が減退するのです。理事会の暴走がいかにマンションをダメにするかの好例です。
それを防ぐには、徹底したデザインシミュレーションが必要になります。初源のデザイナーが苦心したのと同じコンセプトシミュレーション、カラーシミュレーションなしに、「おかしくはない」程度で、色を変えてはいけないのです。現場復帰というのは、保守的な行為ではなくて、蘇生行為なのです。
2002/3/23(土)08:46 - 門外漢 - 124 hit(s)
わたしの住むマンションも10年の大規模回収が終了しています。
回収の仕様、内容に関しては何も知りませんでしたが(もともとどういうものか、わかっていなかった)
工事が済んでから一番違和感があるのが、ご指摘の”笠木”なるモノの色です。
改修前はモルタルのむき出しでした。
それがタイルと同じ色が塗ってあったので、どうしてこんなことをしたのか、
ずぅーと気になっておりましたが、今回の「毎日」を読んではじめてわかりました。
とりあえず、この変わってしまった”笠木”にツイツイ目がいき、気になる毎日が続いております。
2002/3/23(土)15:05 - 芦田宏直 - 187 hit(s)
東京で、一戸建てでマンション並みの〈快適〉な生活をしようと思えば、地価の下がった今でも最低2億円はいるでしょう。そんなお金、私にはありません。もっともマンション選択は、そのような経済的な問題だけではありません。
マンションライフのもっとも快適な要素は、〈生活〉を隠せるということです。戸建ての一軒家であれば、外から見れば(外から見ても)、その家族の暮らし向きが見えてしまいますが、マンションならば、それが見えません。それについては、すでに「芦田の毎日」532番「クルマ購入法10箇条」の第6条で次のように書きました。
第6条:次は、価格。これは難しい。たとえば、オーディオとクルマという趣味の一番違うところは、オーディオは家庭内に隠せるが(人目に付かないが)、クルマは隠れて走ることができないということ。クリーニング屋もその家庭から預かる衣類によって、その家庭の暮らし向きの“グレード”を極め尽くしているが、クルマもその家庭の“グレード”を“表現”することになってしまう。個人的な趣味にとどまらないところが、要注意。好きな車だからといって、せっせとお金を貯めて1000万円以上のクルマを買ってしまったりしたら、その後が大変。それより安いクルマ(ほとんどがそれより安いクルマだと思うが)が好きになったときに、素直に乗り換えても、“世間”は、許してくれない。“勢いがなくなった(暮らしが傾いた)”ということになる。
特に、戸建てに住んでいる人は注意。30坪くらいの家で、フェラーリが小さな自宅駐車場にあったりすると(開口間口の半分以上が駐車場という悲しい戸建て住宅)、他にやることあるんじゃないの? と知らない人にまで思われてしまう。
クルマが趣味の人は、マンション住まいの方が無難。マンションの方が“暮らし向き”が間接的にしか出ない分、クルマ選びの自由度が高まるからだ。戸建ては、それに比べて、暮らし向きが直接的に露呈してしまう。
30坪くらいなら、洗濯物まで露呈してしまう。クリーニング屋の分析を待つまでもなく、〈生活〉が露呈する。これはきつい。逆に言うと、マンションで、テラスの天井に物干し竿を設置するステイが付いていたり(本来は手すりの下方で、洗濯物が外部下方から見えない位置に設置すべきだ)、布団をテラスの手すりに掛けているようなマンションは、非生活的な生活を志向するマンション族の精神に反したマンションなのである(最近のマンションの乾し竿のステイは、普及型のマンションでさえ、天井には付かなくなっている)。だからマンション暮らしでもテラスに布団や洗濯物が干してあるマンションでは、400万円以上のクルマは買うのに勇気がいるかもしれない。
もともと都市生活では、その人の“家”が見えないことと〈自由〉とは同じことを意味していた。都市化とは生活(=家)を隠すことだったのである。そして、クルマとは、その家から自由に遠ざかることだった。都市化とモータリゼーションは軌を一にしている。そして、その家とクルマが交差する〈駐車場〉は、もっとも矛盾した場所なのである。最高に自由なオープンカーを買ったのに、月極野ざらし駐車場しかない。これは喜劇ではなくて悲劇だ。家に合わせたらクルマを買う意味がない。クルマに合わせたら、それを保管する場所がない。
いろいろと考え始めると好きとか嫌いということだけで選べないことが出てくるのが、クルマ選びの難しいところ。トヨタ的に整序された階層・階級的なランキングに従うのも面白くないが、社長よりいいクルマ(高いクルマ)に乗るのも気が引ける。それに、そもそもそういった右肩上がりの階級的なクルマ購入(トヨタ的な階級主義)も幻想に近いものになってきた。自由にクルマを選ぶとすれば、自らが、そういった〈社会〉や〈生活〉から自由でなくてはならない。でも、そんなこともともと不可能なことだ。さて、どうする?(「芦田の毎日」532番:「クルマ購入法10箇条」より)
マンションライフの快適さは、都市化が反生活化(=自由)であることと同じ動きの中での出来事です。確かにそういった自由は、幻想にすぎないのですが、貧乏人は貧乏人〈である〉ことを、金持ちは金持ち〈である〉ことを相対的に気にしないで済ませることができる。これは、〈生活〉を嫌う都市生活者にとって、快適であることに違いはありません。
2002/3/24(日)22:32 - 芦田宏直 - 307 hit(s)
今日、芦花公園へ花見に行ったが(と言っても出たのは16:00すぎ)、よく考えたら、芦花公園は、桜が少ない、むしろ周辺の小学校の周りの方が桜が多いくらいだ。しかし、季節はずれな桜は、やっぱり、ダメ。卒業式からも入学式からも外れている。
そのお花見に帰りの道ばたで、かわいい犬がお庭にある犬小屋から顔を出してくつろいでいるのを見つけた。近づいても吠えないが歓迎してくれる様子もない。よく見ると、なんと犬小屋の入り口の頭に「この犬ゆずります」と書いた紙が貼ってある。ショック! 笑うにも笑えない。
この犬は、このことを“知っている”のだろうか? そう思えば、かわいいけれども元気がない。横たわったまま、すねた、寂しそうな顔をこちらに向けてちらちらと私を見ている。
まず思ったことは、この犬が愛想がないのは、通行人に好かれてしまって連れて行かれたら大変だから、わざとかわいくない振りをしているのではないかということ。
次に思ったことは、たとえ、今の飼い主が、この犬に気づかれないような振りをして毎日飼い続けているにしても(たぶん、気づいているとは思うが)、このように通行人がたちどまり(「かわいそうね」と言いながら)騒いでいること自体で何か感じるものがあるはず、ということだった。
要するに、二重、三重の意味で、この犬の「毎日」はつらいものがある。捨てる気になった飼い主に今さら媚びを売るのもむなしいし、かわいそうにと近づく通行人に媚びを売るのもわびしい。どうしようもない日々が続くことになる。まさにそんな顔をして、私を見ていた。
そういえば、この間も芦花公園の駅の近くで、散歩したくない犬に会ってしまった。散歩したくないというより、もはや散歩できない老犬なのだ。飼い主も60前後の老婆なのだが、その老婆よりも歩く速度が遅い。
前足はほとんど動かず、腰を左右に振ることなしには前に進まない。速度が遅いものだから、クビひもを通じて、ずーっと引っ張られた状態での散歩。これは地獄だ。横断歩道での赤信号が唯一の休息。下を向いたまま、顔をあげる力も残っていない。
この老婆も一人暮らしなのだろう。犬しか相手にしてくれる人がいない。犬も、この飼い主を残して先立つわけにも行かない。どちらも人生(犬生?)を散らすための散歩なのだ。
二匹の犬を見て思うことは、散り際というものだ。どちらも散り際を間違ってしまっている。桜の花が、季節はずれの(忙しい)年度末に咲き、入学式(入社式)では姿を消して、咲く(=散る)意味を失うように、この犬たちの消尽も、どこかで狂ってしまったのだ。ワンワンと泣くこともできなくなってしまった、この犬たちの沈黙に、合掌。春は、いつも落ち着かない、イヤな季節だ。
2002/3/29(金)21:31 - 三匹目の犬 - 127 hit(s)
この二匹の犬の「毎日」が気になってしょうがない。
犬小屋に「この犬あげます」と書かれたほうはどうなっただろうか?ふと会社の帰り道、通り道の家の犬小屋を覗いてしまう。
何というひどい飼い主だろう。そういう人は動物を飼うことがまちがっている。ペットブームの到来から多くの種類の犬が飼われるようになったが最後まで暮らす覚悟でないと飼ってはいけない。
また高齢者の一人暮らしなら若い丈夫な犬でないと辛いものがある。いままでいっしょにくらしていた犬が自分と同時に年老いていくのはしかたがないが昔の近所づきあいができる暮らし方が必要だ。
所詮この二匹の犬と自分は何も変わらないのかもしれないが桜が散るのを見て悲しくなった。
2002/3/29(金)22:30 - 芦田宏直 - 196 hit(s)
というより、人間、ペットを飼うこと自体が堕落です。最大の遊び相手は、自分自身であって、人と遊んだり、モノと遊んだり、ましてやペットと遊んだりしてはいけません。そういった人たちは、自分自身に退屈しているのです。退屈して遊ばれた人間、モノ、動物はたまったものではありません。ペットを飼いたいな、と思うときは、その人が心理的、あるいは社会的に危険な状態にあるときです。ましてや飼っている人なんて、ろくな人間、ろくな家族ではありません。
2002/4/2(火)23:19 - 三匹目の犬 - 117 hit(s)
ろくな家族ではない・・・とは聞き捨てならない。年度初めで忙しい時にこの返信は気になって仕方がない気の小さい三匹目の犬です。
最後まで看取ってやるつもりで家族のような愛犬をそういわれるのはいやだ。
2002/4/5(金)23:39 - 芦田宏直 - 127 hit(s)
自分の死や家内の死すら看取れるかどうか、怪しいのに、どうやって犬の死を見とれると思っているのですか。
よく、子供ができないから(とか、子供が大きくなったから)、と言いながら、犬を飼う場合がありますが、そんなことをするから、子供ができないのです。あるいは、それ以前に、なぜ、子供がいなくてはならないのですか?
子供が偶然いないというのは、いったい、どのような〈欠如〉なのですか? それは、足や手がないという欠如と同じように、まったく欠如ではないでしょ(だから、私は、足のない人がパラリンピックなどで必死で走るという意味がわからない。もし彼らに走る意味があるとすれば、その努力の果てにベン・ジョンソンより速く走れる場合だけだろう。
「足がないのに(障害者なのに)速く走れたね」というのは、褒めコトバではなくて、それ自体が差別だ。人は、留保なく、努力できるものだけに関わるべきだし、またそうあり得るのが、人間〈である〉ことだ。
したがって、自分と遊ぶことなしに、犬と遊んだりしてはいけない。もともと、遊ぶことは留保がないものにこそ向けられるべきであって、いざとなれば捨てることのできる犬と遊ぶなんて、遊んだことにはならない。
あなたは犬を捨てるように、自分を捨てることができますか? この問いを回避するから、犬を飼って、寂しさをまぎらわせるような気がするのです。
しかし、家族とは、それ自体、孤独なものです。夫婦は、好きなままで別れる(死別する)唯一の恋人同士です。この孤独(あるいは、逃げようのない遊び)を、犬を飼うことで、どう代理するというのですか? 「家族のような愛犬」とあなたはこともなげに書きますが、なんと殺伐とした家族でしょうか。犬など飼わずに、もっと自分自身に向かうべきです。
2002/3/27(水)19:20 - 芦田宏直 - 270 hit(s)
◎第14期(2002/4〜2002/9) ICAカリキュラムの新規講座群のご紹介
毎回六ヶ月おきに、最新技術を追いながら、すべてオリジナルテキスト、オリジナル講師で講座提供するスクールなんて世界中どこをさがしてもありません。以下全70講座を新規に補充、刷新しました。講座名の頭にある数字は、講座番号(講座の通し番号)です。なお、これらの講座の講義概要を含んだパンフレットは、金曜日(29日)に仕上がります。インターネット英語講座(パソコンやインターネットを通じてなら英語世界を征服できる、という英語苦手派の敗者復活講座)、SPSS(多変量解析)講座(Excelではデータ分析ができないと不満のあなたへの講座)、ビジネスモデル構築講座(パソコンスキルをビジネスマネージメントに結びつけるための講座)など、従来と異なった系列の講座を新規開拓したため、パンフレット作成が遅れました。お許し下さい。なお、ホームページ(http://www.terahouse-ica.ac.jp/)ではすでに発表しております。
○パソコンシステム環境
22 WindowsXP/2000修復セットアップ・回復コンソール活用法
29 フリーソフト講座(4)(ユーティリティ編)
30 インターネット入門
31 インターネット応用
○インターネット英語講座(新規)
32 英語圏ネットサーフィン入門
33 英語圏ネットサーフィン応用
34 英語電子メールの読み方と書き方
35 インターネットを利用した英語学習法
36 英語ソフトと素材のダウンロードと利用法
37 インターネットで知るビジネス・トレンド
38 インターネットで知る英語圏企業情報
39 インターネットで知る世界のニュース
40 インターネット・ショッピング
41 インターネットで計画・予約する海外旅行
42 村松増美 えむ・えむ国際交流協会講座
○ネットワーク環境系
61 SQL Server応用(XML)
70 SAMBA
74 セキュリティ講座
75 LINUXインストール講座
77 オブジェクト指向実践
81 Enterprise Java Beans
○SPSSデータ分析・解析講座変量(新規)
144 ヘルプと出力の操作&データのソースと構成、入力と読込み
145 ラベルと欠損値コードの追加、個別変数の要約データの検討
146 データ値の変更とクロス集計表
147 ピボットテーブルとグラフ編集
148 シンタックスとデータ計算
149 データとファイル
150 ファイルの結合と多重回答処理
151 図表:チャートルックとテンプレート、役に立つ機能
152 統計の基礎とデータのチェックと質的変数の記述
153 グループの比較:質的データと量的データ
154 グループ間の平均の差(1):単純なケースと一元配置の分散分析
155 グループ間の平均の差(2):二元配置の分散分析&回帰分析入門
○Access講座
166 Access 基礎総合
169 関数&演算実践
170 Access マクロ
173 Access VBA実践
175 SQL応用
181 ACCESSアプリケーションの開発
182 実践ユーザインタフェース(フォーム&VBA)
○ビジネスモデル構築講座(新規)
188 ビジネス価値創造
189 新製品&サービス開発プロセス
190 商品開発プロセスとIT
191 顧客ニーズとのマッチングプロセス
192 顧客ニーズとのマッチング手法としてのマスカスタマイゼーション
193 顧客との共創
194 価値実現とサプライチェーンプロセス
195 生産プロセス
196 SCMプロセス
197 ビジネスモデル演習(1)
198 ビジネスモデル演習(2)
○土日講座
210 Perlプログラミング実践
211 PHPプログラミング入門
314 2D建築JWCAD入門
315 2D建築JWCAD応用
316 2D建築JWCAD実践
322 データ変換&プレゼンテーション(Illustrator&Photoshop)
328 データ変換&プレゼンテーション(Internet explorer&Volo)
372 Visual Basic.NET
385 オブジェクトの生成
391 JAVA サーバーサイドプログラミング(JSP編)
392 JAVA サーバーサイドプログラミング(Servlet編)
395 Java技術者就職対策講座
414 エラー処理
419 テンプレート作成 データ分析
423 SPSS基本操作
424 クロス集計とグラフ作成
431 VBAとSQL
436 トランザクション&エラー処理
437 アプリケーション作成 (以上)
2002/4/8(月)08:53 - 芦田宏直 - 193 hit(s)
ユーザーコンピューティング宣言 ― いかにしてテラハウスは誕生したか(テラハウス第14期カリキュラムパンフレット:99ページ〜106ページより)
テラハウスICAキャリア開発研究所 所長:芦田宏直
0)はじめに
私どもは「東京工科専門学校」ということで都内に4校の専門学校を持っておりまして、30年前に自動車系の専門課程から始まりまして、建築・インテリア系、情報情報系、3D、WEBデザイン系、バイオテクノロジー系まで、主に工業・技術系の職業教育を自分たちの分野にしている学校です。
96年4月に東中野駅前に新しい校舎(「テラハウス」地上11階・地下1階)を建てるということで、「キャリア開発研究所(Institute for Career Advancement)」(略称・テラハウスICA)という新しい職業生涯学習の教育組織をつくり、カリキュラムを立ち上げ、脱18才層受講生の募集を始めました。
そのときぼんやりと考えていたことといえば、18歳の人口が減少していくなどということは耳にタコができるほど聞かされていて、専門学校ももっと広いマーケットで学生募集をしていくような、そういった展開ができないかということはもちろんなかったわけではないんですが、そういう仕方でマーケットを拡張して、取ってつけたように新しい組織をつくって生涯学習を展開しても、多分うまくいかないだろうということ(事実、生涯学習組織で経営的にも成功している事例は皆無だと思います)。例えば、私立の女子中が、あるいは男子中が女子学生にまで枠を広げて(その逆もあり)マーケットを広げるといったのと同じで、専門学校も18歳層にもはや期待しないほうがいいと。「生涯」学習ということになれば、(キッズ層から)シルバー層も含めて広範なマーケットが期待できるというような展開というのが一方であったわけですが、多分そういうことではないだろうというのが我々が考えていたことです。
社会全体が大きく変わろうとしていると。それは子供が減少しつつあるということの問題ではなくて、学習のあり方や知識のあり方、そして仕事の仕方自体が根本的に変わろうとしているのではないかと考えたわけです。従来から「職業教育」を標榜してきた専門学校こそが真っ先にそういった新しい学習のあり方や、あるいは新しい職業人の人材形成について答える義務があるのではないのかとおもったわけです。
1)新知識主義と生涯学習社会
我々がまず考えたことは、〈知識〉ということの意味が最近変わってきているぞという予感についてです。
これまでは〈知識〉といえば、〈現実〉だとか、あるいは〈実務〉だとか、あるいは〈実践〉みたいなものと切り離されて考えられてきて、むしろ対立するものとして考えられてきたわけですが、コンピュータがパーソナル化し、「パソコン」という形をとってどんどんどんどん大衆化していきますと、〈知る〉ということの意味が変わってきて、〈知る〉ということが極めて実践的で行動的な内容を持つようになってくるということがあります。むしろ〈知っていること〉と〈できる〉ことがイコールになるような環境がコンピュータメディアの普及によってどんどん広がりつつある。
たとえば最近の自動車について言えば、ブレーキングの技術というのを習得するにはかなりの時間がかかりましたし、特定のセンスを持っていなければ、そういったブレーキを上手に踏むということはできなかったわけです。ところが、今日のようにコンピュータシミュレーションによるブレーキングシステムの技術が進んできますと、「アンチロックブレーキ」や「トラクションコントロール」、あるいは最近では「ブレーキアシスト」といったようないろんなシステムが車の中に入り込んできて、とりあえず踏めば何とかなるみたいな状況が、まだまだ技術的には未熟ではあるけれども、そういった状況が生まれてきている。〈ブレーキを踏めば車がとまる〉という知識のレベルでの操作で“実際に”車が止まる。知的な操作がそのまま、これまでかなりの熟練技術(=経験)を必要としたブレーキングの技術に取ってかわりつつあるということです。
そういった分野は、例えば私どもであれば、建築系の大きな科を持っているわけですが、手書きの図面の作業がCADにかわっていくという場面に対応しています。専門学校は、従来2年間(あるいは3年間)何をやっていたかというと、ある意味では、きれいな線(あるいはきれいな図面)を描く勉強を「実習」と称して時間をかけてやっていたわけですね。それは文字どおり時間がかかる学習でありましてなかなかそれは、〈こう引けばこうなる〉ということを知っていても、きちんとしたきれいな図面を描くということは大変難しくて、まさにこの限りでは、〈知っていること〉と〈できる〉こととの間に大きな距離があったわけです。それはあらゆる分野でそういった距離があったわけですけれども、CADであれば、〈操作を知る〉ということと〈線を引くことが(実際)できる〉ということの意味はほとんど同じ状況になってくる。そうすると、実習に長い時間を割いて図面を書いていくというプロセスというのがコンピュータに介在されたシミュレーション技術を駆使するレベルでは、〈知識〉にかわってくる。つまり熟練技術の形成というのが〈知る〉ということの中へどんどん変貌して入ってくることが起こってきます。〈知る〉ということが実践的な意味を持ち始める。
専門学校の職業教育というのは、大きな「実習」時間を割いて、かつ業界なり官庁の規制の中で実習時間何時間というのをあてがわれながら、なかなか融通をきかせにくいカリキュラムの中でやってきていました。その中でやってきたのはほとんどが習得するのに時間がかかる教育、つまり身体(の馴化)に依存した熟練技術の教育というものを専門学校は社会的には負ってきたわけです。そういった馴化・熟練学習の部分というのが、コンピューターメディアを介在させる昨今の技術普及によって、どんどん知的なものに変貌しつつある。その中で、教育の内容が大きく変わろうとしてきているということを我々は考えてきたわけです。
つまり、身体や熟練した手仕事を介在させなければいけない教育の分野がどんどんどんどん縮小しつつあるということです。高等教育における職業教育というものの意味がかなり変わってきているということ。
今たとえば「OJT」だとか、あるいは「インターン制」ということで業界との交流をしなければいけないみたいな話が我々の学校の中でもあるんですが、そういう「OJT」や「インターン制」が教育カリキュラム全体の中に位置づく意味は、学校教育が〈知識〉や〈理論〉のレベルでしか物事を教えていなくて、もっと“実践”や“現場”を知らなければいけないというようなスタンスで語られることが多い。
しかしそれは、実は間違っているというのが私たちの認識です。
そうではなくて、先ほどの私の言葉の続きで言いますと、むしろ“現場”だとか、“実務”だとかというものがかなり知的になり、知性化されてきて、マニュアル化されて、現場が透明なものになって、むしろ現場自体の教育機能がかなり増しつつある。組織の中でも、今、自分が何をやっているのかとか、上の人間がどういうことを考えているのかとか、今この会社全体がどういう仕事をしているのかということが見えやすくなってきて、つまり会社組織自体が知的になりつつある。それはコンピュータによるネットワークだとか、グループウエアだとか、そういったことが企業組織の中にどんどん入り込んできているということと同じ動きなわけです。「社員研修」は何も不況で縮小しつつあるだけではなく、会社の組織システム自体がグループウエア(ネットワーク) ─ グループウエアのメール機能ではなくて、掲示板機能によって教育的な機能を持ち始めているということです。仕事をするということと教育する(啓発する)ということとが不可分な状態になりつつあるのです。
それはどういうことかというと、教育の分野にもどんどんコンピューターメディアは入り込んで、知的になる分、実践的になる。つまり〈知る〉ということが〈できる〉ということとイコールになるような状況が生まれつつあるということであって、むしろ教育において「OJT」や「インターン制」が普及しつつあるということは、教育が理論的なまま(実務に無知なまま)であったということではなくて、教育自体も現場と同じような実践性を持ち得るような、そういうチャンスが拡大しつつある状況なんだというふうに我々は思っています。
そういう意味で言いますと、教育現場というものとビジネスの現場、あるいは職場というものとがかなり近接し始めてきているということがあって、これが「生涯学習」といわれているものの基盤なのではないか、と私たちは考えています。
学校がそのように実践的であるとすれば、職場は、したがってその分逆に知的になっているというのが、「生涯」教育の中身であるわけです。つまり社会全体が教育的になっているということです。旧文部省は、単に「生涯学習」と言わずに「生涯学習社会」といったわけです。
職場自体がどんどん知的=透明になってきますと、会社全体のことが見えたり、だれがどこでどういった行動をしているのかということがどんどんどんどん見えてきますし、見えやすくなってきますから、自分のポジションと自分が全体の中で何をやるべきかということが見えてくるという点では、知識の総合性というものがかなり要求され始める。これはよく言われることですが、階層的なラインであったり、部門制的な分業というものの垣根がどんどん崩れてくる。そういったことが崩れる根拠というのは、従来であれば、会社に勤めて10年20年というふうに経験を積めば、ある種の専門的な知識や技術が身について、新入社員には負けないくらい知識や技術をもった「エキスパート」、あるいは「課長」や「部長」が生まれ、そういったある種の“熟練”的なポジションというのが存在したわけです。要するに従来の「専門性」とか「マネージャー」というのは、〈経験〉のあるなしを基本に形成されてきたわけです。ある場所に“長くいる”ということが“情報収集”の唯一の武器だったということです。
ところが〈経験〉を積まないとわからないようなこと、できないことというのが、コンピュータメディアに媒介されたグループウエアだとか、あるいはデータベースのパソコン解放(ネットワーク解放)によって解消しつつある。課長や部長の10年や20年の〈経験〉の重さというものが「情報の共有」の中で一気に軽くなってくる。〈経験〉は“共有”できませんが、“知識”や“情報”は共有できるわけです。もともと部門制や階層制は、“経験の重さ”によってできていた体制であって、それらは「情報の共有」 ― 私の言葉で言えば、〈知識〉の実践性 ― が全面化し始めると直ちに流動化する。その都度、知識を更新しなくてはならないような状況が生まれてくる。というより、もともと更新されないような知識(や情報)は知識ではないと言えます。〈経験〉という敷居、つまり部門的な差別や階層的な差別が、知識の本性である更新性を妨げてきたといえます。
コンピュータ(パソコン)というものはそういった意味では会社の階層、あるいは横並びの部門、ある種のスペシャリズムみたいなものの境界を取り払っていく非常に民主的な機械でありまして、それはただ単に専門家と門外漢、部長と新入社員の垣根だけではなく、子供と大人の境界、あるいは男性と女性、会社と家庭などの垣根も同時に取っ払っていく。要するにそれらの従来の境界、垣根はすべて〈経験〉的な差異であったわけです。
こういった社会の、経験主義を越えていく傾向が、生涯学習(「リカレント」・「リフレッシュ」学習)ということの基盤、歴史的な基盤になってきているんだというふうに私たちは考えたわけです。つまりコンピュータメディアに媒介された、新しい知識主義が社会の流動性を全面化し始めると、学習の「生涯」化は必然的なものになってくる。「学校」教育の“後”は、「“経験”を積みなさい」と言うだけではすまなくなってくるわけです。
私たちが考えたのは、こういった教育の「生涯」化を加速させるパソコンによるコンピュータ解放そのものをカリキュラムの中心に据えるということでした。
2)ユーザーコンピューティングの現在
さて、コンピュータのパソコン化現象の象徴的なものは〈ユーザーコンピューティング〉という領域です。たとえば、かつて〈社長さんが〈秘書〉に手書きの文章をワープロで打たせていたような意味での「コンピュータ化」がコンピュータスペシャリストたちの仕事でした。秘書が自分の仕事のためにコンピュータを使うのでないのと同じように、これらのスペシャリストも他人の仕事に奉仕するためのコンピュータスペシャリストであったわけです。
利用する者自身がコンピュータを使うということは、当たり前のように見えてそうではありませんでした。ワープロも書く者と操作する者とが別の者である限り、単なる“清書機”にすぎません。鉛筆が書くための“道具”であるようにしてワープロもまた鉛筆代わりの、きれいな字を書ける“道具”にすぎないわけです。
しかしワープロは、むろん鉛筆代わりの道具なのではありません。
ワープロの数々の機能、「COPY」や「移動(切り取り)」、「挿入」や「削除」、「単語登録」や「語句置換」、「語句検索」といった基本的な機能から豊富な表現能力や書式設定の多彩さは、“人間”がものを考える過程そのものに対応しています。
出来上がった文章(“紙”に“出力”されたことば)は、いくつかの〈章〉から、章の下位の〈節〉から順序よく論理的に構成されているかに見えますが、それは“頭”の中で考えたこと(浮かんだこと)をCOPY(反復)し、移動し、挿入し、削除したことの結果にすぎません。われわれ人間は、文章を〈はじめ〉から〈終わり〉へ向かって書くように(“紙”に展開するように)考えるのではなくて、(“頭”の中で)COPY(反復)し、移動し、挿入し、削除しながら書くわけです。紙の媒体に移された文章(テキスト)は、むしろその結果にすぎない。「起承転結」の論理性の方が、「紙」と「鉛筆」いう媒体に制約された非人間的な性格をむしろ有していると言えます。
〈書く〉という行為がワープロ登場以前に《紙》の媒体に書くことでしかなかったときには、〈ノート〉や〈文献カード〉が思考過程の方を受け持ち、〈原稿用紙〉が(思考の)論理的・構築的な表現を受け持っていました。KJ法はこの両者を紙の媒体で(ありながら)統一的に行おうとしたところに意義がありましたが、ワープロでは特にKJ法をことさらに意識しなくても、書くことはKJ法で書くことだということです。
従来、なぜ人々が〈文章〉を書きたがらなかったのかというと、頭の中に考えが浮かぶことの秩序(思考の時−空)と書くことの秩序(書くことの時−空)が異なり、書く前に考えを整理し、書く秩序に適応させることを頭の中で前もってまとめなければならなかったからです。頭の中に浮かぶことは秩序というよりはむしろ無秩序であり、浮かんだり消えたり、因果関係があったりなかったり、後先が逆であったり、長短がいびつだったりしますが、原稿用紙に書くときは整然と論理的に整理された形を(前もって)強要され、思いつきは許されず、取り消しや訂正にも限度があるというように思考と書記行為との間には落差が生じます。この落差の緊張感に耐えることは修練がいるし、場合によっては〈文才〉というものに神秘的な仕方で依存することもあった訳です。
しかし、コンピュータ(ワープロ)の諸機能は、前もって考えることとそれを書くこととの根本的な断絶をほどいたわけです。思ったこと、浮かんだことをとにかくそのまま書け(打て)ばいい。論理性や展開は、あとでゆっくりと ― 「コピー」したり、「移動」したり、「削除」したり、「挿入」したりしながら ― 考えればいい。ここでは考えることと書くこととが最初から同じメディアの中で生じている。“脳”の中に浮かぶことがメディアの中で展開し、「コピー」「移動」「削除」「挿入」をすることはそのまま〈考えること〉=〈書くこと〉につながっています。
したがって、ワープロは、書く人(=考える人)自身が使わなければ意味がない。ネットワーク(インターネット・イントラネット)がはやり始めたときに、エンドユーザーの「エンド」とは社長(会社のトップ)のことだ、と喝破した人がいましたが、それは、けっきょくのところ、ワープロが清書機ではない、ということが社長にもわかり始めたということを意味しています。パソコンは自分が利用してこそパソコンだということです。
現在、会社のパソコン利用でもっとも深刻なのは、〈システム室〉と〈ユーザー〉との対立です。社内のネットワークやデータベースを管理している〈システム室〉の最大の願望は、ネットワークを使うな、データベースを使うな、ということです。〈ユーザー〉は、勝手な使い方をしてネットワークを壊したり、無理難題を言って(システム室の)仕事を増やすばかりだからです。〈システム室〉から見れば、〈ユーザー〉は単なるパソコン(あるいはコンピュータ)の“素人”にすぎません。ほとんどの会社では、専門家の〈システム室〉、素人の〈ユーザー〉という対立の中でパソコンが使われています。かつては、こういった対立を中和させるために「シスアド」などという“職種”がもてはやされてきました。しかしいまでは、「シスアド」は、概念の中では存在しても、実在したことは一度もありません。今後もあり得ないでしょう。「シスアド」とは、コンピュータのことも仕事のことも中途半端にしか知らない人のことを言います。
仕事のためにコンピュータがあるのであって、コンピュータのために仕事があるのではありません。したがって、コンピュータ活用の鍵は、どこまでも仕事のためにパソコンを使っている〈ユーザー〉が握っているわけです。今日の〈ユーザー〉は、〈システム室〉をあてにしていません。彼らをあてにしていると仕事がいつまでもできないからです。ヒアリングや仕様書作成から仕事を始める〈システム室〉をあてにしていては、本来の仕事がいつまでたってもできないからです。また流れの速い、総合性の高い今日の仕事のあり方の中では、仮に思った通りに〈システム室〉が仕事をしてくれたとしても、すぐに役立たずになってしまいます。変化に対応するためには、〈ユーザー〉が自立的に“システム”を形成するしかないわけです。はやりの〈分散〉型システムとは、結局のところ、〈システム室〉を介在させないで仕事をする方法のことです。従来の〈システム室〉はここで解体したわけです。パソコン活用に〈専門家〉はいないということです。つまり、使う人(=〈ユーザー〉)に学ばせることが、狭い意味での専門家育成よりははるかに仕事のIT化を加速させるということです。仕事を知っている〈ユーザー〉こそが妥協のないIT化を進めることができるのです。
3)生涯学習カリキュラムのあり方について
以上のように、(1)〈知識〉のあり方が変化していること (2)〈ユーザー〉コンピューティングがIT革命の鍵を握るということ、この2点が、私たちが社会人教育に取り組む前提になりました。
カリキュラム作りで、第一に考えたことは、「資格」「免許」カリキュラムをメインカリキュラムとして持たないことでした。「資格」だとか「免許」というのは、私たちが言う意味での知的な軽さといいますか、あるいはスピードに対応できない。今の社会のあり方が先に言ったような意味で知的に軽くなって、日ごとに仕事の性質が変わりつつある状況の中で、資格の内容を教育プログラムとして持つということは、そういった動向に反する動きだということをまず思ったこと。資格問題を作成している“委員”の人たちも、1年か2年で変わるだろう問題を真剣に作ったりはしない。日本語すらおぼつかない問題もたくさんあるわけです。もう一つは、資格講座に依存しますと、これは専門学校の最大の問題だと思いますが、従来、専門学校は資格を取るところだというふうに、いい意味でか悪い意味でかわかりませんが、社会的にそういう仕方で認知されている部分が多かったわけですが、これは教務機能が必ず衰退していく。資格のカリキュラムというのは、(他人が作った)教科書や教材がすでにできあがっていて、何を学べば、あるいはどこまで学べば受かるかということがわかっているわけですから、社会人や、あるいは18歳で入ってくる学生に対して、一体どんな教育をすべきなのかという根本問題を自立的に考える契機を失ってしまいます。いわば、学校の〈頭脳〉とも言える部分を、資格・免許講座体制は衰退させて行くわけです。
そうやって衰退していきますと、学校間の格差、特徴も無くなってくる。つまり教育内容は受かるか受からないかの、極端に言えば、予備校風ではないにしても、“合格率”だけが問題になってきますから、特徴のある学校運営だとか、特徴のある学校カリキュラムというものがでてくる要素が非常に少なくなってきます。そういったことになってきますと、一体何を自分たちの学校の目玉として売り出していくかという部分がなくなってきて、校舎や設備がきれいだとか、駅から近いだとか、名物講師がいるといったようなことだけにしか残らないような状況になってくる。
私どもの学校で、一番大きな世帯は自動車整備系と建築系ですから、私ども自体が今考えている部分では、やはりカリキュラムをつくる能力について抱えている課題がかなりほかの学校と比べて多い。それは、整備士の免許だとか、あるいは建築2級の免許だとかといったようなこととかかわって、なかなか個性的なプログラムを打ち出せない状況が生じていました。たとえば、学内では〈学務〉と〈教務〉との区別さえつかない人がまだたくさんいる。
そういった状況というのは、多分多かれ少なかれ専門学校が抱えている問題だと思います。そのためにも、私たちが考えたのは、まず「資格」カリキュラムを外すということでした。「資格・免許」需要は、安定的なマーケットではある(かもしれない)けれども、そういったものに依存することなく、今社会人が本当に必要としているカリキュラムを自力でつくり上げるような体制をとっていかなければいけないんじゃないかというふうに思ったわけです。逆に言えば、資格教育機関は、社会的な変化や仕事のあり方の実際に目をつむることができるし、実際盲目なままになっているということです。試験合格(のためのスキル開発)が至上目的であるのですから、そうなるのは当然のことだったわけです。
2点目は、〈コース制〉のカリキュラムを持たないということ。これは通常のパソコンスクール等の比較で考えていただければいいんですが、社会人教育になりますと、例えば「ワード初級コース」だとか、「エクセル中級コース」だとか、そういったものがいっぱいあるんですが、そういった「コース制」というのも知的な時代のスピードに対応できない。一つは社会人が、5日間とか6日間とか、1週間でも何でもいいんですが、そういった日程を学校側が作った日程どおり来てくれる保証はどこにもない。毎日忙しいですし、いつ何が起こるかわからない。コース制であれば、例えば1日目、2日目、3日目とまあ3日目ぐらいまではちゃんと出たんだけれども、4日目に突然の会議が入って来れなくて、5回目、6回目を参加するのがもういやになってしまう(というかわからなくなる)というようなことは幾らでもあるわけで、リカレントプログラムでコース制を形成しながら社会人の人たちに勉強していただくというのはかなりきついということです。
それと、さらにコース制であれば、例えば「ワード初級」を10人で募集した場合、その10人の人たちが「初級」とはいいながら必ずしも同じ理解力を持っているとは限らない。また、同じ目的を持って「ワード」を使おうと思っているとも限らない。そういったばらつき ― ある意味では、偏差値格差以上のばらつき ― をコース制であればずっと抱えながら、1週間、あるいは2週間教えなくてはいけない。これは受講者にも大変きついことでありますし、教えている教員の負担もかなりのものになる。学生を相手にするのと社会人を相手にするのとでは、ただ単に偏差値が違うというだけではなくて、独特のばらつきを意識しなくてはいけない。わからないまま1週間の〈コース〉を過ごす、やさしすぎるまま1週間の〈コース〉を過ごす、これは忙しい社会人にとって耐えられない学習の仕方です。そういう点でコース制というのは、「生涯」学習にとってふさわしくないカリキュラムのあり方なわけです。
さらに、社会人が何か今現場で学びたいものがあるときに、1週間も学んでいるぐらいであれば、どこか隣の人に聞いた方がいいとか、電話をかけて聞いた方がいいよとか、などと幾らでもコース制の問題があるわけで、ワープロを学ぶのに1週間も時間をかけていれば、もうやらなければいけないことはとっくに過ぎているということが出てきます。
また「ワード」を学ぶといっても、何もワードのすべてを学ぶわけではない。すべてを学ぶというのなら何日あっても足らない。けれども実際に知りたいことは、「ワード」の機能全体からいえば、ほんの小さな部分です。コース制では難しすぎる(多すぎる)ことか易しすぎる(少なすぎる)ことを学ぶ、言い換えれば、自分に必要のないことまでを学ぶという問題も含まれています。学習のスピードの速さだけではなく、何を学ばなければいけないかという学習課題も日毎更新されているということです。その点でもコース制は非常に不適切なカリキュラムの形態であろうというふうに思っています。
あと3点目ですが、我々のシステムは、基本的にはワードで幾らお金をいただくだとか、エクセルで幾らお金をいただくだとか、あるいはJAVAのプログラミングで幾らお金をいただくというふうに、内容主題別にお金をいただくシステムを採っていません。定額制(月謝制)のシステムが基本システムになっていまして、一月5.8万円(受講料)、一年でも34.8万円をお支払いいただければ、毎日来ていただいて結構だと、そういうシステムになっていますので、ワードを受けようが、JAVAを受けようが、ホームページ作成を受けようが、一月6万円弱で済む。あるいは一年毎日来ても35万円で済むだとにしています。一日15講座から20講座、毎日開講しておりますし、一ヶ月で500講座を開講していますので、多種多様な講座を好きなように、広くも深くも受講することができる。オフィス系(Word、Excel、Access、PowerPoint)はもちろんのこと、CG・DTP・3D・WEBデザイン系、ネットワーク系、ホームページ作成系、プログラミング言語系など、それぞれの初級から上級まで現在のパソコンカリキュラムのほとんどを網羅しています。
すべてのコンピュータがネットワーク=インターネットでつながれつつあることを考えると「ワード」だけやれてもしようがないわけですね。「エクセル」をやれただけでもしようがない。「ホームページ」をやるのであれば、アクセスのデータベース機能を持ったようなホームページをつくっていくことも必要になる。知的な社会の知的な課題というのは、総合性ということがすごく大きい。〈経験〉は〈総合性〉という課題に敵対するところがありますが、〈情報〉や〈知識〉は絶えず全体的な認識を志向します。全体を認識しながら自分の仕事をするということは大変重要な課題で、一つのアプリケーション、一つの機能に縛られたコース制はその意味でも問題が多い。さらにそのうえ、ワープロ講座で3万円、CG・3Dで10万円、JAVAで10万円、ホームページで10万円などと、〈コース〉単位でお金を使っていたらいくらお金があっても足りない。内容的な境界と経済的な境界がコース制の問題を形成しており、それが真に必要とされるトータルでフレキシブルな学習、仕事に対応するIT学習を阻んでいたのです。
以上3点が我々がカリキュラムをつくるところで留意したことであります。
これら3点の問題は、結局のところ、社会人学習(生涯学習)と学生学習(学校教育)との差異につながっています。社会人と学生との最大の相違は、学習動機の軽重です。社会的な経験を大なり小なり経験している社会人にとって、学んだ知識や技術が実際の場面でどんな意味をもつのかということは、(個人差があるにしても)イメージがつきやすい。したがって、講座選択の動機が学生に比べれば、はるかにリアルです。たとえば、Wordを学ぶにしても、社会人はWordの「罫線」が学びたいわけです。Excelを学ぶにしても「財務」関数が学びたいわけです。個別の課題から学習動機を掴むのが社会人です。しかし学生には教育内容の外を指向する学習動機が存在していません。したがって、基礎から順に学ぶことが学生教育のカリキュラム(学年や学部に拘束された基礎−応用カリキュラム)であったわけです。
〈コース〉というのは、その意味で学生教育には馴染むかもしれませんが、社会人には不適応だったわけです。私たちのカリキュラムでは、例えばWordの文字入力だけを勉強する人は、文字入力をもっと効率的にやりたいという人は、「文字入力」という講座があったり、「罫線/表作成」だけの講座があったり、「差込印刷」だけをする講座というものを持っています。社会人が今自分はどういったスキルを身につけたらいいかというときに、その講座にだけ出れば、目的と受講内容とが一致する仕方で勉強することができる。それはExcel、Access、ホームページやネットワークの講座を含めて、すべての講座でそういった一つ一つの講座を自立的に分節化していますので、学習のスピードや、あるいは学習課題の多様化に対応できるようなカリキュラム構成になっています。今日はWord、明日はAccess、日曜日はネットワークというように自分の仕事に合わせて講座をアレンジすることができる〈ユーザー〉カリキュラムになっているわけです。
ところが、こういった社会人の学習動機の明確さは、本来〈学ぶ〉ということが持っている知見の拡大という傾向に反する場合があります。学びたいことを学ぶということは、悪くいえば、狭い実益主義です。現状の仕事の延長上に自らの仕事の仕方を描いただけのことなのです。つまり自らの〈経験〉を強化するためだけの学習にとどまる危険性があるわけです。社会人学習のカリキュラムにとって重要なことは、経験からの学習動機を、もっと広い、別の知見へと拡大する契機を持たせることにあります。
これを妨げていたのが、コース単位の料金制度だったわけです。〈コース〉、つまり〈分野〉によって料金を設定しないことによって、どんな横飛びもできるカリキュラムにしておくことが、スピードとともに統合化が要求されているIT学習のもう一方の課題だったわけです。私どものカリキュラムでは、たとえばWordの基礎を受けただけの人が、とんでもないことなんですが、最近JAVAというのをよく耳にするから、JAVA講座を受けてやれといって受ける方もたくさんおられます。講師の人間は大変苦労していますが、しかし私どもとしてはそれは考えていたことで、私どもの学校に来ないと一生JAVAの勉強なんてしない、そういった人たちが十分JAVAの学習を楽しんで、そこでまたある種の関心の花が咲いて、JAVAのどんどん上級まで突き進んでいくというようなことが結構起こっています。そういった新しい知的な交換の形態、経験を軽くする形態、言ってみれば、ホームページのハイパーリンクのように自分の関心の赴くままに自分の知識を自分の理解過程に従って拡大していく形態が、〈経験〉的な社会人に必要な学習形態だろうと思っています。私どものカリキュラムがそういった知的なスキルの自由な拡大の場所になっているということです。
もうひとつ、最後に言っておかなければならないことは、パソコン学習における学習方法の根本的な変化ということです。たとえば、Excelの中上級者になってきますと、かならず、統計の勉強がしたくなります。回帰分析がどうだとかクロス集計がどうだとか、大学時代に文学部に在籍していて太宰治論で卒論を書いた人が、就職後4〜5年後でそんなことを言い始めるわけです。統計の基礎からExcelを学び始めるのではなくて、Excelの実務使用の中から統計学の基礎を学びたくなるということ、こういったことはパソコン〈ユーザー〉の分野で不断に起こっています(システム室のコンピュータスペシャリストには存在しない学習動機なわけです)。CG・DTPのオペレータが〈デザイン〉の勉強を本格的にしたくなる。3Dのデザイナーが、建築の勉強をし始める。つまり、従来の基礎教育から発する体系的な学習は、IT分野ではほとんどあり得ない。教育学ではそれを〈ミドルスタート〉と呼んでいます。学習の内容が多様化しているだけではなく、学習の順序が多様化しているわけです。つまり専門家育成の狭いコース主義では、ITの可塑性の高い技術学習に見合わないということです。文書を書くのが苦手な人(Word)、統計学の本を読むと1〜2分で寝てしまう人(Excel)、定常業務に耐えられない人(Access)、絵心のない人(Illustrator、Photoshop)、音符や楽器演奏が苦手な人(DTM)、空間認識に欠陥のある人(3D)、広報やマーケティング意識に希薄な人(ホームページ)など、そういった経験的限界をITは取り払って、〈ミドル〉(中年?)からでも、音楽やデザインに、あるいは全く別の職種に取り組める可能性を開示しつつあるわけです。これは、単に文化的な変化ではなくて、社会的な、あるいは〈人材〉開発に関わる変化です。
今、文科系の社会人がパソコン学習に嬉々として参加しています。たぶんこの人たちは、〈技術〉ということから疎外され続けた人たちです。勉強の内容も、特に太宰治を読んで、何がどうなったか、ということに関してある種の曖昧さが学習の特質であるような学習を重ねてきた人たちです。この人たちは社会人になると“キャノンの情報革命”とか“花王の情報革命”、アサヒビールの逆襲“といった経営戦略論やマーケティングのビジネス本を(立ち読みで)読んできた人たちです。太宰治論が曖昧であったように、これらの本を読んでも何が自分を変化させたのかは曖昧なままだったわけです。結果論でしかものを言わないジャーナリストや経営学者にだまされ続けた彼らは、〈技術〉というものを学習したことが一度もなかった。ところが、パソコンでExcelの関数を知っているのと知らないのとでははっきり差が出る(客観的に差がでるかどうかは別にして、実感的に差が出る)。Excelを1時間学ぶのと2時間学ぶのとでは、はっきり倍の差が出る。太宰の本や経営戦略論を10ページ読むのと20ページ読むのとでは差は出ませんが、ExcelやAccessを学ぶと仕事の仕方に変化が出たり、次の課題がはっきり見えてくる。こういった実感が〈技術〉の学習にはついて回る。これは、多くの文科系の社会人には、新しい発見だったわけです。〈ミドルスタート〉する「遅れてきた青年」たちの学習意欲が、今日の〈ユーザー〉コンピューティングの隆盛を背後で支えているわけです。そういう意味では最初に申しました新知識主義の時代は新技術主義の時代でもあるといえます。この人たちに定位することが、IT人材育成の鍵を握っていると思います。
現在、月間でのべ12,000名の社会人の方々が私どものカリキュラムを利用されています。とりあえず我々の3点の前提、(1)資格カリキュラムを持たない (2)コース制のカリキュラムを持たない (3)定額制でどんな授業でも受けられる状態にしておくという体制がとりあえずは認められつつあるのかなというふうに思っております。(了)
※この原稿は、芦田が旧労働省「IT化に対応した職業能力開発研究会」の委員として2000年9月25日(新橋・三和総研)に発表したものに若干の修正を加えたものです。
2002/4/9(火)21:10 - 芦田宏直 - 286 hit(s)
(なぜか、専門学校の校長先生になってしまいました。以下は、約1000人の入学生を前にしての中野サンプラザ大ホールでの式辞です。厳密には原稿なしでしゃべったものを約7時間後に思い起こしつつ、補いつつ文字にしたものです。)。
ご入学おめでとうございます。
専門学校を選択された皆さんは、卒業後の自分についてのイメージを具体的に持たれていると思いますが、たぶん、その想像が追いつかないくらいに社会は大きく変化しています。
一番、大きな変化は、ここ20年、30年後には、30歳、40歳のサラリーマンの年収が500万円台を超えない時代に突入するだろうということ。もはや共稼ぎなしには日本の家計は担えないだろうということです。
この年代の人たちは「中間管理職」と言われてきた人なのですが、インターネット時代において、この人たちの使命の半分以上がなくなりました。ちょうど皆さんのお父さんの世代の人たちこそが、悪くいえばインターネット時代の犠牲者になっているわけです。
もともと、この人たちは、組織の下部の状況を上部の人に伝え、上部の意向を下部の人たちに伝える役目をしていました。そういう仕方でトップの決断がなされやすい環境を作ってきたわけです。
しかし、今日の会社や会社のトップは、内外に張り巡らされているインターネット・ネットワークによって、直に現場で起こっていることを把握できるようになっています。
「中間管理職」と言われる多くの人たちの仕事は、情報収集と情報提供だったわけです。
インターネット時代は、この「中間管理職」という職域を完全に駆逐しました。
コンビニエンスストアを想像してください。ここでは、何が売れているか、売れなかったのかがバーコードによって、ネットワークを介して社長さんにリアルタイムでわかるようになっています。中間に立つ、伝える人は不要なのです。コンビニは早くから「中間管理職」なしの体制を敷いてきました。社長(社長周辺)とアルバイトがいれば、それで、24時間、全国展開のコンビニを運営できるのです。
それがあらゆる業態にまで拡大しつつあるのが、今日のインターネット・ネットワーク時代です。
コンビニを含めて若い人たちがフリータ化していますが、この現象は、若い人たちに限らず、皆さんのお父さんの世代も含めて、仕事の現場全体がフリータ化していくことを意味しています。お父さんと娘がコンビニで一緒に働くというのもありえないことではないということです。場合によっては、そこにお母さんも登場するわけです。
大失業時代は、今はやりの言葉で言えば、「構造的」なものであって、景気循環の一局面ではないのです。
年代を超えた数多くのフリータ(あるいはNPO)と少数の社長周辺だけが存在する。それが、失業者問題の本質です。つまり失業問題は永遠に解決しないということです。
もう一つは、グローバル化ということです。
インターネット時代は、グローバルな時代だといわれています。
グローバル化というのは、20年前にはやった「国際化」とはことなります。国際化は、まだ国という単位が前提になっていました。国と国との“際”がまだ存在したわけです。
グローバルというのは、国際化と違って、世界全体がマーケットとしても、資源供給、人材供給としても単一化されたということです。
このことの一番の打撃を受けているのが、学歴社会です。
学歴は、日本という固有の基盤の上でこそ可能でした。皆さんは、アメリカ人をみるとき、あるいはアジアの人を見るときに、偏差値や学歴を気にすることがありますか。それよりは、その人が内容として何ができるのかということに注意しようとするでしょう。国籍や民族が違えば、学歴という尺度が、きわめて希薄な尺度であることがわかります。
世界で10番以内くらいの、誰でもが知っている大学ならいざしらず、それ以降の大学は、出ていても、ほとんど意味がありません。「知っている」といっても、お隣の韓国では、「東大」より「早稲田」の方が知られていたりします。何が基準だか、何が評価だかわからないわけです。
もちろん、日本の大学は、東大であっても、世界大では番外であって、アジアのベスト100の大学でさえも日本の大学は多くても20校程度しか入っていません。最近報告された、スイスの調査機関によれば、日本の大学は主要49カ国中、最下位でした。
つまりほとんどの日本の大学生は、その学歴だけでは、このグローバルな人材要求の社会において、役立たずになるということです。
マクドナルドは、世界中の肉の中でそのつど一番安い物を絶えず輸入しようとしています。だから100円でもハンバーグを売ることができます。パソコンの価格競争も世界大の市場からの部品供給でもって成立しています。
これらの世界では、〈ブランド〉(=固定された仕入れ先)は存在していません。絶えず、更新され続ける性能と価格だけが選択の基準なのです。
同じように、人材も世界中の中で一番安い、それでいて一番有能な人間を集めようとしはじめます。
大学を出ているから給料が高い、という時代は終わったのです。皆さんのライバルは、塾に通う友達ではなくて、世界なのです。
先ほどお話しした中間管理職がいなくなったというのも、世界中から人材を集めることができるため、長い時間を使って、社員を教育する必要がなくなってきたということでもあります。
係長、課長、部長というのは、その意味では、社員教育の長い道程だったのです。それは、こういった中間管理職層を形成してきた大学教育が無力であった、全く貢献できなかったことのあらわれでもあります。
インターネットは、国籍を超えただけではなく、会社組織の壁もまた超えたわけです。
さらに、学歴社会が崩壊する局面は、もう一つあります。それは前半でお話しした中間管理職が存在しなくなるということと関係しています。
中間管理職が存在しなくなるということは、終身雇用が崩壊するということを意味しています。給料が右肩上がりで上がっていくということ(=出世)があるからこそ、終身雇用が成立していたわけです。
みんなが一生この会社にいようと思っていたのは、給料があがる、つまり中間管理職層(出世の階段)が厚く、高く存在していたからです。
しかし40歳を過ぎても年収が500万を超えないとしたら、転職動機は高まります。いくら働いても給料が上がらないとしたら、やめるしかありません。
二次就職、三次就職が横行するということです。
ところが、この二次就職、三次就職には、学歴が通用しません。
学歴が有効であったのは(有効であるかに見えたのは)、一次就職(新卒就職)までのことです。
二次就職、三次就職では、その人の、社会人、企業人としての業績だけが問われます。「東大卒」であっても、業績が乏しければ、かえって恥ずかしいことになります。
逆に言うと学歴で成功したかに見えるのは、終身雇用が安定的に機能していた時代のことです。教育歴だけで就職が最終決定された時代のことです。そこが、中間管理職層の解体によって、なくなってしまったということ。
この事態は、しかし、すでに女性には自明なものでした。女性は妊娠・出産で終身雇用が寸断されて、二次就職を余儀なくされていました。そして二次就職では、「東大卒です」といっても何の役にも立たなかったわけです。「東大卒」であっても、二次就職においては、時給800円のスーパーのレジに立つしかなかったわけです。
したがって、二次就職を余儀なくされる女性は、教養主義的な短大を捨て、技術の身に付く専門学校を選択し始めたのです。少なくとも短大の英文学部はここ数年ですべて解体するでしょう。新卒では「東大」に負けても、出産、育児後は、高度資格を持っていた方が有利だということを実感しているからです。
しかしこれからは、女性に限らずこういった二次就職を前にしての学歴のむなしさがもっとどんどん前面化するだろうということ。
さてそうすると、皆さんは今、何に備えなくてはならないのかということです。
そこそこの能力がある、そこそこの仕事ができる、という人材では、期待される人材にはなれないということです。
そこそこの優秀な人がたくさんいる会社は、もはや必要ではなく、優秀な人が一人いれば、“大企業”になりうる、そういった組織や仕事のイメージが、あなたがたが、ここ10年、20年で体験するだろう企業活動の実際なのです。
極端に言うと、アルバイト(フリータ)とトップ(社長)しかいない会社組織が数多く生まれるだろうということです。
そうすると、専門学校でわざわざ学ぶ意味はどこにあるのかが、みなさんに突きつけられている課題になります。
結局、それは高度技術、高度知識の習得ということになります。
「高度」ということはどういうことでしょうか。
それは、〈自立〉ということです。
ただ単に車の修理ができるだけではなくて(たとえば「自動車整備科」の学生にとっては)、お客さんを待たせないで車を修理するには、仕事仲間とのどんな連携がそれを可能にするのか、ということまで考えることができることです。そういったことが考えられるようになれば、みなさんはもう〈トップ〉なのです。
トップというのは、何も大会社の社長だけを意味しません。小さな会社であっても大きな会社であっても、あるいは一人であっても、トップとは絶えず〈全体〉を考えることのできる人、時間的に言えば、中期、長期の視点から自分の現在の仕事の課題を考えることができる人のことをいいます。
今日一日を一ヶ月という間隔をおいて考えられる、一年という間隔において考えられる、10年、20年という間隔で考えられる、それが〈トップ〉の思考です。
今日の、この入学式、この専門学校の2年間を30年後のあなたを想定しながら思い浮かべることができますか。それがトップの、入学式についての思考というものです。そこが、アルバイトとトップとの違いです。
つまり、これからの職業人の課題は、アルバイトで終わるか、トップになるのか、この二つの選択しかありません。
しかし、答えはすでに自明です。
皆さんが専門学校を選んだ、そして専門学校の中でもわが学園をお選びになったことの意味は、まさに自立した、トップになるための勉学と研鑽とを自らに課されたということだと思います。
他人の指図がないと動けない人間、他人の評価なしに自らを評価できない人間、そういった人間はもはや時代の要求する人材ではないし、ましてや時代をリードする人材でもありません。
国家だとか組織だとかブランドを背負わなくても仕事ができる人材こそが、これからの日本、これからの会社において、つまり世界において必要とされている人材です。
20年後、30年後においてもなお、社会のリーダーとして新鮮な提案をし続ける人材を作ることこそが、私たちが、皆さんを受け入れる意味と使命だと思っています。
皆さんへのそういった期待とわが学園の使命の幸福な出会いをここに祝して、式辞に代えたいと思います。
平成14年4月9日(於:中野サンプラザ)
東京工科専門学校 校長 芦田宏直
2002/4/11(木)23:17 - 芦田宏直 - 208 hit(s)
ついに高2のSO211iです。私が買ってきました。
しかし、ご心配は無用。私と家内と自宅と親戚(父方,母方)、あとは東京在住の叔母の6箇所にしか電話をかけることができません。完全身内版携帯電話。
また、その六ヶ所からの電話しか受けることができません。受信も発信も、“身内制限”がかかっています。もちろん、メールも使えないようになっています。
超不自由な携帯電話。私がドコモ中野坂上店の沼尻さん(私担当の営業)に頼んで、特殊な仕掛けで作りあげました。こうすれば、携帯電話は子供にとって“安全”です。
「こんな電話、意味ないジャン」と息子はニヒリズムに陥っていましたが、しかし、それにもめげず「でも電卓にもなるし、スケジュール帳やメモ帳にもなるし、漢字辞書も入っている。なかなかいいよ」と、わけのわからない推薦の辞。
たとえば、土日、ちょうど息子が学校から(クラブ活動から)帰ってくる頃に、家内と二人で千歳烏山駅前の「京王書房」あたりでぶらぶらしていたりして、今日は、焼き肉でも食べようか、となっても息子に連絡のしようがない。
電話があれば、今どこにいるかを確認して、駅前で待ち合わせることができるが、なければなかなか難しい。この間なんか、その書店をでたところで、息子が自転車で通過するところ、ばったり会ってしまった。そのときは、すでに私と家内は風々ラーメン(ふうふうラーメン)を食べ終えてしまっていた。
こんな行き違いが何度かあって、これはいかん、ということになり、芦田家版携帯電話の登場ということになった。安全な子供用携帯電話、欲しい方(作り方を知りたい方)は、いつでも私に言ってください。
2002/4/13(土)23:36 - 芦田宏直 - 173 hit(s)
久しぶりにCDを買った。上妻宏光という人の“AGATSUMA”というアルバムだ。
木曜日の10chニュースステーションで、突然、長野駒ヶ根の光前寺の壮大なしだれ桜をバックに三味線の音が、なぜかダイナミックにすべてのものを圧倒するように聞こえてきた。「芦田の毎日」を書いている途中、思わず手を止めてしまった。幽玄な光前寺のしだれ桜と雨をバックに、またカメラ(カメラワーク)がよかった。どんどん引き込まれていく。しだれ桜の歴史に拮抗するような三味線の音だ。吉田兄弟、どこ吹く風、といったふうの音。
「だれ、この人?」と家内に聞いてもわからない。すぐにテレビ朝日に電話させたが、「ただいま大変込んでおります」、と、つながらない。「やっぱり、僕以外にも、感じる人が … 」。ずーとかけ続けたが、かからない。次の日やっと、上妻宏光の“AGATSUMA”というアルバムにある“游(ゆう)”という曲だとわかった。今日、買ってきて聞いたが、三曲目の“游(ゆう)”という曲もいいが、7曲目の“夕立”もいい。なかなかのアルバムだ。
しかし、三味線はやはり限界がある。上妻の音を聞いていると、三味線が、ギターになりたい、ギターになりたい、と言い続けているような気がする。この人にクラプトンの“いとしのレイラ”をひかせたら、どうなるのだろう。そんな気がする。そう思わせてしまうのが、この人の三味線の限界かもしれない。高橋竹山の三味線は、三味線として完結していたが、上妻の三味線は、ないものねだりの三味線のような気がする。
でもすごいですよ。この人のばちさばきのテクニックは。ブーニンのピアノも技術だけのピアノで退屈と言えば退屈でしたが、でも技術だけでも、こんなところまでいくんだ、というほどの三味線の音。是非、日曜日に買って聞いてください。後悔は絶対しません。