2001/12/31(月)03:30 - 芦田宏直 - 63 hit(s)
年の瀬も押し詰まり切りもいいので、第二期総集編をUPします。この期のヒット数第一位は、なぜか「失業者よ出でよ」(408番)でヒット数は566。時節柄のヒットでしょうか。二位は「緊急入院しました」(379番)でヒット数551。私のことを心配してくださる方がおられるのを知って一安心。三位は「新・子供に携帯電話を持たせるな」でヒット数465番です。これは、私の最近のライフワーク。456番の「散髪屋にて」も338のヒット数でたくさんの人に「芦田さんて、本当は優しい人なんだ」と思っていただいて好評でした(本当に優しい人ですよ)。「芦田の毎日」全体で、トップのアクセス数を誇るのは、331番の「『一流』とは何か」 アクセス数はなんと932。これは私自身も気を入れて書いたもので、うれしい現象です。2001年4月以降、仕事が忙しくなって、第一期のときよりも記事と文字数が減っていますが、今後も懲りずに書き続けていきますので、よろしくお願いします(なおヒット数は12月31日現在のものです)。
2001/6/12(火)00:05 - 芦田宏直 - 252 hit(s)
専門性と教育は対立する。言い換えれば、専門家と教育者は対立する。教えるということは、すでに存在しているものを教えることである。しかし、専門家はたえず、未解答の、未知の、未聞の課題を探求する。専門家にとって、他人に教えるということは、既知のものをわざわざ教えるという意味で後退現象なのである。他人に教えることどころか、自分が知りたいこと、聞きたいこと、尋ねたいことばかりであるのが、専門家の現在だ。他人に教えるくらいなら、自らの諸課題を解くことを選ぶのが専門家というものである。すでに自分が知っていることをわざわざ他人に教える暇など専門家にはない。自らの課題を自立的に形成し、自立的に解決していく時間(や空間)を確保することこそが専門家の関心である。
専門家と教育とがかろうじて近接するのは、大学や大学院でのことだが、ここでは専門家は「研究者」と言われる。ここでの授業は、「教育」と言うよりは“研究発表”である。大学や大学院での教育(=講座)は、基本的には研究者である“教授”が、日常的に、あるいは日々新たに研究している主題の展開(未公開の、あるいは作成中の論文)を披露する場所である(もっとも、そうではない、何年も同じ講義ノートを使う“教授”もいるが)。学生が、それをわかるかどうかは一義的には問題ではない。大学生として選抜された学生が「学生である」ことの意味は、その教授の“発表”に付き従えるかどうかをたえず試されているだけのことである。それが大学における教授と学生との関係のすべてである。大学という機関では、教授は学生の能力を顧慮しない。学生が教授を遙か後方から“追いかける”のである。だから、大学の講座には教材開発という動機が最初から生じない。〈教材〉というものは、学生という他者を意識する時にはじめて成立する概念であって、自立的に諸課題を見出し、担い、自立的にそれに答えようとする者にとって、〈教材〉意識など生じるはずがない。自立的な研究者、専門家 ― というより自立的でないような研究者、専門家など(概念としては)存在しない ― にとって〈文献〉を意識することはあっても、〈教材〉を意識することなどありえない ―〈文献〉とは自分自身のための教材(自立的な教材)のことを言う。彼は〈教材〉を意識するとしても「しぶしぶ」意識するだけのことである。従って、大学は「教育機関」ではない。旧文部省は、短大を「教育機関」とはするが、大学はそう呼ばす「研究機関」としたのである。
少子化が叫ばれ、高等教育の大衆化が叫ばれ、大学進学率も40%を超えるようになると、もちろん、教授を追いかける(前方しか見ない教授の背を見ながら)学生などほとんどいない。背を向ければ、教室に誰もいなくなるほどに、「大衆化」は進んでいる。しかしそれでもそれは単に学生が変わっただけで、教授のマインドに根本的な変化はない。大学教授の生来の願望は、授業などないほどいい、というものである。これは大学教授が怠け者で休みたいからそうなのではなくて、教えるくらいなら「研究Forschung」を続けていたいということから来ている。その意味では、“教授”は、土日を含めて「勤務時間」などもとからなく働き詰めである。研究の合間に(定められた時間としての)授業がある、というのが教授たちの実感だろう。大学改革が「教育」改革という局面でほとんど進まない理由がここにある。大学改革とは、教授たちにとって、研究体制の改革以外には意味のないものなのである。
したがって、本来、研究者(あるいは専門家)は〈啓蒙書〉や〈入門書〉(あるいは教科書)を書かない。そんな他者を意識した〈教材〉を書いている暇などあるはずがない。自分の諸課題を究明することの方が切実だからである。研究者が〈啓蒙書〉や〈入門書〉(あるいは教科書)を書き始めるというのは、あるいはテレビや雑誌に頻繁に登場し始めるというのは、その研究者が“長老”となって現役をすぎてしまったか、もとから世俗化ずれした三流の研究者であったかのどちらかにすぎない。研究者が〈他者〉を意識し始めるというのは、危険な兆候なのである。研究者は〈事柄(Sache)〉にのみ追従するのであって、どんな〈他者〉にも追従しはしない。〈事柄(Sache)〉にのみ追従するということが、彼らの倫理や社会性の在処なのである。
それに反して、教育者はすでに知っていること、すでに習得していることを他者に伝えることに専心する。何を知っているのか、何を知ろうとしているのかというよりもどう伝えるのか、どう理解させるのかが、教育者の主要な課題でなければならない。たとえ、知っていること自体の再探求が課題になる場合でも、それは教えること、教え方のさらなるブラッシュアップのための再探索であって、つまり〈教材〉を再開発するためであって、〈事柄(Sache)〉を探索すること自体に関心があるためではない。実際、高校までは(あるいは大学であっても教育的な授業の場合には)、教員にとっては「教科書」というものがすでに与えられている。これは〈何を〉教えるかではなく、〈どう〉教えるのかが彼らの課題だということを意味している。高校の教員でも、「オリジナルテキスト」を使用している熱心な教員もいるが、これも何を教えるかの〈何を〉を「オリジナル」化したわけではなく、教え方に関して、既成の教科書の記述では飽き足らないということを動機にしている。〈他者〉を意識したオリジナル化、〈他者〉のためのオリジナル化なのである。言い換えれば、受講生である生徒や学生に追従するためには、既成の教科書では不可能だという認識においてのオリジナル化なのである。それらは、〈他者〉のために〈教材〉を作るという教育者の根本性向に属している。同じ科目の同じ授業、つまり理解させることが同じものである授業であっても、学生が変われば、教材は変化する。能力や目的の違う学生にどうやって与えられている目標(〈何を〉)をクリヤさせるか、これもまた神業に近い教育者特有の仕事なのである。教育という“専門性”が存在するとすれば、それは与えられている目標(〈何を〉)と学生の現状の能力や関心との乖離を埋める〈教材〉を作ることができるかどうかに関わっている。
専門家は〈何を〉としての〈事柄〉を非人間的に(=事柄に即して)探求し、教育者は〈いかに〉としての〈教材〉を人間的に(=学生に即して)探求する。
その意味で、教育も固有な領域を担っている。専門家であることが、その道の教育者であるとは限らないし、教育者であることがその道の専門家であるとも限らない。両者は同じように見えて、基本的には別のマインドで形成されている。
「学校」というのは、したがって専門家の集団ではない。教育機関としての学校は、教育者の集団であり、〈論文〉ではなく、〈教材〉を資産に持つ機関である。
教育機関としての「学校」は〈研究者〉を養成するところでもなければ、〈専門家〉を養成するところでもない。各教員が実務経験の中で学んだことやすでに有している知識や技術以上のものを教育目標の〈何を〉として掲げる必要は当面ない。それ以上に重要なことは、すでに獲得されているそういった能力をどうやって学生に伝えることができるのかということなのである。その意味では「カリキュラム」も「科目」も教える〈何を〉を表現したものというよりは、教える順序と構成(分節化)を意味しているにすぎない。「カリキュラム」も「科目」も教育的なものであって、何らかのオブジェクト(や事柄Sache)を意味しているわけではないのである。
カリキュラムの存在も科目の存在もそれ自体がすでに〈教材〉である。それらは、何を教えるかに留意して作られたものというよりは、どうやって教えるのかに苦慮して作られている。
「教員である」ことのプライドは、「専門家である」ことのプライドではなく、こういった授業の構成力のノウハウ ― それが形となったものが〈教材〉である ― についてのプライドである。教授が、〈事柄〉に追従しながら〈論文〉を構成していくように、教員は〈生徒・学生〉に追従しながら〈授業〉を構成していく。ここにこそ、〈大学〉とは別の、〈学校〉と〈教育者〉のミッションがある。
2001/6/15(金)00:24 - 芦田宏直 - 203 hit(s)
我が家のインターネット接続を昨日「フレッツISDN」から「フレッツADSL」に変えました。申し込んで約一ヶ月。電話線と共用せず、専用線で契約。ISDNは2回線の電話利用としてそのまま使うことにしました。共用線は電話中に「ノイズがはいる」といった“噂”もあり、ISDNの2回線利用の便利さも捨てがたいものがあったのでそうしました。フレッツISDNは、MN128SOHO-SLOTINで繋いで無線LAN(3台のパソコンの無線LAN)を構築し重宝していたので、それをそのまま流用しない手はない。ちょうどMN128SOHO-SLOTINをブロードバンド対応させる「簡単導入パック」が5000円程度で出ていたので、それを買ってのADSL導入だった。
さて肝心の“速さ”ですが、我が家(世田谷南烏山のマンション)のADSLは、専用線の出口のところで、1145kbpsの速度(ちなみにISDNが理論値64kbpsの速さですから、約18倍の速さです)が出ています(私は総戸数160戸マンションに住んでいますが、他に3住戸がADSL契約をしているらしいこのマンションの中では「最速が出ている」とのことでした:NTT回線業者)。ADSLは、アナログ回線なので電話局との距離でかなり速度に差が出ると言われていたので心配していましたが、結構の速さが出ており、安心しました。昨夜セッティングをしてブラウジングをした場合の実測値では640kbps前後出ていました(フリーウエアをダウンロードして測りました)。実測においてもISDNの約10倍のスピードです。もはやISDNは過去のものになったということでしょうか(もちろんADSLの天下も光ファイバー回線がすでに月額1万円を切っているので時間の問題かもしれない)。
ちなみに、数値では速さを伝えるのは難しいでしょうから、テラハウスのWEBカメラを見ようとした場合、ISDNだと30秒〜1分(以上)くらいかかっていたものが、3秒から10秒以内で両画面が出るようになりました。
ISDNであれ、ADSLであれ、定額契約は絶対におすすめです。インターネットの“快楽”は、常時接続をしなければ味わうことはできません。データを取るために、いちいち、ダイヤルアップ接続をしなければならないということでは(接続している間に料金が累積、加算されていくという脅迫的な課金制度では)、点的な参照しかできないため、インターネットの総合的、重層的な情報活用がまったくできない。それと、ちょっとした調べものにも便利なインターネットであるにも関わらず、そのつどのダイヤルアップ接続ということになれば、面倒くささが先に立って、結果、利用しなくなることが多い。これでは世界大で日常的に騒がれているインターネットも他人事や仕事の世界(あるいはメール利用)だけのものになってしまう。意味がないわけです。
経費は、NTTへの月額経費が6000円ちょっと(ちなみに専用線でなければ4500円程度)。私のプロバイダであるNIFTYとの定額月額契約が2000円。合わせて月額約8000円で「ブロードバンド」インターネット体制ができあがる(工事費も20000円以内です)。なお、NTTは、来月からさらにADSLの月額を1000円程度安くする予定。年内には現在の6000円(専用線)は、4000円くらいにはなるのではないか。これは現在のフレッツISDNとほぼ同額の値段です。夏休みまでに利用するには、今すぐ申し込んだ方がいいですよ。
2001/6/18(月)00:10 - 芦田宏直 - 275 hit(s)
アメリカンヒストリーX。久しぶりにロマンチックな映画を見てしまった。“ロマンチックな”映画は、途中で寝てしまうこともあるけれど一気に見せてくれました。黒人差別(反黒人差別)の映画としても、兄弟愛の映画としても、家族愛の映画としても、中途半端な脚本でしかないのだけれど、これがなかなか見せる映画です。全編の7割くらい占める白黒画像と時たま入る超高速度撮影がまたロマンチックなイメージを上手に盛り上げているような気もします。主人公のエドワードノートンは、下手をするとロバートデニーロのような大根役者になる“危険性”があるけれど、でもいいじゃないですか。エドワードノートンの弟役のエドワードファーロングがまたいいんですよ。役を作りすぎている感じもすれけど(たぶんアメリカ人が見ればそうだと思う)、(外国人である)日本人の私にはちょうどでした。薬中のようなうつろでさびしそうな目(本当に薬中で入院経験があるらしい)が今でも私の胸の中に残っています。
それはそうと、「午後の紅茶」のTVコマーシャルいいですね。「ローマの休日」のオードリヘップバーンとスピッツの名曲「ロビンソン」(ルーララ、宇宙の風に乗る♪♪)との組み合わせがぴったり。「川原の道を自転車で走る君を追いかけた」というときの「自転車」はオードリの自転車だったんだ、となぜか合点がいき、「ルーララ♪」という歌詞はオードリの、天使のような(それでいてキュートな)微笑みのためにあったわけです。マークIIとジョージクルーニの組み合わせ(「芦田の毎日」134番参照のこと)以来の大ヒット作です。日本のTVコマーシャルの背後には飛び抜けて優れたプロデューサーがいそうな気がします。いつでも手軽に勉強できて重宝しています。
2001/7/1(日)20:32 - 芦田宏直 - 549 hit(s)
6月21日(木)の朝、6:00くらいからお腹急に痛くなり、寝れば何とかなると思ってもう一度寝込みましたが、今度は痛くて眠れなくなり、七転八倒。じっとしていられなくなりました。ちょうど痛みで起こされたのが8:30くらい。家にはもう誰もいません(息子は学校、家内は会社)。吐き気はするのですが、何も出ない。お腹が痛いのに、下痢もまったくない。私は風邪の時には、だいたいお腹の来るので、吐き気や下痢の感覚はつかんでいるが、こんな腹痛は初めて。おへその下あたり全体が痛い。痛さは下痢の時の痛さと同じ。でも出るべきものが上からもしたからも出ない。寝込んでも立ってもころがっても痛さが変わらない。そうち居ても立ってもいられなくなった。ただごとではないと思い始めた。こうなったら、救急車。でも110? 119? 109? 急にわからなくなって、110番。「あのー救急車って、何番でしたっけ?」「119番です」「ありがとう」。そして119番に電話。「こちら119番。火事ですか、救急ですか」「あのーお腹が急にいたくなって」「わかりました。地区はどこですか?」住所を言って、最後に「住宅街だから、サイレンを落としてください」とまではまだ冷静だった。救急車は5分足らずでやってきた。このときにはもう地獄のような痛さ。サイレンの音がしたのでその段階で下に(私の階は8階にある)息絶え絶えの状態で降りた。下に降りるとマンションの管理人たちが(想像していたとおり)4〜5人ぞろぞろとでてきて、誰なのという感じ。「あっ、芦田さん、お子さんか奥様に何か」「いや、僕なんですよ」。それが精一杯の返事。管理人たちも思わず沈黙。
救急車に乗ってからがまた時間が取られるというのが今回の勉強の最初。まずそれなりの診断をする。そうでなければどの病院も受け入れようがない。そのうえ、希望の病院はないのかまで聞いてくる。私は特に病院通ではないので「どこでもいいですよ」。「近ければ」と付け加えた。救急隊の人たちの病院の選択にはかなり慎重な感じがあったが、その意味などこの段階ではまったくわからなかった。こういったやりとりでほぼ10分くらい。この時間がやけに長く感じた。早く連れて行ってよ、というのが私のこのときのすべてであった。
結局、私の家から一番近い「S総合病院」に決まった。「Sでいいですか」と隊員。「S病院」は私の散歩コースの周辺でもあったから、「いいですよ」(これがいけなかった)。
救急車でほぼ6分くらい。もちろんこんなことは初体験。しかし着いても「S病院」は普段のまま。外来患者の診察の間に割り込むという感じ。割り込めればまだいい方で、このままでは私は、なんのために救急車で連れ込まれたのかわからない。「ウーウー」としかし病院中、響き渡るくらいに、私の悲鳴は大きかった。あの車椅子で、外来のロビーをうなりあげながら通行する風景は一生忘れることはできない。診察室で横になっても先生は隣の部屋で外来を看ており、すぐには来ない。「ウーウー」は、“早く来いよ、この野郎”という懇願の声にもなっていった。やっと来たのは、この病院の、若いS院長先生(あとから散髪屋に行って仕入れた情報だが、この若い院長は、3代目で、創始者はこの院長の祖父らしい。祖父も2代目もいい先生だったらしい。さてこの現役の院長は?)。「どうしましたか?」だって。バカじゃないの。お腹が痛いのよ。「どのあたりですか」。「全体に」と私。「全体って? 横とか後ろとか、へその上、へその下?」。だったら最初からそう聞けよ。「へその下あたりで、前の全体という感じ。特に局所的な感じではない。下痢をしたときの腹痛に似ているけれど、下痢も(最初、吐き気はあったけれど)嘔吐もない」と私はそう答えた。この若い院長先生、私の下腹部を押さえながら(この押さえ方じゃ診断できないでしょう)、「うーん、とりあえず、検査してみましょう」と先生。それだけ? そんなこと誰だって言うじゃない。私はこの先生に診断を期待することを早々と諦めた。「検査もいいけど、とりあえず、痛みだけはとっていただけますか?」。「そうね、痛み止めを打ちましょう」。そう答えるのがこの先生には目一杯というところだ。
そこで出てきたのは、(誰でも子供扱いにする)年齢不詳の看護婦。「いたそうね。これをうつと大丈夫よ」。看護婦というのは、なぜ患者を、いつでも親しげに年下扱いするのだろうか(私よりは若いくせに)。「大丈夫よ」の「よ」は、どういう言葉使いなのか? これが(10人以上の老若看護婦と接して)今回の入院騒動で一番感じたことだった。筋肉注射を2本一度に打たれた。注射は、30年前の日本脳炎予防注射以来のことだ。「これって、すぐにききますか」「すぐききますよ」「すぐって、何分」「すぐに効く人もいるし10分くらいかかる人もいます」「ということは最大10分ということね」「そうよ」。私には、もう我慢の限界だったので、「最大」10分という答えがほしかった。ほっとしたのもつかの間、こんな注射、何の役にも立たなかった。まったく痛みはとれない。
注射が30年ぶりなら、点滴ははじめて。筋肉注射のあとは、点滴をすることになって、これが退院までずーっと私を悩ませることになる(寝ても覚めてもトイレまでも、そして検査中も、着替え中も点滴。バカじゃないの。こういった無様さが病人をますます病人にするのです)。
痛み止めが効かない状態で、まずは、1)尿検査 2)血液検査 3)立ったままのレントゲン 4)寝た状態でのレントゲン 5)超音波検査 を一気にやらされた。こんなバカな検査はない。検査中も点滴状態。そのうえ、痛くて痛くて、レントゲンも超音波も、壁に足を何度もぶつけないと耐えられないほど痛いのに、「壁にぶつけると足が痛いですよ」だって。青果市場をまわるように検査ごとに別々の人が検査露天商をやっている状態だから、検査される私は自らを“物”のように無機物化するしかない。この無機物化が痛みの内在感に合わない。ばかやろう、何が10分だ。もう、30年ぶりの注射を打って1時間は経っていた。
もう一度外来患者を相手にしている院長先生のところに戻ってきた。この病院に着いたのが9:30くらいだから、検査を終えて戻ってきたのが11:00くらい(と時間を書いているが、これは私の錯覚。実は、私が家内に「今から救急車を呼んで病院に行く」と電話をしたのは、11:10らしい。私は、自宅で2時間くらい七転八倒していたみたいだ。もはや時間の感覚もなかったのかもしれない)。
「まだ痛いですか」。(見りゃわかるだろ)。「ほとんど変わりませんね」と私。検査データに目を通して、先生が言った言葉。「どこも悪くはないですね」。「とりあえず痛みを取ってほしいのですが」。「そうは言っても原因がわからないと。何の痛みなのかがわからないとそんな簡単に痛みは取れませんよ」。誰がそんな“理屈”を言えと言ったんだよ。手で押さえて(触診で)わからないのだから、あとは機械的な精密検査しかない。人間的な痛みという有機的なシグナルは、もう意味はない。私にすれば、盲腸の手術の時にする麻酔薬くらい打ってくれればと思っていた。別に痛みさえ取れれば死んでもいいのだから、というくらいに「ウーウー」唸っていたのだから。痛みの最大の原因は生きているということだ。生きていることの最大の原因は死ぬということだ。したがって、痛みは死なないととれない。麻酔は仮死状態(生きながらにして死ぬという禅仏教状態)を作ることなのである。かつて、太宰治は、人は思想だけでは死ねないと言っていたことがあるが、身体の荷担とは、死の荷担のことなのである。
「とりあえず、座薬を入れましょう」。「座薬」なんて恥ずかしいよな、なんて言っている奴は元気で健康な奴。痛みさえ取れれば何でもやるよ、という気になってしまう。私も堕落したものだ。これがよく効いた。30分くらいでやっと痛みがとれはじめた。21日木曜日の正午近くだった。痛み始めて、約6時間(これも家内の記録によれば、私の錯覚。座薬を入れたのが午後1:50。痛みが取れ始めたのは午後3時近くだったらしい。私は10時間くらい痛みで唸っていたということだ)。私は、この座薬だけでよかったのだ。
しかし、座薬なんてするくらいなら死んでもいいや、というのは人間が元気なときに言うことであって、病気になって見ろよ、そんなことはすっとんでしまうから、なんてことを私は本気で言う気は全くない。事実そういう気になったが、それとこれとは別。他人様に穴の穴(けつのあな)を見せるのを「しようがない」なんて言う気になるのは、もはやその人間が人間でないときにだけであって、たぶん座薬を入れる看護婦も人の穴(人間のケツ)とは思っていないだろう。(ただし、この病院は、その座薬を入れた看護婦の指を横になっている患者である私の頭の背後で洗う位置に洗面所がある。これは気になる。私のお尻はそんなに汚いのか?!)。子供を出産する女性(亭主にさえ見せたことのない秘部を他人にさらす女性)がもはや人間ではないように、私も少しは人間ではなくなったわけだ。要するに、死ぬのが初めての病気くらいの人生をおくりたいものだ。健康なまま病気になれるのは女性だけなのである。本当は出産は最高の病気である。ウイルスどころではなく、他者それ自体をカラダに抱え込むのだから。
あれこれと思ううちに「明日は、CTスキャンと胃カメラ検査をしましょう。とりあえず、入院ですね」。そこで年齢不詳の看護婦(先ほどから“年齢不詳の看護婦”と言っているが、これは、同一人物ではなく、3人目の年齢不詳の看護婦です)が再び登場。「ゴメンナサイ、差額ベッドしか今空いていないんですが。どうします?」。「個室でいいですよ」「個室はなくて、2人部屋までなんですけど」。「じゃあ、2人部屋でいいです」。個室がない! なんて病院だ。私の家内の時でさえ(「芦田の毎日」322番参照のこと)、個室を取ったのに、私は差額ベッド代7,000円(1日)の2人部屋。こんなときぐらい、ゆっくり休ませろよ、と思いなながら、3階の305号室が私の部屋になった。
そもそも差額ベッド代というのに詳しくなったのは、家内の2年前の入院以来(上記322番参照のこと)。家内の入院先は松戸の新東京病院。ここは完全個室で日額18,000円。病室内にトイレ、風呂、応接セット、完全消音装置の付いた冷蔵庫、テレビなどがついて30uはある個室だった。これなら充分闘病はできる。そのとき一日18,000円もかかる差額代だった。せめて病気になったときくらいゆっくり休みたい。場合によってはパソコンやインターネットもゆっくりやりたい(「芦田の毎日」も書き続けたい)。また友達などと面会時間を超えて自由な時間に会いたい。私の家内の場合は、わたしのテラハウスでの仕事の関係もあって、面会が夜の11:00を超えるということもあり、この個室選択の理由にもなっていた。個室であれば、24時間ほとんどの時間で自由に病室を出入りできる。それに松戸までいく首都高速6号なんて22:00すぎにならないと走れないくらい混んでいる。深夜の面会はその意味でも重宝した。
ところが一方で、一日18,000円。一ヶ月でそれだけで55万円。これでは将来、ガンや大病をわずらったときに、個室で闘病する気になれない。差額代が気になって、早く死ぬしかない。そのとき以来、わたしは生命保険をすべて解約して、入院保険に切り替えた。家内も私も息子もすべて一日20,000円は出る入院保険に加入した。生命保険は、死んでから出るもの。そんな死んでからのことよりも、死ぬ前に不自由しない保険にはいるべきだ。特に闘病の時(死ぬ前)に、お金のことが気になるなんて最低の生き様ではないか。生きている限りは(健康である限りは)、なんとかなるのだから、病的なときに自由でいるためには(つまり病的なときに自由に死ぬ準備をするためには)、個室に入院できる体制をとるべきだ。みなさんも(もし相続税を心配するほどの財産家でない場合は)生命保険はやめて入院保険にした方がいいですよ(Alicoがいいですよ)。
もちろん、東京都心の有名な大病院でれば、差額代は50,000円を超えるだろうが、都内の平均的な病院であれば、20,000円前後だ。地方へ行けば、1万円以下で個室になる。そういった気持ちでいたものだから、入院=個室と決め込んでいた私は「二人部屋」と聞いてショックだった。
この部屋は、窓側が南向き、出入り口が北側にある。ベッドは頭が東を向くように置いてあり、窓側、出入り口側にそれぞれベッドが置いてある。2台とも空きベッドだったが、私は(窓側ではなく)出入り口側のベッドを使うことになった。最初、その意味がわからなかったが、理由は簡単なものだった。看護婦が、たぶん、出入り口から遠い、奥のベッドへ行くのがじゃまくさいだけのことなのである。これが、わかったのは、入り口のドアを閉め切ると看護婦たちがいやがることを知ったからである。この部屋(というより、この病院のすべての入院患者の部屋)のドアにはストッパーが常備されていて、いつもドアが開けっ放しで固定できるようになっている。検査や点滴の付け替えごとにいちいちドアなんか開けてられないということなのだろう。ひどい話だ。
そのうえ、この病院の通路は往来がやたらに多い。確かに入院専用のフロアなのだが、看護婦の往来、掃除婦の作業、トイレの往き来(個室がないものだから、すべて共同トイレということもあって)など廊下がうるさい。そのうえ、ドアが常時開いているものだから静養とはほど遠い。そのうえ、私の隣の病室は「苦しい、痛い」と2〜3時間置きに昼となく夜となくうなるような声をあげる痴呆症の老人(老婆)が入院していたから大変だった。
さて入院してからわかったこの病院の看護婦たち(=病院そのもの)の特徴。
1)若いか年をとっているのかわからない看護婦が多い
2)患者に対する言葉使いが、子供を相手にするような言葉使いで不快。郵便局の受付窓口にそういう“おばさん”がたまにいるが、それと同じくらいに不快。親しげにしゃべることと患者に安心を与えることとは何の関係もない。
3)いやみなほど声が大きい
4)とにかく、病室のドアを開けっ放しにしたがる
5)病院(病室)を自分たちのオフィスだと勘違いしている
6)病室の前の通路(廊下)を歩くときに用もないのに早足で(音を出して)歩く。レストランでウエイトレス(ウエイター)が早足に歩くのが不快であるのと同じ。
7)初めてなのに、入院患者である私に名を名乗らない
8)その割に「芦田さん」とそこかしこで慣れ親しく呼んでいる
9)私の担当者が誰だかわからない
10)婦長が誰なのかもわからない
11)すでに行った検査を確認もせずに、もう一度(何度も)やろうとする
12)数種にわたる点滴の内容を説明しない
13)病室、病棟の説明をしない
14)入院患者の「生活心得」をまったく説明しない(起床がいつ、就寝がいつといった基本的な生活ルールでさえまったく説明しない)
15)要するに、私は何も説明されないまま病室で放置された
16)「説明」されたのは、この病室のテレビを見ようとしたら、1000円(10時間)でカードを買わなければならないということだけだった。
17)腹痛でうなっている中年男を見ると「尿管結石」と決め込んでいる看護婦がいる(「痛いでしょ、尿管結石って」。本当に言われたんですよ。ドリフのコントのような話。“ダメだこりゃ”と思いました)
18)つまり、経験的に過剰な思いこみを持っている看護婦が多いこと。
19)というより、検査歴や投薬歴に目を通さずに ― あるいは担当医師とのコミュニケーションなしに ― 病室に入ってくる看護婦ばかりだということ。
20)家内が付き添いに来ると全体に急に私に冷たくなった(考え過ぎか?)
こんな病院での入院生活が始まった。座薬が効き始めて、この最初の座薬の効き目が切れ始めたころにふたたびあの痛みがおそってきたらどうしようというのが一番の心配だったが、家内が面会時間(夜は午後8時までだというのをあとで知った)をすぎて帰ったあとも、痛みは再来せず、一安心。もちろん食事や飲み物は検査が終了するまで一切禁止で、点滴をしたまま生まれて初めて病院で一夜を送った。特に寝付かれないということはなくて、すぐに朝になったが、今度は勝手なもので、いったいこんな状態で何日過ごすことになるのかということが気がかりだった。朝、S院長が来たが、「今日はCTスキャンと胃カメラ検査をしましょう、それで問題がなければ、明日は … 」。「明日は退院ですね」という言葉を期待したのだが、「明日(から)は、流動食くらいは食べてもいいでしょう」だって。この院長いつまで私をこんなところに監禁するのだろう。私は、父を白血病で亡くしているが、こんな病院で「父は白血病でした」なんて言ったら、いつまで検査が長引くかわからないので、いつの間にか「まったく健康です」と言い続けることにしていた。これは、裏返しにされた生体の保護・自衛能力というものだ。
入院して翌日の朝9:00にCTスキャン検査開始。TOSHIBA製の機械だった。結構、冷却ファンの音のようななんだか大きな音がする。5分〜10分くらいで終わり(この検査中も点滴はつけたまま)、次は胃カメラ検査。私はバリュウムでさえ飲んだことがないのに、いきなり胃カメラ。まず、どろどろとした、口内を麻痺させるためのシロップのようなものを口に含んで2,3分。それをはき出してから、(年齢不詳の)看護婦が咽喉のほうに麻酔剤を吹きつける。このときに嗚咽が何度か。いやな予感がした。吹きつけるだけでも嗚咽がするのだから(たぶん吹きつけ方が下手なだけのことだろうが)、ここへ管が入るとなるとどうなるのか、考えるだけでもぞっとする。
2段階の麻酔処置後、ベッドに横たわり、いよいよ胃カメラ。かなり飲みやすくなったと聞いてはいたが、私にはまだ結構太い管のように思えた。私は、近藤誠派だから、もともと胃カメラ検診に嫌悪感を持っている。だから余計にカラダに力が入ってしまう。
管が気管支のところを通るときが一番嗚咽がきついときだ。2,3回は涙を出しながらの“ゲー”が続く。「力をぬいて」「息をゆっくりはいて」「目をつむらないで」とは言われるが、力を抜くのも息を吐くのも(ヨガの思想だ)、こういったときは難しい。管が中に入ってしまえば、どういうこともないのだが、今度は取り出すとき、あるいは食道の上部あたりを管を回転させて検診されるときがまた何とも言えなく不快な感じで、また“ゲッー”っとなる。とはいえ、あっという間に終わったという感じだった。
こういったとき気になるのは、検診後の担当者の態度だ。たぶん検診中に患部は露呈しているのだろうから、「あっ、この患者もう終わりだな」なんてことはいつでもあることだろう。とはいえ、「どうでしたか?」なんてことも(こわくて)聞けない。しかし、検査後は何事もなかったかのように静かで(これがまた不気味)、2人の看護婦と検査士一人とがいたが、検査結果については言及なしに、「病室へお戻り下さい」で終わった。
さてこれで、尿検査、血液検査、レントゲン検査、音波検査(ここまでは初日の検査で異常なし)、CTスキャン検査、胃カメラ検査(二日目)と一通りの検査が終わった。
病室に入ってからは、検査結果待ちだったが、院長は、朝からまだ一回も私のところに来ていない。いったい、これからどうなるのだろうと思いながら、家内に“様子”を見てきてほしいと頼んだ(こういったときは、なかなか本人では聞きづらいものだ。医療における「アカウンタビリティ」というのは、実は事柄の半分しか言い当てていない。患者というのは、知りたいと同時に知りたくもないという両面の心理で動いている。アカウンタビリティというのは、患者の周囲の者の権利なのである)。
しばらくしてきたのが、まったく新しい先生、F先生。若手で30代前後。院長とは違って、才気あふれるやり手の先生という感じ。目つきがなかなかいい。「芦田さん、検査の結果はCT検査、胃カメラ検査も含めてどこも悪くないんですよ、ちょっとお腹見てみましょう」。このときの触診がまた明らかに院長と違った。遙かにF先生の方が少し強めにお腹を押さえる。これくらい押さえなくちゃ確かにわからないだろう。院長先生はただ儀礼的にさわっているだけという感じだった。「どうですか、痛いところはありませんか?」「ないですね」。「うーん、それじゃ退院しますか。お忙しそうだし。院長先生と相談してきます」「本当ですか、それはありがたい」。私は、このF先生の「退院」という言葉が、「座薬」が効いた時と同じくらいにうれしかった。座薬が効いて痛みが取れてくるのと同時に私が思っていたのは、どうやって、この病院から脱出するかということだった。私の自宅はこの病院から歩いても5分程度。パジャマのまま出ていくこともできるが、医師の命令を無視して病院を出ていくことは、ほとんど犯罪に近い。入院時に払わされた保証金の10万円も戻ってこないだろう。でも10万円をすててでも脱出したいのがこの病院だった。もちろん病院を脱出したいのか、入院から脱出したいのか微妙なところがあったが、木曜日の夕方からずーっと思っていたのは、そのことだった。だから、F先生の「退院」という言葉は、痛みを鎮めた座薬と同じように私にとって第二の神様だった。
私が「退院」を希望したのは、もっとくだらない理由があった。木曜日に入院、金曜日退院。土日は自宅で、というのが私の希望だった。だって、土日に病院なんてサイテーじゃないですか。入院でウイークデイを過ごして会社を休むのは得をした気がするが(ちょうどインフルエンザがはやって学級閉鎖になった生徒のように)、土日を病院で過ごしても勤めの延長のようで、逆に損をしたような気になる。そんな勝手なことを考えるようになって、私もサラリーマンになったのかな、と思ったりもしていた。30代は、週に4日間くらいは、自宅にいたものだから、土日の意味などそれほどなかったが、最近は、土日の比重は大きくなっていた。
10分くらいして、F先生が戻ってきた。「院長の了解を取りましたから、退院手続きをとってください。薬は一週間分、痛み止めは、5回分用意しておきます。週が開けたら、もう一度来てください」。「ありがとうございます」と家内と私。
早速、退院手続き。F先生の「退院」の言葉の後、一時間位して看護婦が点滴をはずしに来た。この2日間ずーっとつけっぱなしの点滴。まるで電池持ちの悪いノートパソコンの長時間バッテリーのようなこの点滴針をはずして、やっと「退院」のありがたさが実感できた。その後も結構時間がかかったが(依然として誰もこの待ち時間の説明に来ない)、「退院」は確定しているのだからどうということのない時間だった。数時間してやっと病室から出て、1Fに降りて、一日前「ウーウー」うなって入ってきた外来の待合室を点滴なしに通り抜けたときに、やっと本当に自由になったと思えた。外来の診察をする院長がちらっと見えたが、もう二度とここへは来ないつもりで、通り過ぎてしまった(おとなげない)。ただし、F先生だけは、“命の恩人”と思い、名前だけは聞いておけと家内に言って調べておいた。実は、“その”先生が「F」先生というのは後から聞いたのだ。火曜日と金曜日が当番の先生らしい。この先生が月曜日と木曜日の担当だったら、私のこの「退院」は週明けになっていただろう。考えただけでもぞっとする。お中元を贈らなきゃ。
病院からは、散歩のようにして歩いて自宅へ帰った。息子が烏山の自転車置き場に自転車を置いているので、「父、退院する」という置き手紙を自転車に張ってから(少し遠回りだったが)、帰った。マンションに着いてからは、管理人室の受付カウンターに立ち寄り、先日の“ご迷惑”についてご挨拶をし、自宅に戻った。金曜日の午後の5:00だった。
あれから、痛みは再来していないのだが、日曜日(23日)になって、少し腰が痛くなってきた(右側の後ろの腰骨の部分)。筋肉痛のような痛さなので、たぶん、金曜日、土曜日とお腹を無意識にかばって歩いたため、普段使わない筋肉を使ったのが原因だと思うが、7月1日のいまでもまだ(腰が)痛い。先週もテラハウスは午前中だけの勤務にして早引きしていた。2日の月曜日からはフル勤務しようと思っているが、この腰の痛みは少し気になるところだ。筋肉痛なら日々症状は軽くなるはずだが、立ったり、座ったりするときにはまだ痛い(立ってしまえば普通に歩けるし、座りっぱなしであれば特に痛くはないのだが)。変なウイルスが私の下半身にすくってしまったのかもしれない。水曜日には、家内の命を救った松戸の病院に行って“オーリング”検診を受けることにしている。
今回の入院で学んだことのひとつは、救急病院はあらかじめ決めておくこと。職場と自宅(自分の過ごす時間の多い場所)で何かあった場合、どこの病院で治療するのかをあらかじめ決めておかないと、救急であっても、一度入院してしまえば、そう簡単に転院などできないから、(個室の有無も含めて)評判を確かめ、「マイ」救急病院を決めておくことだ。入院とは、限りなく死刑に近い監獄にはいることと同じことである。だから、居心地のいい監獄を決めておく必要がある。
もう一つは、やはり、病気になってはじめて健康の意味をわかるというのはダメだということだ。健康の時にこそ、病気の意味を取り込む必要がある。それは定期健康診断を受けるということではない(私は46のこの年齢まで健康診断を受けたことがない)。定期健康診断もまた病気を忘れるための別のあり方である。生きているということの真の“目的(END)”は死ぬことである。この目的が通常の目的と異なるのは、時間的な猶予(=計画)を持たないことにある。常時、存在している目的が死というものだ。したがって、いつであっても目一杯の仕事をしておく必要がある。どんなに途上の仕事であっても、理念としては完結した仕事をしておくことだ。気をつけなければならないことは、人間が死ぬということは、現在に、自分の存在の意味をすべて込めることができるということを意味している。だからこそ、人間はいつでも死ねるのである。これこそが、人間の最高の保険である。定期健康診断をして安心している人間は、自分の存在の意味づけ(=現在)を将来に延期して曖昧にしようとしている(曖昧にできると思っている)。あるいは、まだ自分の存在の意味は、まだ先に(将来に)あると思いこんでいる。こういった思いこみは、自分の〈現在〉を釈明する、言い逃れする迷妄なのである。それは定期健康診断で死から脱出することができる、あるいは死を延期することができると思う迷妄と同じものである。健康がありがたいのは、死ぬことができることに感謝できることであって、その逆ではない。
ところで、私の20項目の条件をクリアするおすすめの(救急)病院、誰か教えてくれませんか?
※ちなみに私の入退院費用は以下の通り。
S病院の入院費用
○一日目
「初診料」250点
「注射料」117点
「検査料」1479点
「レントゲン料」684点
保険総点数2530点→「負担金」5,060円(私の支払う金額)
○二日目
「投薬料」6660点
「注射料」7440点
「検査料」20600点
「画像診断料」18810点
「入院料」30120点
保険総点数83630点→「負担金」16,730円(私の支払う金額)+保険外(室料14,000円)
以上2日間でかかった費用は35,790円(差額ベッド代14,000円を含む)でした。なお差額ベッド代は、一泊二日でも二日間の入院ということで二日分の費用になるらしい。「ホテル代の計算の仕方とは違います」とわざわざ窓口に書いてあった(こういったときにだけ丁寧に説明してある)。
なお、上記の必要費用とは別に、入院保証金(「預かり金」とも「保証金」とも言っていた)として10万円が必要で、上記の費用との「精算」という形での支払いになりました。10万円なければどうなっていたのだろう。急病であってもプールされるお金がなければ、治療できないのだろうか。なさけないことだ。
2001/7/5(木)00:05 - 芦田宏直 - 274 hit(s)
新型ザウルス(MI-L1)がまた先々月(5月21日)、発売された。
この製品は、私が以前「芦田の毎日」163番で取り上げたザウルスMI-E1の「ビジネスユーザー」版、MI-E1からマルチメディア機能を省いた「廉価版ザウルス」(MI-E1より約一万円安く、35000円程度で手に入る)のように言われているがそうではない。
この新ザウルス(MI-L1)は、私が「芦田の毎日」163番で指摘した問題をほとんどクリアーしている。まるでシャープの担当者が163番を読んだかのようにクリアーしている。特に単語登録機能なんかは、ザウルス史上初めて、単語登録の「よみ」が一語登録ではなく、任意の語数で登録できるようになった。画期的なことだ。あとは、カーソルキーの真ん中に「決定」キーがついたこと。「決定」キー(=「電源」キー)が押しやすくなったこと。サブ操作キーが、ペンでも押せるように工夫されたこと。キーの頭が扁平になり押しやすくなったこと(なれればキーボード並みに入力しやすい)。反射型モニタの反射率が格段に上がり(フロントライトがなくなった分)、MI-C1なみに見やすくなったこと。兄貴分のMI-E1は、フロントライトがついている分(たしかにライトオンのときには見やすいモニタだが)、液晶板が奥に引っ込んでおり、その分、ライトオフの時にはずいぶん見にくくなっていた。逆にライトを付けないと使い物にならないこともあって、ノートパソコンなみに電池切れが頻繁に起こり、顰蹙をかっていた。その問題が新ザウルスMI-L1においてやっと“常識的な”ところに落ち着いたのである。
ちょっとした療養生活(「芦田の毎日」379番)で退屈していた私は、これだけでも感心してつい買ってしまった。昨年の暮れに出たMI-E1ザウルス以来なんといってもありがたいのは、コンパクトフラッシュカードとSDカードの二つを使うことができることだ。この機能は現在出まわっているPDA(携帯情報端末)の中ではザウルス以外にはない。当然のことながらコンパクトフラッシュカード部は、NTTのPinCompact(PHSカード)を使い、SDカード部は64メガのメモリカードを使う。こうするとザウルスを64メガ大のインターネットデータベースとして使えることになる。たとえば、「芦田の毎日」のそれぞれの記事をザウルスに落として読めるようになった。64メガあれば、死ぬまで「芦田の毎日」を落としても大丈夫だろう。ちょっとしたインターネットポケットライブラリだ。短いメールの受発信という点では携帯電話の軽快性には劣るかもしれないが、インターネット利用の日常的な軽快感という点では、現在のところ、このMI-L1ザウルスの右に出るものはないだろう。
ザウルスMI-E1発売のときにはなかった従来の「レポート&自由帳」「辞典」類などもそろっているから、不自由しないだろう。WordやExcelのデータも移すことができる。要するに、従来のザウルスの資産をやっと全面的に引き継ぐことができるのが、このMI-L1ザウルスなのである。つまりザウルスMI-C1(従来のザウルスの頂点)の正当な後継者は、このMI-L1なのである。しかもMI-C1は88,000円(定価)していたが、MI-L1は、その半額以下の値段(私が買った値段は35,500円。ちなみに価格コムで調べると34,500円が6月下旬で日本一安い価格であった)。さらに、MI-C1に比べて、新ザウルスMI-L1は、処理速度が3倍以上に跳ね上がっている。サクサク動く。MI-C1の最大の欠陥はすべての操作で重かったということだが(特にCFカードを挿入していると立ち上げにかなり時間がかかったが)、それが圧倒的に改善されている。Pin(CF)カードをつけようが、SDカードをさらにつけていようと一気に立ち上がる。今回の操作系の改善で、この処理速度の速さをはじめて活かすザウルスになった。
そろそろザウルスを買い換えようとしている旧ザウルスユーザー、携帯電話でのメールのやりとりに抵抗を感じるユーザー、モバイルパソコンでのインターネット利用では仰々しすぎると感じているユーザーには、このMI-L1ザウルスは最適な選択だと思います。
2001/7/10(火)00:06 - 芦田宏直 - 300 hit(s)
この間の日曜日、レンタルVIDEOショップで借りてきた「フェノミナン」も「ライトスタッフ」も面白くなくて(どちらも開始後20分くらいして見るのを止めた)、BSデジタルの取りだめした「レインディアゲーム」をみていたら、どこかで見た女優だな、あら「サイダーハウスルール」で見たあの女優だ、ということで記憶をたどれば、シャリーズセロン)。なかなかいい女優です。「レインディアゲーム」自体はくだらない映画でしたが、シャリーズセロンを見続けるために最後まで見ていました。「サイダーハウスルール」以前に、私が見た映画では「ディアボロス 悪魔の扉」、「ノイズ」― どちらもくだらない映画でしたが ― でも出ていたようですが、印象に薄い。なんといっても、「サイダーハウスルール」の、全裸でベッドに横たわった後ろ姿が忘れられない。
この女優は、衣装を羽織っているときと脱いだときとではまったく印象の異なるユニークな女優だ。その落差が決定的に印象的だ。「サイダーハウスルール」自体は決して悪くはない映画ですが(私の採点簿には「75点」とある)、それでも、印象にあるのはシャリーズセロンの全裸の後ろ姿。これは見る価値があります。「ボーンコレクター」のアンジェリーナジョリーも、最近の女優では印象に残っていますが(もっとも最新作「60セカンズ」では、何のために出てきたのかわからない役回りでしたが)、シャリーズセロンも負けず劣らずいいじゃないですか。いいですね、アメリカには個性的な女優がたくさんいて。あなたなら、「サイダーハウスルール」のシャリーズセロンと「ボーンコレクター」のアンジェリーナジョリー、どちらをとりますか?
2001/7/27(金)01:28 – 芦田宏直 - 246 hit(s)
セーフティネット論(小泉内閣の「構造改革」によって、発生する大量の失業者(の「痛み」)を諸々の“手当”(=セーフティネット)によって労働福祉的に救うという政策)は間違っている。野党までもが、「セーフティネット」論を強化しろと訴えているが、こういった失業者は、もともと出るべくして出たバブル労働者なわけだから、この人たちを労働福祉的に救うというのは、倒産すべき銀行やゼネコンに意味のない資本注入をするのと同じくらいに無駄なことである。
むしろ、失業した労働者を救うのは、規制緩和を徹底して民間参入を拡大させ、新しい業態を拡大的に発生させることだ。そもそも「構造改革」というのは、そういったことではなかったのか。失業者の大量発生の真の「セーフティネット」は、労働福祉的な「失業者対策」なのではなくて、規制緩和(小さい政府、地方分権化とそのことによる民間業態のダイナミックな再編・拡大)でしかない。そして規制緩和とは、既得権益に充ち満ちた政府 ― 政府権力とは既得権益の集積態でしょう ― が解体・縮小再編されることなのだから、まず政府自身が「痛み」を感じることでなければならない。政府が「痛み」を感じることなしに失業者が救済されることなどあり得ないことなのである。
現在唱えられている与野党の「セーフティネット」論は、この問題を覆い隠している。本来は、政権党ではない民主党などの野党が矢継ぎ早の既成緩和策を打ち出さなければならないのに、労働組合の既得権益が野党の規制緩和策を麻痺させている(民主党の参議院候補者には組合の代表者がなんと多いことか)。一方で小泉総理の郵政民営化論、道路特定財源の一般財源化論は、単に財務省(大蔵省)の権限を強化するだけのものだ。政府の規模(政府の権益の規模)自体はそれによっては何も変わっていない。
与野党の「セーフティネット」論は、この馴れ合いの「構造」を何も「改革」しようとしない懐柔策なのである。最近は民間の大臣である竹中平蔵までもが「セーフティネット」論に走っている。この“教授”の限界もはっきりしてきたわけだ(というより“教授”とは限界そのものなのかもしれない)。もっとも「構造」(レヴィストロース)とはめったなことでは変わらないもののことを言うのだから、「構造改革」とは、もとから矛盾したスローガンだったのかもしれない。
2001/7/28(土)23:37 - 芦田宏直 - 299 hit(s)
夏休みの映画(レンタル映画の夏休み映画=家で見る映画)には、「カル」と「バーティカルリミット」がおすすめの映画です。
「カル」は、「シュリ」より面白い、と言いたいところですが(本当に「シュリ」より面白いのですが)、未だに“犯人”がわからない。こんな映画ははじめてです。監督も「4回はみないとわからない」と豪語しています。かと言って、全然わからなかったり、わざとらしく難解にしているわけでもなく、それなりに最後まで見せてくれます。映画が終わったあと、「なんだよこの映画は」と言って、どういうこと?と家内に説明を求めましたが、「わからない」。そこで「おまえちゃんと見てたのか」と詰問。「みてたわよ」(家内)「だったら説明しろよ」「わからない、あなたも見てたのだから人のせいにしないでよ」(家内) 私、沈黙。ちょっとした夫婦げんかになる映画です。要するになんかありそうだなとは思うのですが、何もわからない謎だらけの映画なのです ― 、そのわからなさが魅力になっていて、不満のつのるわからなさではないのです。
この映画が夏休み向きなのは、怖い映画(一種の猟奇殺人事件もの)だからです。久しぶりにトイレに行くのが怖くなりました。マンションに住んでいる私ですら、トイレに行くのが怖いのですから、一軒家に住んでいる人は、一人では見ない方がいいですよ。それにしても今の韓国映画の勢いはすごいですね。「シュリ」の最初の10分間のカメラワークと音楽は、日本映画を遙かにしのいでいました。私は、キムチが嫌いなので、韓国映画にも偏見を持っていましたが、「シュリ」に続いて、この「カル」を見ると、もう日本映画は遙か後方に抜き去られているような気がしました。「学校の怪談」「リング」も“横溝もの”も「カル」の刺激度にははるかに負けています。
そんなことはどうでもいい。みんなで「カル」の犯人を探しましょう。わかった人は是非教えてください。わたしももう一度みたいと思います(怖いから見たくはないのですが)。
「バーティカルリミット」も世界最高峰K2遭難事故救出の映画で、夏休み向きの映画です。ありがちな救出映画ですが、その割に脚本が良くできていて(音楽もいい、サラウンドでみればもっといい)、一気に見せてくれます(4,5回は心臓が止まるほどのショックがあります)。パニックものの一種ですが、タイタニックやエイリアンのようなCGを駆使したパニック映画と言うよりは、K2の自然を上手にパニックに仕立てていて、CG的な人工的パニックの上っ面をひっぱたいているような衝撃的なシーンが連続します。怪獣をだせば、驚かせると思ったら大間違いと言い続けているような映画です。自然こそ最高のパニックなんだ、ということがよくわかります。それにしても山登りなんて、よくやるよね。なんと涼しい夏になることか。
2001/8/8(水)00:12 - 芦田宏直 - 263 hit(s)
どうも体調が悪い。人間、救急車で運ばれるような危機を体験すると復帰にそれなりの時間がかかるのだろうか。腰がまだだるいし、最近は目が疲れる。長い時間、目を開けていられない(目がだるい)。もう年か? そう言えば、あと、4日(8月12日)で47才になる。折り返すと94才だから、もはやそんな年齢まで生きる年齢ではないところまで来た。自分の年齢を折り返せない。ということは、もはや下り坂しかないということだ。人生を降りる、これはいったいどういうことだろうか。47年間というものがどんな時間だったかはそれを生きてきた私にはわかっている。しかし私は、47年間、ほとんど何もしていない(この無為に特にそれほどの後悔はないが)。そして、その何もしてきていない47年間を、もはや折り返せない年齢になっている。何もしていないことの上に、さらに消耗しつつあるこの身体。何もできないことの自乗。あるいは、降りる下り坂の勢いの中に、生きることの意味が加速しながら到来するのだろうか。この折り返せない時間というものに、この先、どんな意味を込めることができるのだろうか。40代を迎えた人間は、ほとんど折り返せない転換点を迎えることになる。あなたには、自分の年齢を折り返したら、どんな時間が見えてきますか?
2001/8/12(日)01:25 - 芦田宏直 - 212 hit(s)
お盆にもどこにも行けない(仕事がある、体調が悪い、お金がないの三悪続きで)。そうなれば、映画(自宅鑑賞映画)しかない。ちょうどお盆に実家に帰ったような気にさせるいい映画がありました。私と同じ三悪で身動きできない人たちには最適の映画です。グレゴリー・ホブリット監督の「オーロラの彼方へ」。主役の一人ジム・カヴィーゼルが、なんともいえないいい演技をします。中身を詳しく話すのは控えますが、身内や親友を亡くして、言っておきたかったこと(生前には言えなかったこと)や、生きていれば相談したいこと(ないものねだり)がたくさんある人(人を亡くすということはそもそもそのようなことでしょうが)には、いい映画です。私は18才で父親を病死(というか仕事で忙殺されたという感もありましたが)でなくしましたが、ちょっとしたお盆の気分になりました(そう言えば、死んでから一度もお墓参りをしたことがありません)。生前の私の父を少しは知っている家内は映画の最初から最後まで泣き続けていました。というか終わってからも泣き続けていました。夏休みだれした家族で見るのには最適の映画かもしれません。「カル」で涼しくなった後は、「オーロラの彼方へ」でこころを和ませましょう。
2001/8/14(火)21:09 - 芦田宏直 - 265 hit(s)
私は、大学時代に東京に出て来て以来、4回、マンションを買い換えています。新宿区高田馬場(山手線・東西線)、江東区東陽町(東西線)、世田谷区千歳台(京王線)、世田谷区南烏山(京王線)と転地してきました。最近、友人のマンション購入をサポートした経緯もあり、この際、私のノウハウを10箇条にまとめてみました。超低金利と都心回帰の今、マンションは買い時だと思いますが、参考になるでしょうか。
1)大規模マンションを買うこと。これ以外にはない。最低でも200戸以上のマンションにすること。そうでなければ(特に100戸以下のマンションは資産管理という点で大変危険)、10年後、20年後の大規模修繕時に、買った当初の2倍、3倍の管理費、あるいは修繕積立金を払わされる羽目になる。そんな高い管理費、修繕積立金のマンションでは売ることさえもできなくなる。管理費、修繕費だけではない。駐車場代も大規模であれば、月額1万円を切る。さらに施工状態も大規模であればあるほど優秀な“現場監督”が担当するから信頼できる(ことが多い)。施工状態は、「ゼネコンだから」というより、規模で判断した方がいい。ゼネコンであっても、中規模以下は、いいかげんな“現場監督”が管理していることが多い。手抜きも多い。手抜きが多くてもとりあえず施工をだませるのが中規模マンションだと考えた方がよい。また、規模がおおきいと空地率も70%を超えたりし始めるから、敷地内にゆとりができ、荷物の出し入れや来客者の車の処理なども外来の交通に煩わされずに敷地の中で余裕をもって対応できる。すべてのことに目をつむっても、大規模以外には絶対手を出してはいけません。
2)駅から近いマンションを買うこと。駅から近いと住宅用以外の需要が生まれ、資産価値が高まる(値段が下がりづらい)。駅からの近さは、「肌の白さ」と同じように「七難隠す」。「七難隠す」ことができるのは駅から5分以内。
3)u規模の小さい住戸が全体の割合の多くを占めるマンションを避けること。2)と矛盾するようだが、u規模が小さいと(2DKやワンルームが多いマンション)、居住者や所有者の出入りが頻繁になり、管理環境が悪化しやすい。できれば70u、80u以下の住戸が一戸もないようなマンションが最適。
4)南向きの住戸を買うこと。やはり向きの差は大きい。南向きと他の向きであれば、夫婦げんかの数が40%は減少するだろう。北向きは快晴の日でも暗い。東向きは午前中のわずかな時間を除けば北と一緒。西向きはただ熱いばかり。南向きは、冬の朝、起きたときに部屋が暖かい、サッシに水滴がつかない(カーテンが汚れない)、風の通りがよい(換気力がある)、家具や書籍が傷まない、外出する(散歩する)気が起こる、概してエアコン代が年間で半分になるなど値段の高さの価値は十分にあります。
5)自分の買う住戸が、そのマンション全体の中で一番安いくらいのマンションを買うこと。自分以外はすべて金持ちという環境であれば、マンション内を歩いているだけでも、エレベータの中であっただけでも、理事会メンバーになっただけでも何か得をすることもあるだろうということ。その逆は悲劇。
6)何階を買うか。最上階か、角部屋か。これは難しい問題だ。最上階は、階上の音が一切しないという意味では快適だが、夏の暑さや経年後の雨漏り、また場合によってはテラスの雨の吹きつけなど心配な要素もある。はっきりしていることは、せっかくマンションを買うのだから、リビングでもパンツ一枚でいられるくらいの環境(外から見られない環境)を選ぶことでしょう。戸建てを買わずに、マンションを買うことの最大のメリットは(予算が仮に7000万円以内として)、圧倒的な眺望のよさとプライバシーの保持ということでしょうから、それを考慮すれば、自ずと答えはでてくると思います。ただし、10階を超えると外へでる気がなくなります(10階以上は子育てに良くない)。1階は湿気が多すぎて快適ではありません(地震のときも低層階は危ない)。中層階はかえって騒音(交通騒音など)が気になる場合がある(1階の方がかえって静かな場合もあります)。角部屋が気分がいいのは、眺望の開放感だけではなく、テラス側の隣住戸との境がパネル一枚程度でしか仕切られていないことを緩和できることです。テラスの両サイドがパネル一枚でしか仕切られていないというのは、決して心地よくありません。
7)周辺が住宅地(昔ながらの住民がいるということ、少なくとも2世代目の住民がいること)というのがいい。大規模マンションがいいといっても、周辺も大規模マンション、大規模ビルが並び立つというのは、よくない。特に小学生くらいの子供がいる家族では、子育て環境という点で人工都市のような環境はよくない。その地域にすむ人がすべて移住者という環境(たとえば、江戸川、浦安、幕張地域の湾岸人口都市)では子供は育たない。子供は家庭だけではなく、〈地域〉で育つ。公園で遊んでも、本屋さんに立ち寄っても、あるいは道を歩いていても、声をかけてくれる人がいること、これは移住者ばかりが住む新興地域では期待しづらいことだ。移住者の街というのは、いつかまたその地を移住する者が住んでいる街を意味する。つまり死者が存在しない街を意味する。これでは、〈地域〉という概念は成立しない。
8)壁式コンクリート造のマンションは買わないこと。低層式(5階以下程度)のマンションでは、壁の厚さで強度をもたせている壁式コンクリート造のマンションが多い。これを業者は、「柱と梁の出っ張りがないため、隅々まで使えます」と言ったりしながら販売しているが(最近では梁や柱のでない工法が工夫されて、壁式でなくても梁や柱は、室内にでないようになってきている)、このマンションは、逆にそれが命取り。間取りを仕切る壁自体がコンクリートのため、間取りの変更がきかない。10年ほど住めば、家族の構成も変わって、間取りを変えたいと思ったときに、融通がきかないのが壁式の最大の弱点。不況が続き、買い換えサイクルが長くなってきた今、家族構成の変化に追随できない壁式は敬遠した方がよい。この意味でも50戸以下の中規模マンション(比較的、壁式が多い)は買わない方がいい。
9)最近のマンションを買うなら、スラブ厚(床コンクリートの厚さ)が25センチ以上(20センチ以下はどれもこれもたいした違いはありません)、天井高も2メートル60以上、サッシの高さも2メートル以上といった高規格のものを買うことです。明らかに“違いがわかる”という感じです。それ以外の“違い”はどれもこれも同じです(内装の作りに気をとられてはいけません)。特に都心の再開発地の高層マンションはいやでも買うしかありません。子育ての終わった40代の夫婦には最適じゃないでしょうか。
10)内装は、自分で変更できるものと思えば、それほど気にすることはないと思いますが、そのマンションの格(設計の丁寧さ)を示すもので言えば、玄関周り、トイレ周り、巾木(室内の壁の最下部、床に接する所に張る、化粧用の横板)が着目点です。玄関周りが大きくとってあるマンション、トイレにタンク兼用ではなく、きちんと別個に手洗い洗面があるマンション、巾木がプラスティックなどの合成品ではなく、きちんとした木製(木目を見せる ― )になっているものは、全体的に設計が親切なマンションです。はやりのウッディフロアーなどは、アトピーなどの“病人”がいない限り、こだわる必要はありません。声は響くし、腰にも悪いし、ほこりは目立つし、どこがいいのでしょうか。いずれにしても、マンション購入は自分の努力ではどうにもならない1)〜9)の項目を重視して買うのが賢明です。内装の華々しさに目を奪われないようにしましょう。
2001/8/14(火)22:27 - 芦田宏直 - 209 hit(s)
『そして歌は誕生した』というNHKの、シリーズ化された歌番組があるが、今日の晩は、水原弘の「君こそわが命」が取り上げられるというので楽しみにしていた。やっぱり、水原弘の「君こそわが命」はいい。「あなたを本当は探してた … 」の「本当は」がいい。この「本当は」を歌えるのは水原弘しかいない。私の中学時代からの歌だが、中学生の時から、私はこの歌を聞くたびに泣いていた。今日も泣けて泣けて、家内はこの歌が聞こえてくると必ずタオルを私に渡すようになっている。
それに負けないくらいに良かったのが、森山良子の「さとうきび畑」(「君こそわが命」のあとは「さとうきび畑」だった)。「ざわわ、ざわわ … 」で有名な歌だが(歌としてはたいした歌ではないが)、歌中にあるフレーズ「夏の日差しの中で」の「中で」のナの音の息づかい(特に後半に出てくる「中で」のナの音)が天下一品。靖国問題で戦後問題が騒がれているが、この森山良子の「さとうきび畑」の「中で」のナの音は、かしましい議論にくさびを打ち込んだように鮮烈だった。
他の人にも紹介しようと放送終了直後NHKに電話をし、再放送の予定を聞こうと思ったが、「予定はありません。みなさんからの反響を聞いてから考えます。どんなところが良かったですか」と年輩の女性から逆に聞き返された。「水原弘の『君こそわが命』のフアンですが、森山良子の『さとうきび畑』にも感激しました。さとうきび畑の下に眠っている沖縄の人々のざわめきに思いを込めた森山良子さんの熱唱に打たれました。終戦記念日を前にいい企画でした。是非再放送してください」と言っておきました。みなさんも再放送を楽しみにしてください。
2001/8/15(水)05:58 - 芦田宏直 - 135 hit(s)
水原弘は、6年ぶりの第18回紅白歌合戦(昭和42年)に「君こそわが命」で復帰する。念願のステージに立ったとき、マイクのあるところにたどり着くまでにあと半歩足りないくらいに深々と頭を下げている。歌を歌うのを一瞬忘れるほどまでに頭を下げたときに何を思っていたのだろう。
「あなたを本当は探していた」という画期的なフレーズで始まる、この歌の「あなた」は、“紅白歌合戦”のことだったくらいに彼の紅白復帰への気持ちは並々ならぬものがあった。でもその紅白で水原は、驚くくらいに冷静に、そして忠実に、まるで歌を習い始めの歌手が習った通りに歌うように歌う。私は歌が始まったとたんに泣いていたがその期待を外すかのように水原は冷静に歌っていた。本当は泣いてもいいこういうところで泣けないところに、水原のデカダンの本質がある。ステージで(人前で)泣ける人は実は強い人なのだ。水原の“冷静”は、琴線を踏むようにきわどいもののように見えた。作詞の川内康範も作曲の若き猪俣公章も決して手放しで水原を讃えない。水原は極限にまで“弱い”人だったのだろう。
同じように、横山やすしも西川きよしが国会議員になってからは特に荒れていた。久米宏が現在の「ニュースステーション」の芸の基本を作ることになる日テレの「テレビスクランブル」(生放送)で、酒を飲んでめちゃくちゃになっていた横山やすしを思い出す(酒に酔った横山やすしとコンビを組んだおかげで、久米宏は生放送の意味を初めて学んだのである)。酒に酔ったまま生放送に出る横山やすしは、もうすでに芸人としては死んでいた。そのときの横山は、念願の紅白で冷静に歌う水原の陰影だ。たぶん、男の本質は、デカダンなのだ。冷静さや酒に酔ってしか弱さを見せることのできない男の悲しさに、合掌。
2001/8/17(金)04:49 - 芦田宏直 - 337 hit(s)
もうお盆休みも終わりだということで、久しぶりに、荻窪(上荻2丁目)の『本むら庵』に昼食のおそばを食べに行って来た(8月15日)。もう6,7年ほど来ていない。昔はいつ来ても満員ではやっていた。それもあってかいつのまにか店も駐車場もリニューアルされていて、ほぼ倍の大きさになっていた。従業員の数も10人を優に超えている。従業員の数も5年前の倍以上だろう。駐車場にも誘導員がいるのにはまいった。こんな大きな“そば屋”になるなんて。
売上を大きくするには、規模を大きくするか、価格を引き上げるか、どちらかだ。価格の引き上げには、限界がある。あるいは安くして売上を大きくするマクドナルドやユニクロ、吉野家のような戦略もある。ただしこれは多店展開の成熟点でのことだ(多店拡大化でもっとも恩恵を受けるたとえば広報費が一店あたりの売上比コストとして5%〜10%以下くらいにならないとこういった戦略はとれないだろう)。
結局、規模を大きくするしかないのである。規模を大きくするとコストも上がる。そうすると利益(利益の絶対額の大きさ)と利益率が問題になる。利益率が多少悪くなっても売上全体がのびれば、利益の絶対額は上がるということがあるが、はやっている割には青息吐息ということになる。糸はどんどんのびているがタコ自体はさして上昇しておらず、ひたすら全力疾走している自走のみが、タコの浮力を支えているようなものだ。かといって利益率に拘泥してしまうと、拡大した意味がなくなる。拡大の意味は社会的な貢献や影響力、ミッションとしての経営の精神であって、それはすべての経営者の夢にかかわっている。
ホンダと組んで超メジャーなF1で勝ち続けた「闘将」フランクウイリアムズでさえも、「夢は市販車を作ることだ」と言っていたことがある。フランクウイリアムズでさえそんなものかな、と思って当時聞いていたが、彼も〈拡大〉の問題に悩んでいたのだ。
あるいはBMWのチューニングメーカーで有名なアルピナは、バブル期も生産台数をむやみに延ばさなかった。アルピナ社社長のボーフェンジーペンは、そのとき、自分たちの作る車の味(エンジンチューニングやサスペンションチューニングの味)がわかる人たちが世界大であってもそんなに多いとは思えないと言っていた。二人とも、経営(経営の規模)とは何かをよく理解していたのである。
〈拡大〉には、たんに自社が扱う商品の品質(あるいは品質管理)の問題だけではなく、社会的な(社会的な変化に対する)洞察が必要になる。ここを見失うと過剰投資となって、後退できないまま、破滅してしまう。
『本むら庵』では、〈利益〉と〈利益率〉との関係はどうなっているのだろう。そう思いながら久しぶりの「せいろ」(『本むら庵』の代表作:普通で言う「もりそば」)を待っていた。昔はこの「せいろ」を7枚頼んでそれを一人で食べたことがあったが(隣の若いカップルに変な目で見られたことがあったが)、今日は3枚にしておいた。相変わらずぶつぶつと切れる細い、白い麺で、特徴のあるものだ。昔ほどのおいしさを感じなかったのが残念だった。私はここの「せいろ」よりは「田舎そば」(黒い、太い、堅い麺)の方が好きだったが、いつ来ても売り切れで、今回もやはり売り切れ。午前中に来ないとダメらしい(人気があるというよりも作る量が少ない)。いずれにしても、従業員が多くて、客席数が50以上もある“そば屋”というのはどこかおかしい。『本むら庵』の「せいろ」くらいなら、私の家の近くの『蘆花庵(ろかあん)』の「もりそば」の方がはるかにおいしいと思う。誰が見ても入る気の起こらない汚い、小さい“そば屋”だが、“そば屋”なんて、そんなものだろう。それでいい。
昨日のそういった“外食”にちょっとしたショックを受けていたので、今日(8月16日)は“食”に欲求不満がたまっていた。テレビを見ていると餃子を食べているシーンが一瞬目にとまり、急に食べたくなった。餃子といえば、“餃子の王将”だ(そんな店しか浮かばないのが寂しい)。私は京都出身だが、京都には『aa』(みんみん)という餃子の店があって、家族と一緒に四条大宮の『aa』(みんみん)で餃子を食べるのが楽しみだった(今から40年ほど前、私の小学生時代の話)。『aa』(みんみん)の餃子は皮が薄くてしかも餃子同士がこんがりこげたままぱりぱりになってくっついて出てくるのが特徴で、それをはぐようにほぐして食べるのが楽しみだった。
『aa』(みんみん)の社長は、女社長(ご主人は画家だった)で、京都伏見(ふしみ)に山をひと山買われて、そこ全体を庭にして自宅を構えるという豪快な方だった。私の父は、彼女と仕事上の知り合いで(彼女の秘書でご主人の書生をされていた中井さんの書かれた絵が東京の私の家の玄関に今でも飾ってある。伏見(ふしみ)の山で新居祝いを兼ねた立食パーティがあって、そのときに社長から頂いたものだ。中井さんは小学生の私に渾身の力を込めて描いた油絵を渡すのをいやがっていたのをよく覚えている)、いつも、この金を出してもおいしい餃子をただで食べていた(子供心に“コネ”というのはこんなに快適なことか、と心得てしまった。というより、父はお金を出そうとするが店は受け取らない、そのやりとりが何とも言えなかった)。
当時、京都では、餃子と言えば『aa』(みんみん)の天下だったが(四条河原町店を含め何十店舗もあったが)、その後10年くらいのうちに『王将』が関西の餃子界を席巻していったらしい(私が東京に出ていってからだ)。京都では、京都産業大学(笑福亭つるべやあのねのねの清水邦明の出身大学)の学生が金がないときには『王将』で食事をし、皿洗いを数時間やればその食事代をただにしてくれるといった伝説(本当の話だが)と共に『王将』が関西の餃子を支配していった。『王将』の餃子の味は明らかに『aa』(みんみん)の餃子の味を意識して作られていた。餃子は皮の厚さや味がポイントのひとつだがそれなどは『aa』(みんみん)の方がはるかに上だと思う。『aa』(みんみん)は、今どうなっているのだろう。YAHOOで検索しても出てこない。寂しい限りだ。社長さんや中井さんは今何をしているのだろう。中井さん、今でもあなたの絵は大事にしていますよ。知っている人がいれば教えてください。
そんなこともあって、『王将』は私にとって『aa』(みんみん)の生まれ変わりのようなものだ。早速、「王将」「餃子」「世田谷区」などのタームでYahooを検索すると、明大前にあるのを発見(『王将』のホームページは非常に洗練されている。というか店の雰囲気よりもこのホームページの方がはるかにモダンで、イメージに合っていない)。場所をプリントアウトして、お盆休みでないことを電話で確認。夕食は、明大前『王将』に決まった。
東京の『王将』は、関西のように座敷がない。関西では『王将』もファミリーレストランのひとつになるが、東京では『吉野家』同様一人暮らしのビンボーな男(たち)の店なのである。明大前も予想したとおり、カウンターだけだった。ここのメニューには、私の好きなレバーの唐揚げもない。ショックだった。『王将』の楽しみ方のひとつに、何とも言えない『王将』オリジナルの塩コショーがある。これをレバーの唐揚げや鶏の唐揚げにかけると、最高の味になる。絶妙の塩とコショーのブレンドなのだ。結局、それを楽しむために餃子と共に鶏の唐揚げを頼んだが、カウンターで食べるため落ち着かない。隣の家内も丸椅子のため(足が短いということもあるが)、足が届かないこともあって落ち着かない。そもそも夫婦でわざわざ来る感じの店ではないのだ。
それでも『王将』の餃子はまあまあおいしかった。少なくとも、『本むら庵』の5年前の「せいろ」よりも、餃子の40年前の味(餃子原体験の味)を思い起こさせるのには充分だった。しかしそれでも食の原体験というのもいい加減なものだ。慣れてしまうと家内のみそ汁と母親のみそ汁との区別が付かなくなってくる。身体も変化しているのである。あれだけ毎日食べていたインスタントラーメンも今ではお腹を壊すことなしに食べることができない。年をとると解毒作用が効かなくなっているのである。そうやって味覚にも変化が生じている。食通が味覚の“成長”と呼んでいるもののほとんどは、解毒作用の“退化”を意味しているにすぎない。そんないい加減な味覚に“設備投資”するというのも大変なことだ。『本むら庵』は、鉄筋コンクリートで店を作り直していたが、この建物の償却は何年くらいで見ているのだろう。食の名店は一代限りという。味覚を“伝える”ことはたとえ親子であっても難しいからだ。そういえば、私の近辺、烏山界隈を代表する名店『広味坊』も親方が引退してから(病気をしてから)味が明らかに落ちてしまった。この店は親方が引退する時期と店を拡張した時期とがほとんど同じ時期だった。難しい時期の〈拡大〉だったわけだ。
さて、明大前までわざわざ電車に乗ってきたのだからと、持ち帰りで5人前(家族は3人だが)の『王将』の餃子を買って帰ってきた。金曜日の夕食は自宅でゆっくりと餃子を食べよう。ぱりぱりの焦げ目をつけるために、家内に新しいフライパンを買って来させることにしている。私の貧相なお盆休みもそろそろ終わりに近づきつつある。
2001/8/18(土)00:57 - 芦田宏直 - 177 hit(s)
我が家の今日(8月17日)の夕食は昨日予告したとおり、餃子(『王将』の餃子も持ち帰りもの)であったが、問題は焼き方。そのために、これも昨日予告したとおり、フライパン(径28センチの広いもの)を「安田金物」で2個買って(フライパン1400円×2+980円のふた:環八ドンキホーテには28センチ径がなかった。「安田金物」はいつも何を買っても安い。うり二つの兄弟が烏山駅の北口と南口で店を出している)、万全の体制。問題は焼き方だ。
ところが、神が、あるいは仏が導いたかのように夕方のニュースで「餃子の焼き方」特集があり、飛びついた。あの焼き面についてくるぱりぱりのこげはしの作り方を(恥ずかしながら)初めて知った。もうそろそろ水分がなくなったと思えるこげ始めの段階で、小麦粉を少量の水で溶かして、それに醤油を少し足したものを餃子の周辺にかけるらしい。それにフライパンから取り出す少し前に、ラー油をほんの少し。これで、こげ目とぱりぱりのこげはしのついた餃子のできあがり(我が家では今日以降、このこげ目を“パリこげ”と言うようになった)。実際のできあがりは、もう少し小麦粉を多めにしたほうが、“パリこげ”が大きくなってうまくいったかな、とは思ったがこれまでの芦田家の餃子とは思えないほどの仕上がり。
この餃子をじっくり味わうために、本日の夕食は、+納豆だけ。餃子には納豆がいい。「納豆以外には一切出してはいけない」と戒厳令をしいて、純粋餃子体制。幸せな夕食だった。これで、我が家の夕食メニューが一品増えたことになる。毎回、家内の会社からの帰宅時には明大前で一度電車から降りる、という手間が増えることになるが、夕食作りの手間が省ける分、プラマイゼロというところだろう。“パリこげ”、ぜひ、一度お試しあれ(ご存じだったかもしれませんが)。
2001/8/18(土)10:35 - 杉本 - 140 hit(s)
本村庵は、新宿に事務所を構えていた「安田与三郎」さんの設計だったと記憶しています。安田氏は、早稲田大学の明石研究室の大番頭さんをしていた方で、すごくガラッパチの面白い方でした。
酒豪で、酒を飲んでは飲み屋の設計をとっていた方で、私も、ずいぶんかわいがっていただきました。
彼の自宅は、小田急線の百合丘にあり、純日本風の豪邸です。(ここだけの話、決して力作ではなく、「建築家たる者、自邸かまわず」を地で行ったような住宅でした。)荻窪、西荻窪界隈には、彼の設計のお店が結構あります。ケーキの老舗「こけし屋」もそうでした。
しかし、安田ワールドの原点は、西荻窪の和風スナック「たみ」でしょうか。西荻窪の文化人(私自身この言葉はあまり好きではありませんが)の集まり「たみの会」の総本家で、この仲間に、本村庵やこけし屋があります。
わたしも、この末席にいたのですが、文化人を気取るのが嫌になって、抜け出ました。
本村庵ですが、私の定番は、「せいろ」に「そばがき」「たまごとじ」で、さすがに、せいろ7枚は未知の世界です。さぞかし、周囲の常連さんも、驚いたと思います。しかし、あの店の女店員は良く教育されていると感心します。
一品の注文を聞くと、すかさず、「それだけですか」と声をかける。マクドナルドの、「ポテトはいかがですか?」の前身か?ともおもえます。お客が、「足りませんか」と聞くと、少しもすまなそうな顔もせず、「普通の半分ですから」ついでにたたみこむように、「皆さん3つは食べられます」ときます。お客さんは、大抵2つから3つは、注文せざるを得なくなります。バブル絶頂期は、「せいろ」に「そばがき」「たまごとじ」と勢い良く注文するのが、粋だと思っていましたから、そんな客を横目でにらみながら、大きな声で「せいろ」に「そばがき」「たまごとじ」と・・・・。やっぱり、はめられたのかな??
2001/8/20(月)00:11 - 芦田宏直 - 151 hit(s)
そうですね。建築家の「文化人」気取りは許せないですね。ちょうど「美容師」が“ヘアデザイナー”を気取ったり、“芸術家”気取りしているのと同じくらいくだらないですよね。特にポストモダン以降の建築はすべてダメになったような気がします。都庁でも恵比寿でもビッグサイト(湾岸)や幕張でも、結局出来損ないの機能主義の域を出ていない。特にビルとビル(あるいはビルと人)を繋ぐ通路の設計がダメです。歩いていても楽しくない。“歩く”ことだけを強要されているような気がします。もともと歩くというのはそういったことではないでしょう。立ち寄ったり、まなざしの誘惑があったりするのが歩くことです。それがない。そしてそれ以前に上記の場所は風害で歩くことすらできない。こんな不快な〈場所〉はありません。
建築で一番難しいのは、たぶん、玄関の設計です。低層であればあるほどそうです。車のデザイナーであれば、「エンジンさえなければ」と言うところを、建築家は「玄関さえなければ」と言うような気がします。折り込みチラシの一軒家の間取り図を見ていても、すべて玄関の設計で破綻しています。玄関という建物の〈外部〉(内部と外部との接線)を設計するというのは、建築にとって自己矛盾的なことですから、難しいことなのでしょう。結局、〈玄関〉を根元的に設計できないことが、超高層の〈通路〉を作れないことに繋がっているような気がします。
昨年、『反オブジェクト ― 建築を溶かし、砕く』(筑摩書房)という隈 研吾の本が出ました。彼がぶち当たっているのも、結局のところ、〈玄関〉や〈通路〉の問題なのです。彼はこの問題を関係性(建物の自己中心的、内閉的なオブジェクト主義からの脱却)という観点から解こうとしていますが、全くナンセンスな、旧式の議論(モダン以前、ヘーゲル主義以前の議論)です。建築はオブジェクトとして屹立するからこそ、そして、その中に玄関や通路の問題を矛盾対立的に形成するからこそ建築なのです。建築家の“くせに”思想を気取ってはいけません。
2001/8/19(日)23:28 - 芦田宏直 - 302 hit(s)
介護と育児は、奇妙なものだ。いずれも(老者も幼児も)他者のヘルプなしには生きることができない。老者はひたすら衰退(と死)に向かって、幼児はひたすら成長にむかってヘルプされる。幼児のヘルプがまだ楽に見えるのは、どんどん手がかからなくなっていくからだ。老者の介護を避けたい思うのは、それに反して、どんどん手がかかるようになると思われているからだ。しかし、考えてみるとそうでもない。介護はひとつの消尽に向かっているが、幼児の成長には、自立するための様々な“病気(極端な場合には犯罪や親殺しなどの)”が待ちかまえている。いわば、手がかかることが社会的に増大していると考えても良い。介護の場合は、地域、家庭、親子、夫婦というようにヘルプの輪が縮小していくが(もっとも最近は、この“縮小”さえもままならなくて、介護ビジネスやホスピスのように〈死〉が社会化してしまいつつあるが)、子供の成長は、(手がかからない分)社会化する。これもまた別種の手がかかることの増大だ。死ぬことも生きることも手がかかることだ。自分で生まれたわけでも自分で死ねるわけでもない(老衰とは自分で死ねなくなっていくことだ)偶然の重さが、手がかかることの意味なのだろう。
そんなことを思いながら、日テレの「24時間テレビ」(+NHKスペシャル「命のことば」+深夜の「プロジェクトX」再放送)を見ていたが、それにしても研ナオコは、なぜ80キロも走ったのだろう。走る前から「幸せだ」と言っていたが、「幸せな」人が睡眠もとらずに80キロを走るなんて、どこかおかしい。ご主人が浮気でもしたのだろうか。
2001/8/28(火)00:46 - 芦田宏直 - 238 hit(s)
昨日のBS放送、デトロイト・マドンナコンサート(国際ライブ)見ましたか(マドンナについては、http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/8558/music/madonna/Madonna.htmlに詳しい)。いやー、なんというかひどいものでした(最後の一曲、MUSICくらいでしょう、なんとか聞けたのは)。あの年で背中を見せるなんて。吉永小百合がいい年してスイミングクラブで身体エクササイズし、シャープの液晶テレビのCMでは不自然なライティングで年齢をごまかしているように(岩下志摩のライティングなんてもっとひどいですが)、マドンナも吉永並みでした。
私が、マドンナをバカにしてはいけないと思ったのは、IN BED WITH MADONNNAという映画(コンサートツアーのドキュメントもの)の中の最終章(LDのCHAPTER8)、フランスコンサートでのKEEP IT TOGETHER(マドンナの隠れた代表作)を聞いたとき=見たときです。この映画はアレックケシシアンという30にも満たない若手で無名の監督をマドンナ(たち)が抜擢して作った映画で、しかしそのカメラワークといったら、もう最高! 特に22台のフィルムカメラを持ち込んで縦横無尽にステージを映像に取り込んだその腕は大したものでした(もっともお金を使うユーミンのコンサートでさえ、22台ももち込みはしません。それに持ち込んだところでせいぜいビデオカメラでしょう)。私は、一晩中、CHAPTER8をリピートして聞き(見)続けていました(今から約10年前)。たぶんコンサート映像でこのフランスコンサートKEEP IT TOGETHERは、世界で1,2位を争う出来でしょう。マドンナの踊りの特徴は軸がずれない、ぶれない“男らしさ”にありますが、このKEEP IT TOGETHERでは、わざと腕も曲げたり、腰を曲げたり、足を曲げたり、全体に中腰になったマドンナの表情や姿勢(たぶんKEEP IT TOGETHERの主題である家族の愛が“中腰の”愛であることと相関的なのでしょう)をケシシアンが見事に描ききっていました。中腰でも軸がぶれないマドンナの踊りも大したものでした。
もうひとつマドンナのLDで、忘れられないのは、「マドンナ・ザ・ヴァージン・ツアー」です。これは最初期のコンサートLDですが(なぜかマドンナのコンサートLDはすべてもっています)、はち切れそうなマドンナのカラダと踊りが凝縮しています。CHAPTER4のINTO THE GROOVEなんて、私は特に好きです。この「マドンナ・ザ・ヴァージン・ツアー」を見るために当時75万円もした37inchテレビ(M-370、ビクター製だった)を買い込んで、一晩中、見続けて書いた論文が「表現と意味」(J・デリダ論:『書物の時間』所収)だった。
IN BED WITH MADONNNA(1991)、マドンナ・ザ・ヴァージン・ツアー(1985)、この2枚のアルバムが決定的なマドンナです。今日のデトロイト・マドンナコンサートは見なかったことにしましょう。
それにしても女性が年を重ねるというのは大変なことだ。日本の芸人で上手に年をとっている人と言えば、いしだあゆみ、吉田日出子、熊谷真実、高橋真梨子くらいのものでしょう。あとはみんなひどい。吉永小百合がカラダを鍛えても17,8の女子学生が何もしないで横に立っているだけで負けてしまうのに。何を勘違いしているのだろう、この女優は。
仲代達也、高倉健、三国連太郎などの大根役者ぶりも見てられないが、吉永小百合の年の取り方も許せない。朝、森本タケロウの「スタンバイ」(TBSラジオで6:30〜8:30に放送中)に出てくる「エンドウ」さんとか、同じくTBSラジオで22:00から放映されている「バトルトーク」に出演している「コジマケイコ」さんなんていう女性たちは、結構いい年の取り方をしているような気がする(話し方や話の聞き方に何とも言えない魅力がある)。もちろん「コジマケイコ」は「エンドウヤスコ」さんより全然若いと思うが、今日ラジオを聞いていてあごひげをつけたご主人がいることを初めて知ってショックだった。
2001/9/3(月)00:20 - 芦田宏直 - 287 hit(s)
〈連絡〉とは何か。今日、私は日曜日で自宅にいたが、新カリキュラムパンフの第一次校正が印刷所から今日の午前中にテラハウスに届くというので、「今日、講座に出ている先生にすぐに(今日中に)校正してもらえるような体制をとってくれ」と受付担当に連絡をしておいた。夕方、どうなったかを確認の電話をしたら、「M先生は家で校正してきますと言って持ち帰りました」との受付の返答。ここで、私はカチッと切れた。
通常、連絡による依頼というものは、何も逆連絡(連絡をした者への連絡)がない場合には、(連絡した者は)頼んだとおりことが進んでいると思っている。そうでない事態が生じるとき(生じそうになっているとき)には、どうしたらよいのかを打診する逆連絡があるはずだ。「今日日曜日にはすべての先生が来られているわけではないので、明日(月曜日)の他の先生と一緒に校正ができればと思って、(芦田に)連絡しませんでした」ということらしい。こういった“判断”は、もしそれが本当だとしたら私(芦田)がそう思っていなければならない。「何も今日中にやる必要はないではないか」という“判断”がある(あった)とすれば、私が「今日中に」と頼んだ段階で、その命を受けなければいいのである(受けなければいいかサジェスションすればいいのである)。簡単な仕事を簡単にできない人ほど、難しい判断をしたがる。あるいは難しい判断(上長判断)を(部下である)自分がしているのをわかっていない。と、そう言ったら、その受付は「スミマセンでした」と言う。
そこで、私はその受付にそうであれば、M先生の家にその校正原稿をあなたが今日中に取りに行ってくるか、明日の朝9:00にテラハウスにもってくるようにしてもらいなさい(M先生は予定では明日の講座は19:00からだった)と言った。「そんなことできません」とその受付。「朝9:00にテラハウスにもってくるようにお願いはします」と受付。「お願いなんて、何も言っていないのと同じです」と私。「それ以上はできません」(受付)。
「それならあなたは何を反省したの?」(私)。「 … 」(受付)。何をすればいいのか答えが出ていないような反省は認めるべきではない。サラリーマン(サラリーウーマン)のなかには反省の好きな人が多い。すぐに「スミマセンでした」と反省する。しかし“間違い”はいつもその人間の根本的な傾向から生じている。そんな簡単に“反省(Reflection)”できるわけがない。偶然な間違いなんてほとんどないのである。「スミマセン」などでスマシてはいけないのである。だって、スマナイ(済まない)と言っているのだから。
〈連絡〉とは、連絡が済んだ段階で、もうその仕事を終えられる状態のことを言う。したがって、連絡を受けた者は、仕事(=連絡)が終わっているかどうかの仕事が生じたことになる。たとえば、電話の取り次ぎで連絡対象者が不在の時、「伝言しておきます」と言って、かりにその対象者が「伝言」を聞き逃した、見逃した場合、責任は、対象者にあるのではなくて、連絡を取り次いだ者の方にある。連絡をさせることが「伝言」の意味なのであって、伝えることが「伝言」の意味なのではない。時々気の利いた受付がいて(会社の方針もあるだろうが)、「伝言しておきます。ワタクシ、鈴木が承りました」と自分の名前を名乗る場合があるが、これは、連絡させる責任(連絡する責任ではなくて)は私にあります、と宣言しているのである。これは気持ちがいいし、信頼感が自然に生じる。時々、そうは言っても連絡がない場合があるが、そんなときは、私は「田中さん」に連絡したかった場合でも、その「鈴木さん」に電話をするようにしている。「電話がかかってこなかったんだけれども、どうなっているのかな」と(半分イヤミですが)。こんなときに受付が、直接田中にかければいいじゃないか、と態度が変わる場合は、自分が名乗った意味をわかっていない受付である。私は、鈴木さんを知ったことによって、田中さんと連絡し終えた気になっているのであって、鈴木さんは自ら名乗ることによって、仲介者を超えたことになる。これが連絡(を受けること)の意味である。
〈連絡〉の問題は、もう一つある。連絡内容が正確に伝わらないという場合である。なぜ、正確に伝わらないのか。それはコトバそれ自体しか聞いていないからである。コトバそれ自体しか聞いていないと伝えることは記憶の問題になる。記憶など誰だって不確かなものだ。連絡の上手な人は、コトバのひとつひとつなど聞いてはいない。相手が何を言おうとしているのかを(コトバを通して)聞いているのである。コトバをイメージ(=コトバの意味)に仕上げてしまえば忘れることなどない。従って、相手の言うことを聞く場合もイメージになるまで聞かなければならない。聞き直すこと、質問が必要な場合もある。これはコトバを聞き落としたからではなく、イメージにならない(意味がわからない)からである。だから黙って聞き流して「わかりました」という受付には用心した方がいい。そのときがMAXの臨場感であって、あとは時間が経つほどに忘れていって、「スミマセン」ですますことになる。相手の要件をコトバとして保持するのではなくて、イメージ(=コトバの意味)として保持しておけば、後は、自分のコトバで自分の意志のように伝えることができるから、“連絡性能”は高くなる。
たとえば、先の私の場合だと、今のテラハウスの場合には、パンフレットが「まだできないの?」と一日に何度もお客様に問われる。一日でも早くパンフレットを作らなくてはならない。そして今日のパンフレット校正原稿の件。校正を急ぐ、芦田の要件。これですべてである。「急がなくては」。これが私のコトバの意味(イメージ)のすべてである。ところが、連絡のできない人は、そういった受付業務のイメージ、パンフレット作成のイメージ、連絡のコトバのイメージをすべて捨象して、まるで翻訳機のように、コトバをわざわざバラバラの断片にしてから、ジグソーのように構成しようとする。これでは、よほど記憶力の良いひとでないと仕事ができなくなる。破綻しかない。
〈連絡〉の問題の最後(三つ目の問題)。ここまでは、連絡は受ける人の問題であったが、連絡をする人(連絡を他人にさせる人)の問題もある。というか、人にものを頼むということは、仕事を任せることではなくて、仕事をもっと難しくすることと同じことだということだ。自分の仕事に他人が介在するのだから、仕事が楽になる一方で(人が手伝ってくれるという一方で)、他人の仕事の仕方やその進捗を管理しなければならない。頼んでおいたのに「してくれていない」。約束したのに「守らなかった」。こういった苦情を“中間管理職”からよく聞くが、それならば、頼まなければよかったのである。できもしないことを頼んだり、約束させたりする自分の問題だということをわかっていなかったり、この部下に頼めば、どこくらいのノイズが発生するかを計算しないで仕事を任せる者のことを“中間管理職”という。他人(部下や業者)にものを頼むというのは、仕事を他人から引き受けるよりもはるかに高度で難しい問題なのである。
2001/9/4(火)00:06 - 芦田宏直 - 556 hit(s)
失業者問題は、なぜ深刻化するのか。それは、特殊法人に勤めている“労働者”が一人も失業しないからである。あるいは官庁の“役人”が一人も失業しないからである。“構造改革”の本質は、まっさきに特殊法人や官庁のリストラやリエンジによる失業者“問題”であったり、資本注入した銀行指導層の“失業”問題でなければならないのに、なぜ、一般企業の失業者問題が前面化するのだろう?
小泉の言う「いたみ」は、既得権益にしがみついている特殊法人や官庁の身を切る「いたみ」でなければならないのに、なぜ、一般企業の失業者問題が真っ先に前面化するのだろう? 5%の失業者の中に特殊法人や官庁の“労働者”はたぶん一人も含まれていないだろう。ふざけた話だ。いったい誰のための構造改革なのだ。一般企業の労働者が5%失業者しても世の中は、少しも構造改革されないが(暗くなるばかりだが)、特殊法人や官庁の“労働者”が5%の中に少し含まれただけで、世の中は一挙に変わる。同時に「失業者問題」も解消する。特殊法人や官庁の“労働者”が失業するということは、規制緩和に直結し、それ自体新しい雇用創出だからだ。現在の失業者は構造改革の結果や前兆ではなくて、それ自体、構造改革が進んでいないこと、進まないこと(構造改革への絶望)の結果にすぎない。連合や民主党が声高にセーフティネット論を唱うのは、筋違いの議論なのである。たしかにバブルを引きずった放漫経営の企業は倒産すべきだろう。しかし放漫経営の最大の元凶は、特殊法人や官庁の“経営”であって、民間経営は「総理の決断」を待たなくても盛衰の波に洗われる。従って政策的な失業問題は、特殊法人や官庁を解体させることの中にしかない。ここにしか政策的な「いたみ」はあり得ないのである。
最大の“失業保険”は、特殊法人の“労働者”や官庁の“役人”が失業することである。構造改革による失業者の主人公は、まだ誰一人として登場していない。
2001/9/5(水)14:02 - 宇佐美登 - 268 hit(s)
すべての特殊法人は独自の法律に基づいて存在しているのだから、役所が反対しても国会(立法府)が法律をなくせば消えてなくなる。「そんな簡単なものじゃない」という人がいるがそんなものだ。
大体、儲かる事業だったら民間がやればいいし、儲からないものは政府がやればいい(もちろん国民が了解したものだけだが)。特殊法人という中途半端な存在が予算をわかりにくくさせている。
2001/9/17(月)19:15 - スピノザコロッケ - 198 hit(s)
さて、芦田氏の書き込みに重大な事実誤認があります。
いままでも山のように事実誤認はありましたが、もはや看過できないレベルに達しています。
「労働者」という用語は公務員には適用されません。つまり公務員は「労働者」ではないのです。こんなことは世界の常識です。英語で公務員のことをなんと呼ぶか、改めて考えれば分かることです。
「労働者」でないのだから、失業もしませんし、基本的労働権も認められていません。全体的に研鑚が足りないようでね。
さて、質問があります。
売上の90%以上を公共投資に頼っている建設会社の社員は「公務員」でしょうか。
通常経常予算の半分以上を公的助成によって賄っている高校以下の私立高校の教職員は?
この設問に解答できれば、わたくしがなぜ上記のような指摘をしたかがわかるはずです。
2001/9/17(月)21:43 - 芦田宏直 - 216 hit(s)
バカなことを言ってはいけません。私は、あなたのような反論を予想して、労働者という言葉を“”で囲んで使っています。
二つ目の質問。もしあなたような言い方や考え方で、その立場に立って答えるとすれば、すべての公務員は労働者であり、すべての労働者は公務員です。もともと、あなたのような公務員と労働者と截然と分ける認識自体が“構造改革”を難しくしているのです。〈民営化〉とは、(あなたのようなサヨク崩れの認識を茶化す言い方で言えば)すべての公務員が労働者になることです。
2001/9/17(月)22:43 - エルネストメンチカツ - 186 hit(s)
カントはその著書「実践理性批判」のなかで、霊魂の不滅や神への信仰などを前提としないと公共善の議論は成り立たないと述べています。
またスペインの偉大な哲学者オルテガは「大衆は、大衆でないものとの共存を望まない」といっています。
公務員の公共性と市場原理との関係はあなたが言うほど単純なものではありません。つまり公務員がいるからこそ、その存在自体が社会秩序(勤労への意欲やカーストアップへの欲望)を生み出しているのです。
自由主義経済体制とはそういうものです。マルクスの言う「ブルジョア階級の委員会」がなければ、市場原理が機能するわけはありません。
そもそも日本の失業率をマスコミからの報道を鵜呑みにして「5%」なぞとしゃあしゃあとのたまっていること自体犯罪的です。日本の失業率野がどのような基礎計算に基づいて算出されているのか、貴殿に明日までのレポートを課します。
2001/9/18(火)00:18 - 芦田宏直 - 329 hit(s)
とんまなことを言ってはいけません。日本の「公共性」は、田中角栄や族議員の存在によってかろうじて保たれてきました。都市中心の市場主義的な動きに歯止めをかけてきたのは、自民党そのものです。それに比べれば、旧社会党や共産党といったあなたの属する左翼政党の方がはるかに反動的な公共性を訴え続けてきたわけです。あなたの政党がかつて兄弟党として尊敬したソ連や中国の公共主義政策は、地方を貧困の極地にまで追い込みました。これが、あなたがマルクスまでも引用して言う公共性と相補的な市場原理の実体です。「マルクスの言う「ブルジョア階級の委員会」がなければ、市場原理が機能するわけはありません」。これは要するにみんな公務員になりたがってるんだ、という(あなたの、あなたたちの)官僚主義を意味しているわけです。それを実践したのが社会主義であったという歴史の経験を今なお左翼党員であるあなたはよくよく学ぶべきです。それに比べれば、自民党の方がはるかに地方を重視したし、民主主義的(あるいはあなたをエキサイトさせるとすれば真に“社会主義的”)だったわけです。そのことを考えることなしに、官僚の公共性や市場主義と相補的な官僚制を議論してはいけません。まともに読んだこともないカント、オルテガ、マルクスを孫引きのように引用するあなたの議論に細かくはいるのは、ここでは留保しておきましょう。すべて間違っているからです。
ついでに言えば(貿易センタービルが破壊されたついでにいえば)、田中角栄は、立花隆的(=官僚的な)追求によって、駆逐されたのではありません。むしろ竹下登のクーデータによって崩壊したのです。それは田中派の権力の頂点において生じたのであって、田中の没落の果ての出来事ではなかったのです。どんな権力もそれが強権であればあるほど、〈外部〉から崩壊するのではなくて〈内部〉から崩壊します。それは、戦略ミサイル構想(ポスト米ソ対立後もはや存在しない外部の敵と戦うこと)にうつつを抜かしていたブッシュが、国内線の飛行機によって、権力的な危機を迎えたというのと似ています。外部を駆逐するということは、内部を敵に回すということと同じことだからです。もともと強さとは、外部の力によっては壊れないということですから、当然のことです(ビンラディンも内部の裏切りなしには崩壊しないでしょう。組織とはそういうものです)。
もともと、田中派は自民党の派閥の中で、一番左に位置していました(あなたに近い、観念的な左としては三木派がありましたが)。お金と票で動いていたという意味でです。そうではない小泉や中曽根の方がはるかに反動的であることは、この間の靖国騒動ではっきり浮き彫りにされました。何度も言いますが、ゼネコンが田中派と結びついて、半分公務員のような働きをしたのは、かれらが、民主的であったからであって、その逆ではありません。
しかし、果たして公共性と民主制は同じものでしょうか。あなたの通俗的な〈公共性〉論からははるかに遠いところに来ました。今日はここまでにしましょう。
2001/9/10(月)00:16 - 芦田宏直 - 321 hit(s)
テラハウスカリキュラムは、とりあえず完成して、今はパンフレット作成のど真ん中。土日をつぶしてしまった。土曜の夜中の「1:40」に私の自宅に表紙デザインを送ってくるなんて、なかなか“国際的な”仕事の仕方だ。今回の業者は、制作部署が石川県にあるAVDという会社。「今回の」と書いたが、私は、業者の決定については、毎回入札をやって、無条件に安いほうにする。金額がすべてだ。当たり前のことだが、これがなかなかつらい。一度業者と仕事をすると慣れや任せることのできる安心感が生まれてきて、“離れがたい”気持ちが前面化する。そうなるとコストは絶対にさがらない。こちらが手を抜いた分コストはさがらないのは当然のこと。今回の業者は、前回より100万円以上安い見積もりを入れてきた。30%以上コストダウンだ。その分、(1)B5版からA4版への拡大(文字が一回り大きくなり読みやすくなった) (2)カラーページ(講座受講のチャート図ページ)の2倍増強 (3)講師紹介、用語説明ページの新設などかつてないパンフレットを計画できた。A4版110ページを超える大作パンフである(自画自賛?!)。テラハウスパンフにとっては画期的なものだ。
私はコストダウンを基本的には〈拡大〉のためにしかしない。パンフレットなんて何度作っても不満ばかりが残る。テラハウスを十全に伝えることができているか、いかにして、それを見た人が電話をかけて問い合わせなくても、“わかる”パンフにするか、すぐにでも“学びたい”と思ってもらえるパンフにするか、そう考えると予算的にもいつも限界がある。その限界を超えることが、制作費を少しでも安くすることの意味である。よいパンフレットになって、読者の心をつかむことことこそが、“利益”の本当の源泉だからだ。コストダウンそのものに、目的などあるはずがない(日産のカルロスゴーンは、まだなおヒット作の車、魅力的な車を出していない。上半期ヒット車上位10車のうち日産の車は一台しかない。ヒット作のないコストダウンと経常利益なんて、何の意味もない)。
今回の業者の経験は、貴重なものだった。石川県にあったため、ページデザインがすべてJPG、PDFファイルで私のOFFICEの、あるいは自宅のパソコンに直送されてきた。 間髪おかずに、私がそのデザインを批評する。数時間後にそれに応えたデザインがまた送られてくる。これを5、6日間で数十回と繰り返して、デザインが完成に近づいていく。「申し訳ありませんが、1時間ほど会社を留守にいたします。ご都合のよろしいとき、いつでもご連絡してください」なんてメールのやりとりを繰り返し(たぶん、この「一時間」は食事のための「一時間」である)、ほとんどデスクにはりつきながら、秒刻みの制作と評価のやりとりを続けたのである。毎回、テラハウスのパンフレットに関わった印刷所は、赤字を出したり、尿から血が出たり、退職者が出たりして、テラハウス悲劇が生じるが、今回の印刷所はどうなるのだろうか。私にとっては、この経験は貴重で斬新なものだった。
今回の場合は、表紙デザインが一番手こずった。最初のうちは60点すれすれのデザインだったが、最終的には80点以上になったのではないか(このパンフレットは、22日にできあがります。今しばらくお待ち下さい)。
従来であれば、営業が介在して、制作部のプリントアウトしたものを一日遅れくらいでクライアントの手元にもってきて、その批評を(営業が)聞き、その意見をまた持ち帰り、再度作り直すということを繰り返す。場合によっては、制作部とは別にデザイナーが介在する場合はもっと複雑なことになる。〈デザイナー〉という人種は、なかなか人のいうことを聞かない。これまでの私の経験でも、人(私)がデザイン批評をし始めると、デザイナーの顔色が見る見るうちに変わっていくということが何度もあった。今度はこちらが、デザイナーの機嫌を損なわないように話さなくてはならない。クライアントであるのに気を遣わなくてはならない、そんなことも数多くあった。こういった関係では、デザイン検討を納得がいくまで繰り返すというのは不可能だ。そもそも時間がない。
制作(オペレーティング)、デザイナー、営業。こういった分業体制は、そもそも、アナログ時代の体制だ。基本的に、頭(デザイナー)と手足(制作)が分離している。アナログの制約の本質は、INPUTとOUTPUTとのあいだに時間が介在するということだ。時間が、考えることと作ることとを引き裂く。
たとえば、デザインの介在しない文章の世界(情報量がそれほど多くない文字データの世界)では、もはやデジタル化は充分に成熟しており、〈頭〉と〈手足〉が分離していることはない。人々はノートにアイデアをまとめてからワープロに向かうということをもはやしない。考えながら書き、書きながら考えるということを自然に行えるところまで来ている。もはやワープロは書く道具ではなく、考える道具である。書くことと考えることが分離していたのは、そこに紙が介在していたからであるが、完全デジタル化が達成されると(書斎やOFFICEからノートがなくなると)、考えることと書くことはほとんど同じことになる ― この事態を私は今から六年前に「ハイパーテキスト論」で展開したが、そのモチーフは、当時の(今でも勢力のある)、「パソコンがいくら進んでも、結局それを使うのは人間だ」という不毛な議論にピリオドを打ちたかったからである。デジタル化の本質は、表現(OUTPUT)と思考(INPUT)との間に時間差が生じないということだ。
今回のパンフ作りでも、私はjpgファイル、pdfファイルによって直接制作担当とやりとりをすることができた。制作担当とどういった会話が下されようと、あるいは“彼”のデザインの、あるいはオペレーターとしての才能がどんなものであれ、ほとんど時間差がなくOUTPUT(=作品)が生じるので、自分が考えたかのように制作過程を疑似化できる。制作過程と評価の過程とが重なっているのである。
デザインの世界では、デジタル化(DTP化)によってオペレータがデザインをも兼ねるようになり、デザインの質が低くなった、その分、ますます芸大系のデザイナー(アナログデザイナー)の需要が高まりつつあるという意見も強いが、それは全くの嘘だ。もしそういったことがあるとすれば、それはデジタル化がクライアントに直接に結びついていないことから起こる現象であって、まだデジタル化が不全のために起こっている現象にすぎない。つまり、デジタル化の極点は、単に制作過程の全過程がデジタル化されることではなくて、クライアントに(〈デザイナー〉や〈営業〉の手や頭を介さずに)直接、瞬時に作品提示を行えることにある。クライアント(評価の過程や消費の過程)に結びつかないデジタル化は、ほとんど意味がない。オペレータVSデザイナーという対立が解消されるのは、デジタル化がクライアントに結びついた時にこそ可能になるのである。ノートがデジタル化されていない限り、書くことと考えることとの間にはなお溝があったが、ノートがパソコンのそばから消えたときに、書くことと考えることとの差異が解消したように、ノートのデジタル化とクライアントのデジタル化とは同じ軌道を描いている。
制作過程を熟知できないデザイナーは生き残れない、デザインの過程を熟知できないオペレータは生き残れない。最近ではよく指摘される、この事態の鍵は、したがってスピード(時間)である。スピードの短縮化、加速化が、評価のない制作過程(〈頭〉のない〈手足〉)を駆逐しつつあるのである。逆に言えば、スピード(デジタル化)の本質は、評価の有無である。評価に直結しないインターネット・ネットワーク、社内LAN、グループウエアは、単なるお金の無駄使いにすぎない。
2001/10/1(月)23:29 - 芦田宏直 - 450 hit(s)
貿易センタービルの破壊以降、“トラウマ”が残り、「毎日」なんてスパンでものを書いている場合ではないなと思い始め、書きしぶっていたときに、話題のNIMDAウイルスにテラハウスサーバーをやられてしまった。ウイルス駆除のため三日三晩サーバーのファイルをチェックさせたら、今度はそのフル稼働させたハードデスクが自滅。新パンフレットができて、大事なときなのにホームページが動かない(やっと本日仮復旧しました)。ホームページが動いていないのに、「毎日」だけを書き続けるのもヘンだし。
とおもいながら、9月末の土日には「毎日」を書いてみようと思っていたら、土曜日の朝早く、わたしの叔母(父の姉)が82才で往生。急遽帰京(今年1月の義理の叔母の死以来の帰京だ)。15年前の輸血でC型肝炎ウイルスにやられて以来、それなりに元気でいた叔母だったが、とうとう逝ってしまった。私は18才のときに急性白血病で父を失っているが、それ以来、陰に陽に手助けしてくれた叔母だった。最近も連続テレビで有名な丹後半島香住で獲れたてのイカを送ってくれたりして、息子もそのイカを大好物にしていた(スーパーのイカは白いが本当のイカはグレー色に黒くくすんでいて、しかし噛むとしっとりとした歯ごたえがあることを息子が知ったのはこの叔母の贈り物からだ)。
40代も半ばをすぎると、“叔父”、“叔母”という関係にあった人たちが次々に逝ってしまう(私は定期健康診断を受けない非常識と同じ非常識で礼服も数珠も持っていない。そろそろ買いそろえなくてはいけない。こういった常識に並び始めると人並みに「社会人」という感じか。嗚呼。本当は「社会」なんてどこにも存在していないのに)。
私の父自体は46才で死んでいるから、すべての叔父、叔母の死の先輩で、私の父に比べればみんな良く長生きをしたもんだ、と思ったりもするが、しかし短命であれ、寿命であれ、いつ死んでも死は悲しいらしい。みんな、お棺に花を捧げるときには泣いていた。
お葬式というのは不思議な出来事だ。だれも予告や宣伝をしていないのに(広報費を一切かけないのに)、瞬時に人が集まる。しかもその商品(死)には実体がない。長い間会わないことと死んで会えないこととの間には実体的な差異がない。小学校の時の同級生の死なんて、死んでいても生きていても差異がない。そんな実体のない商品に広報もなしに人が集まる。もっとも、広報なんて、もともと実体のないものだ。ひょっとしたら、死こそが最大の広報、最大の記号なのかもしれない。
葬式は、その人の生きているときのプレゼンス、最後のプレゼンスだという言い方もあり得るが、それは嘘だ。生きていることに証明も最後もない。人は証明する前にバレているし、最後に至る前に終わっている場合もある。葬式が教えることは、生きていることに終わりも始まりもないということだ。〈社会〉がつまらないように、〈生〉もつまらないものだ。
2001/10/9(火)01:57 - 伊地知勝美 - 190 hit(s)
すこしこのフレーズに興味を持ったので質問してみました。
>生きていることに証明も最後もない。
ということは、人がこの世に生まれてきたことは、個人的には差はあるけれども生きているということは単なる瞬間の出来事だということですか?
>人は証明する前にバレているし、最後に至る前に終わっている場合もある。
最後は終わりではないんですか?
>葬式が教えることは、生きていることに終わりも始まりもないということだ。
存在には、始まりも終わりもないんですか?
>〈社会〉がつまらないように、〈生〉もつまらないものだ。
意味のある存在はないんですか?
世界は人間がいなくても存在していくものなのですか?
2001/10/9(火)14:19 - えっぷ - 173 hit(s)
横から失礼します。
> >生きていることに証明も最後もない。
>
> ということは、
> 人がこの世に生まれてきたことは、個人的には差はあるけれども生きているということは単なる瞬間の出来事だということですか?
人がこの世に生まれてきたことは、自然界の中で見れば何てことはないちっぽけなことだ、ということではないでしょうか?
> >葬式が教えることは、生きていることに終わりも始まりもないということだ。
> 存在には、始まりも終わりもないんですか?
>
> >〈社会〉がつまらないように、〈生〉もつまらないものだ。
> 意味のある存在はないんですか?
>
> 世界は人間がいなくても存在していくものなのですか?
始まりも終わりも、そして意味も、すべて人が恣意的に作り出したもの。
おもしろい、とか、つまらない、という〈色〉は人が自然という〈キャンバス〉に塗りつけたものに過ぎません。
連綿と続く現実(アナログ)のある区間を切り取った(デジタル化した)、ものが〈社会〉であり、〈生〉であると解釈しています。
葬式は、無限に広がる、捕らえどころのない本来の〈リアル〉な世界の存在を人に垣間見させます。
そういう意味では「MATRIX」という映画は示唆的でした。以下は、「MATRIX」について書いた文です。
2001/10/9(火)15:00 - 芦田宏直 - 242 hit(s)
えっぷ>
えっぷ> 横から失礼します。
えっぷ>
えっぷ> > >生きていることに証明も最後もない。
えっぷ> >
えっぷ> > ということは、
えっぷ> > 人がこの世に生まれてきたことは、個人的には差はあるけれども
えっぷ> > 生きているということは単なる瞬間の出来事だということですか?
えっぷ>
えっぷ> 人がこの世に生まれてきたことは、自然界の中で見れば
えっぷ> 何てことはないちっぽけなことだ、ということではない
えっぷ> でしょうか?
違います。「自然界」をリアルなものと見なしているところが違います。これではロマン主義(自然ロマン主義)になります。19世紀に後戻りです。
えっぷ>
えっぷ> > >葬式が教えることは、生きていることに終わりも始まりもないということだ。
えっぷ> > 存在には、始まりも終わりもないんですか?
えっぷ> >
えっぷ> > >〈社会〉がつまらないように、〈生〉もつまらないものだ。
えっぷ> > 意味のある存在はないんですか?
えっぷ> >
えっぷ> > 世界は人間がいなくても存在していくものなのですか?
えっぷ>
えっぷ> 始まりも終わりも、そして意味も、すべて人が恣意的に作り出したもの。
えっぷ> おもしろい、とか、つまらない、という〈色〉は人が自然という
えっぷ> 〈キャンバス〉に塗りつけたものに過ぎません。
違います。あなたの言う「自然」自体が「人が恣意的に作り出したもの」だとしたらどうですか。
えっぷ>
えっぷ> 連綿と続く現実(アナログ)のある区間を切り取った(デジタル化した)、
えっぷ> ものが〈社会〉であり、〈生〉であると解釈しています。
えっぷ>
違います。あなたの言う「連綿と続く現実(アナログ)」というものこそが、「人が恣意的に作り出したもの」だとしたらどうですか。
えっぷ> 葬式は、無限に広がる、捕らえどころのない本来の〈リアル〉な世界の
えっぷ> 存在を人に垣間見させます。
えっぷ>
全く違います。「人は証明する前にバレているし、最後に至る前に終わっている場合もある」と私は言っているのです。「〈リアル〉な世界の存在を人に垣間見させます」なんて全くウソです。あなたは「リアル」に死んだことがあるのですか?
えっぷ> そういう意味では「MATRIX」という映画は示唆的でした。
違います。あなたのようなロマン主義者をおだてるという意味で、MATRIXは、全くくだらない映画でした。
えっぷ> 以下は、「MATRIX」について書いた文です。
えっぷ> http://www.eppu-site.com/daily/wide_use.cgi/main?genre=4&dispmode=4&itemno=4-19
このサイトは、出来損ないの宗教のような文体でつづられているもので、参照する価値のないものです。
2001/10/9(火)23:28 - 芦田宏直 - 285 hit(s)
人間が生きるということは社会で生きるということであり、そういった社会的生というのは、様々な“役割”や“分担”を担って生きるということです。ちょうど歯車のようになって生きるというのが生きるということの意味です(“歯車”は、チャップリンの映画のように近代的な合理主義だけの比喩ではありません)。だから生きることには意味がないのです。当然死ぬこともその歯車が回転するように一人死に、二人死にというように死に、そしてまた一人生まれ、二人生まれと生まれる。それが生きるということの意味です。つまり生きることに意味などないし、死ぬことに意味もないのです。これは単に生物学的な生−死概念なのではありません。
たとえば、勉強の嫌いな若いフリータたちは、仕事の“実在感”に誘惑されて、学校に戻らない。仕事は遅刻が許されない、ミスも許されないのに「仕事が面白い」などと言って学校に戻りません。人に頼られたり、お客さんにほめられたり、そのうえ、お金が入ってきたりすると、学校では得られなかった実在感が彼らに前面化しはじめます。いわゆる〈社会〉勉強というものです。しかしこれは勉強ではありません。どんな出来の悪い学生でも、〈社会〉に入れば、仕事をしはじめます。毎日遅刻していた学生も会社に入れば(社会人になれば)ウソのように時間を守り始めます。それはそうせざるを得ないからです。それは放っておいても人は生まれたり、死んだりしているというのと同じ意味での“勉強”にすぎないわけです。生まれたり、死んだりすることが(勉強してもしなくても)不可避であるように、どんな仕事にも実在感があるわけです。あるいは生きていれば、楽しいこともあるし、苦しいこともあるし、どんな秀才も失敗することもあれば、どんなマヌケもたまにはほめてやりたい気になるときもあるわけです。人の盛衰や組織や社会の盛衰も含めて、それもこれも人の社会の歯車(=社会の浮力、社会という浮力)の内でしょう。
逆に言えば、そんなことに実在感や優劣を感じてはいけないのです。放っておいても(意志が荷担しなくても)生じることに関心を砕いてはいけないのです。どんな仕事でも、5,6年続けていれば、一人前になる。100年続けても一人前にならない人もいる。10年やれば、どんな人間でも課長になることもある。能力があっても課長になれないこともある。そういったことは、実力(=能力)があるとかないとかとは別のところで起こっていることです。そんなところに(本来の)〈意志〉あるいは〈能力〉は存在してはいない。何でも起こりうるし、またなるようにしかならないもの、それが〈社会〉というもの、〈生きる〉ということです。社会にも生きること(あるいは死ぬこと)にも意味はないのです。
〈社会〉や〈生〉を超えて、もし自らの意志が(少しでも)荷担しうるものがあるとしたら、それは何なのか? それこそが、最後の、そして最初の問いとなるものです。あるいは終わるとか始まるというのは、意志の起源や臨界としてのみ意味を持つ概念なのです。(参照記事:(1)「芦田の毎日」331番 (2)「芦田の毎日」322番)
2001/10/14(日)05:16 - 伊地知勝美 - 126 hit(s)
またまた質問します。よろしくお願いします。
つまり、
自分が社会の中にいて、はじめようと思う瞬間が、始まり。生。
自分が社会の中にいて、進もうとすることが、生きている。
自分が社会の中にいて、立ち止まろうと思った瞬間が、終わり。死。
ということですか?
社会のなかでは
生物学的な生と死や、
個人的な感情の起伏は
意味がないことなんですか?
芦田先生と以前よく話題になった、
<個人><他者><世界>と<社会>はどう違うのですか。
<人間>の<フレームワーク>が<社会>なんですか。
2001/10/14(日)19:42 - 芦田宏直 - 203 hit(s)
伊地知勝美> またまた質問します。よろしくお願いします。
伊地知勝美>
伊地知勝美>
伊地知勝美> つまり、
伊地知勝美>
伊地知勝美> 自分が社会の中にいて、はじめようと思う瞬間が、始まり。生。
伊地知勝美> 自分が社会の中にいて、進もうとすることが、生きている。
伊地知勝美> 自分が社会の中にいて、立ち止まろうと思った瞬間が、終わり。死。
伊地知勝美>
伊地知勝美> ということですか?
伊地知勝美>
まず、「社会」は存在しないということ、まして「社会の中」なんて存在しないということ。まして、まして、「社会の中」で何かが始まったり、何かが終わったりすることなんてありえないということ。そして、「社会の中」に「自分」が存在することなどありえないということ。そして、そして、「始まり」や「終わり」という概念は、意志(あるいは現在、あるいは思想)が介在しない限り、存在しない概念だということ。
伊地知勝美> 社会のなかでは
伊地知勝美> 生物学的な生と死や、
伊地知勝美> 個人的な感情の起伏は
伊地知勝美> 意味がないことなんですか?
伊地知勝美>
「生物学的な生と死」「個人的な感情の起伏」なんてものは、存在しない。それは〈生〉そのものであるという意味で、存在したりしない。それは在るように在る(始まりも終わりもない)という意味で、存在しない。存在しないという意味で、「意味がない」。
伊地知勝美> 芦田先生と以前よく話題になった、
伊地知勝美> <個人><他者><世界>と<社会>はどう違うのですか。
伊地知勝美> <人間>の<フレームワーク>が<社会>なんですか。
伊地知勝美>
その問題は、私の論文「フレーム問題と世界 ― 人工知能・哲学・ハイデガー」の全体を参照してください。
その中で、私は次のように言っていました。(ほんの)一部を抜粋します。
人間は死を知らなくても死ぬことができるし、死を知っているからといって、死を避けることができるわけではない。また自殺をしたからといって、それは人がコーヒーを飲んだというふうに、或ることの行為者になるわけではない。人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(コーヒーを飲むことが完了した後も生きていなければならない)が、死後の時間を生きるわけにはいかないからである。それは“生きる”という語の乱用にすぎない。
死後の世界を語る人間は、死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。つまり死は、世界「の中に」存在しない。「死は生の出来事ではない。人は死を体験しない」(ヴィトゲンシュタイン)。つまり、人間は自分の力で死ぬことができない。
しかし自分の力で死ぬことができないにもかかわらず、死は自分の死でしかない。他人が死ぬことによって、自分の死が代理される(自分の死を免れる)わけではないからだ。おそらく、どんなに個性的なことであっても、それと同じ個性を持つ他人は存在しうるだろう。つまり、その個性は代理され得るだろう。しかし死ぬことだけは、私の死であり得る。私は「一人で」死んでいくのである。逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が、代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が私の死であることからきている。〈私〉が存在することと〈死〉が存在することとは同じことである。しかし、そのもっとも私的なことこそが、私にとって不可能なことなのである。つまり、私の〈根拠〉としての私の死は、私にとって常に「非力な(ニヒティッヒ)」根拠、「有限な(エントリッヒ)」根拠でしかない。
私は私の死であるが、しかし私は(ヴィトゲンシュタインが「人は死を体験しない」といった意味で)死ねない。とすれば、私は私ではない。私とは私の他者である。世界「の中で」一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。
というより、世界という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。この距離があらゆる諸々の他者へと私が眼差しを向けることの根拠(「非力な根拠」)である。なるほど、世界は私の世界ではない。世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。私が「その中にいる」世界は、私が「いない」世界(私の死)と同じものなのである。しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、「不可能なものの可能性」(ハイデガー)であることの意味である。レヴィナスは、ハイデガーの「死への存在」をレヴィナスの言う「死ねないことの恐怖」(イリヤ)に対立させているが、それはハイデガーにとって同じことを意味しているのである。私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは「外部」(ヴィトゲンシュタイン)である ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部であることからきている。
私の死が世界の中で起こる「出来事」でないのは、そのためである。私の死は、世界の境界で生じる。厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は境界そのもの、世界そのものなのである。人間が驚いたり、無視したりすることができるのは、いつも人間が世界の(という)境界、出来事の外部に身をおいているからである。それというのも、人間の死が世界を時-間化する可能性そのものであるからである。ヴィトゲンシュタインが〈私〉と〈世界〉の問題を類比的に語るのとは別にハイデガーはこの問題を時間性のなかで統一的に解釈しようとしたのである ― むろん類比の根拠を考えるというのは危険な企てではあるにしても。(「フレーム問題と世界 ― 人工知能・哲学・ハイデガー」後半結部より)
2001/10/21(日)13:10 - 伊地知勝美 - 81 hit(s)
ということは、
人間の意志とは無縁にただ在るだけの諸々、
それが「生まれる」「社会をつくる」「死んでいく」ということですね。
これは「私」が「存在する」まえからそこにあったものであり、
「存在しない」ときがきても、尚そこにあるものだということですか?
それは「存在しない」ということ「意味がないこと」であり「記号」にすぎないということなのですね
ということは。。。。
********************************************************************
ここで、下記の文章を添削して欲しいのですが。あるいは100点満点で採点して欲しいのですが。
「人間」は
「生」「社会」「死」といった「意味のない」ものが<在る>ことを「感じる」だけではなく
「存在する」ために「個人」「他者」「世界」といったものに<意味がある>ことを知っている。
********************************************************************
なんだか、
あとすこしでわかりそうな気がするのですが、
同時この疑問が解けた瞬間に、
これまでの概念がドミノ倒しのように一気に逆流しそうなドキドキ感に襲われます。
そこがまた快感かも。。。。。。。。
2001/10/14(日)20:44 - 芦田宏直 - 221 hit(s)
「ダブル・ジョパディー」のアシュレイ・ジャッドが良かったですね。映画はたいしたことはありあませんが、アシュレイジャッドの着ている衣装のセンスがまた何とも言えません― 劇中出てくる一番高いアルマーニのドレスがむしろ一番ダメで、普通の生活の時の衣装が上品でしゃれていたような気がします。特にリュックを背負ったシーンが記憶に残っています。
「ペリカン文書」という映画もジュリアロバーツのファンでなければとても見ていられないほどひどい映画でしたが、彼女の衣装や姿の変化を楽しむための映画でした。そう思って「ダブル・ジョパディー」を見ると、アシュレイ・ジャッドの「ダブル・ジョパディー」の勝ちです。
「ヒート」(95)、「評決のとき」(96)、「コレクター」(97)、「氷の接吻」(97)などにも出ていたらしいのですが、全く印象にありません。この映画で初めて印象に残りました。田宮二郎が「白い影」(SMAPの中井クンが田宮二郎の代わりになるわけがないでしょ)をやっていた頃の山本陽子をもう少し上品にしたような女優です(少したとえが古いか?)。
目立たない俳優が脚本(映画)で目立つようになるという意味では「北京のふたり」のリチャードギアもよかった。「プリティウーマン」の彼よりも「北京のふたり」のリチャードギアの方がはるかにいい。
2001/10/20(土)02:08 - 芦田宏直 - 233 hit(s)
今週、「ヒロタ」がつぶれた。あのシュークリームのヒロタだ。いつも魔が差したように、「ヒロタのシュークリームが食べたい」と思うときがある。風邪をひいて何も食べる気がなくなったとき、ふと、「ヒロタのシュークリーム」と口にするときがある。赤坂見附の「しろたえ」のシュークリームではなくて、「ヒロタ」のシュークリームなのだ。「買ってこようか」と家内。電車にのって買いに行かせても、いざ、手元にくると食べたくなくなるのが病人の食というものだ。でも弱っているときにも食べる気にさせる食べ物が、本当の食べ物でもある。食べ物というものは食べようと思ったときにはすでに終わってしまっているモノなのだ。
私は中でもチョコシューが大好きだった。焦げ茶色のチョコを表皮にしたようなチョコシューだ。表面のチョコの堅さとシュークリームの表皮のしなやかな柔らかさが何とも言えないハーモニーになっていた。
それに何より、少し小さめのあの大きさがよかった。一口か二口で食べられる大きさが良かった。五つ入りの縦に並んだシューが入ったパッケージで買って食べるときも、太って死んでもいいやと何度もやけくそになって(ちょうどそういった気にさせる大きさのシューが5個入りでパッケージになっていた。一列に少し傾けて小さなチョコシューを五つ並べるこの細長いパッケージがヒロタの成功の秘密だったとも思う)、家族の誰にも食べさせずに隠れて食べていた。現に、高一の息子に「ヒロタが倒産した!」と叫んでも、「それって何?」と、ことの重大さに気づかない。よく考えれば、私ばかりが食べて、息子に食べさせていなかったのだ。たしか、家内に「こんなおいしいシュークリーム、早くから子供に食わせたら、ろくな子に育たない」と言いながら、食べさせていなかった。冷蔵庫に“保管”するときにも「太郎に見つからないように奥にしまえ」なんて言っていた。今となっては後悔。息子の人生にヒロタのチョコシューが登場しない。嗚呼、なんと寂しい人生か。
一時は年間で130億円くらいあった売上が、最近は50億円くらいになっていたらしい。たいへんなことだ。会社更生法の申請らしいから、吉野家のように見事によみがえってほしい。
2001/10/22(月)00:28 - 芦田宏直 - 820 hit(s)
JORNADA720を買ってしまった。私のモバイル環境は、FIVA103(http://www.casio.co.jp/mpc/103/) ― 実はFIVAの206を買ったが、やっぱり大きさが気に入らず、もう一度103を買い直していた ― 、とザウルスだったが(両者とも、並みいるモバイルノートとPDAの中でもっとも優秀な機械である)、この二つにはそれぞれ足りないものがあった。
FIVA(=モバイルノート)は、バッテリーの持ちの悪さと重さ。ザウルス(PDA)は、入力の不便とモニタの大きさ。PDA(ザウルス)もインターネットができるようになってきていたが、ブラウジングにはやはり画面が小さすぎる(実用のレベルではメールが限界だろう)。実際の活用の不便としては、たとえば、会議録(書記ではなくても、会議で重要なことや思ったことをリアルタイムにまとめたりする場合)などには、ノートパソコン(FIVA)もPDA(ザウルス)も役立たない。会議場では、ノートパソコンは大きくて目立ちすぎ、電池がもたない。ザウルスでは、モニタが小さすぎるのと入力が不便。だから、私のFIVAは、ずーっとカバンの中。自宅とテラハウスを往き来しているが、登場する機会がない。たまにデータ更新のためテラハウスの机に置くくらい。ザウルスも同期をとって、テラハウスの机に常時置いているが、同期をとるのは住所録とスケジュールくらいで、普段デスクトップで使っているWordファイルやExcelファイルをザウルスに“格納”する気は、おこらない。ザウルスをその手軽さから会議に同席させても、次回会議の日程を決めるときにしか使いはしない。それくらいのことなら、紙の手帳と変わらない。要するにザウルスでは会議の資料を格納、参照できない。FIVAでは、格納はできるが、参照しているうちに電池がなくなる。ACアダプタを会議室に持ち込んでいる奴もいるがそんな奴は大概仕事のできない奴だ。
この二つの問題を解決するのがWindowsCEだったはずだが、これまで、CASIOのWindowsCE機を2回。それにシグマリオンの初代機と計3回買ったが、どれも一週間くらいで手放していた。初期の頃のWindowsCE機は単語登録さえできなかったこと、またパワーが足りなくて、ザウルスのデータを移したら砂時計が出たままハングアップしていたこと、拡張メモリが使えず、データベース機能を持てなかったことなど、とても“商品”とは言えないものだった。
最近のWindowsCEは、単語変換などATOKなども使えるようになり、パワーもあがり、かなり良くなっていた。シグマリオンIIなどは、そう悪くはない商品だ。たぶん、WindowsCE機をねらうなら、このシグマリオンIIかJORNADA720のどちらかしかない。シグマリオンIIのダメなところは、P-in Compactを使うと拡張メモリが使えないこと。要するに拡張デバイスが一個しかないことである。これでは、存分にデータ収集ができない。あと、これは個人的な趣味だがデザイン的にモニタ周りに余白が在りすぎて、好きになれないなど、いくつか手を出せない理由があった。JORNADA720は、その点、P-inCompactを指しながらも、拡張カードが使える。私も早速192メガのカードを買った。モニタ周りのデザインも断然格好がいい。大きさもシグマリオンIIより一回り小さい。JORNADA720の欠陥はシグマリオンIIより価格が高いことだ。JORNADA720は、最安値で74,500円。シグマリオンIIなら40,000円台で手に入る。シグマリオンIIのいいところは、機能ではなくて値段の手頃さだ。場合によってはザウルスより安い。私自身は新宿のヨドバシカメラで買って(10月12日14:30くらい)、82,500円(ポイントカードを使って7万円の半ばというところか)。通常の買い方で言えば、シグマリオンIIとJORNADA720とは約2倍の価格差がある。この差をどう評価するかだ。それはひとえに拡張メモリを使うかどうか。たとえば、会社で自分が作ったWordファイルやExcelファイルを全部持ち歩きたい、あるいはメールのすべてに同期を取りながら(メールデータベースをモバイルで築きながら)、どこからでもメールの受発信をしたいと思うなら、JORNADA720を買うしかない、そう思わない人は、シグマリオンIIではなく、ザウルスで充分だ。
たしかに、ザウルスもE-1からは、拡張性も充分になっていたが、P-inCompactでインターネット環境も、100メガ以上のメモリ拡張も可能になると、今度は、急にモニタとキーボードが不満に思えてきた。それが私の“転向”の動機だ。要するに、あれもこれもできるようになったザウルスは、もはやザウルスではなくなったということだろう。今となっては、PI-8000(1997年発売)が最後の、もっとも優秀なザウルスだったと思う。
JORNADA720を約二日間使っての印象では、まず、インターネットが軽快だ。モニタの大きさがやはり決定的。ほんとにどこでも使えるという感じ。「芦田の毎日」の総集編もそっくりそのまま落とせる(ザウルスでは7割止まり)。また、ふたをあげても10センチ程度の高さだから、机の上でも目立たない(会議のときに、あるいは電車の中の膝の上でも目立たない)。おまけにMP3のステレオ再生でウオークマンの代わりにもなる(早速「よろしく哀愁」「逃避行」「Englishman in New York」など10曲ほど入れてみた。音もそこそこのものだ)。年をとるとウオークマンを単独で持ち歩く気持ちにならないが、これなら常時もっているものなのでありがたい。常時もつという意味では、JORNADA720は重さと大きさ(容積)でザウルスとFIVAのちょうど中間くらい、500グラムの重さ(大きさは、189(W)×34(H)×95(D)mm)。私はザウルスをポケットに入れて使ったことがないので、このJORNADA720の大きさなら、ザウルスを手にもつのと同じ。そしてモバイルノートで最小のFIVAでは、“(指で)持つ”というよりは、(JORNADA720から見れば)やはり“(手のひらで)抱える”という感じ。これでは、やはり会議で社内を自由に持ち歩くという感じにはならない。JORNADA720なら、ザウルスと同じ感覚で持ち歩ける。
今後一ヶ月は、約10年近く8代にわたって使ってきたザウルスデータ(住所録とスケジュールデータ以外の)をJORNADA720に移すのが大変だ。もちろん、住所録管理やスケジュール管理は、ザウルスの方がはるかに優秀で(PDAの中でも秀逸!)、WindowsCEのそれは全くダメだが、そこはWindowsCEの、パソコンとの親和性をとるしかない。いよいよモバイルノートとザウルスの2台を捨てるときが来た。
それはそうと、金曜日の午後、ヨドバシカメラから帰る途中西口の地下道を通ったのがいけなかった。私は通勤が車なのでめったに駅を歩かない。たまに歩くと新鮮に見える。新宿駅西口地下は、昔よく財布などの安売り露天商がいたが、当日はスーツの安売りをしていた。これがいけなかった。一万円の安売りスーツや千円のネクタイを扱っていた。私は、街を歩くと必ずかばん屋とネクタイ売り場には立ち止まるクセがある。クセが出てしまった。割と感じのいいネクタイが置いてあったが買うところまでは行かなかった。68点くらい。ところが、スーツをついでに見ていたら少し質感の違う感じのいいスーツがあったので、なかなかいいじゃないと思って手にしたら、68,000円。こんなところで68,000円も使うのだったら、デパートで買った方がいいじゃない、なんて独り言を言っていたら、店のおじさんが、「でもゼニヤのスーツですよ。デパートだったら16万円はしますよ」と。「ゼニヤ」なんて知らない私も、そういった“言われ方”に弱い。ブランドをほとんど知らない私も(知らないが故に)ブランドに弱い。JORNADA720の入ったヨドバシの袋をぶら下げたまま買ってしまった。嗚呼、こんなはずではなかった。買った直後(店から10メートルほど離れたところで)、テラハウスの広報部で、ブランドに強い(=ブランドには強い)ジャニーズ系の小林さんに携帯で電話をした。「ゼニヤって、知っている?」「知っていますよ。有名じゃないですか」「あっ、そう。露天商で買ったんだけど、大丈夫かな」「知りませんよ。だまされたんじゃないですか」「やっぱり?」「いつできるんですか」「水曜日」「楽しみにしていますよ。早く着てきてください(笑い)」。
まあ、こんなことでもない限り、そんなブランドスーツを買ったりはしないからいいか、と思いながら、西口の改札口を通ってテラハウスに戻ってきたが、いったい、今日は何を買いに行ったのだろうと考え込んだ。テラハウスの受付に開口一番「ゼニヤ」の話をしたら、普段無口で無愛想な堀さんまでが「だまされていますよ。ウソに決まってるじゃないですか」と(笑いながら)叫ぶ。この子、結構人生苦労してるんだな、と思ったりもしたが、やっぱり、私の方がまぬけなのか、とも。いい勉強をさせてもらった新宿参りだった。
2001/10/29(月)08:55 - 芦田宏直 - 426 hit(s)
ザウルスは、なぜダメなのか。それについて、私は「要するに、あれもこれもできるようになったザウルスは、もはやザウルスではなくなったということだろう」と書いた。それにつきる。
「ザウルス」はPI-3000として1993年10月(定価65000円)に発売された。それを買うまでは、私はカシオの「電子手帳」派だった。シャープのそれは、カバーがビニール製で好きになれなかったことと文字入力が特殊な方法だったからである。いずれにしても1993年以前はカシオとシャープが互角に戦っていた。3代くらいのデータがたまっていたカシオ派の私が「ザウルス」に転向したのは(丸々二日間かけてデータを手入力で移した)、このザウルスで、初めて(つまり、“電子手帳”至上初めて)、文字変換せずに、手書きの走り書きができるようになったからである(ついでに言うと手書き認識ができるようになったことも大きかったが、当時の私はそれにあまり大きな魅力を感じなかった。キーボード入力については1983年以来ワープロになじんでいたからである)。
紙の手帳と電子手帳との利便性の差は、一覧性(見開きの手帳の広さ!)において電子手帳が劣るという問題と、なんと言っても速記性(走り書き)の問題が残っていた。もちろん場合によっては、走り書きにおいてさえキー入力の方が早いかもしれないが、心理的な敷居としては、即応性が求められる“電子手帳”におけるいちいちの文字変換は結構、電子派になれない“問題”だったのである。
一覧性の問題は、“電子手帳”の欠陥と言うよりは、選択の問題だ。私が一覧性を犠牲にしてでも初期の“電子手帳“に走ったのは、毎日、毎年増えていく“連絡先”の紙への記録は、データの自殺に近い出来事だと思ったからである。毎年紙の手帳を変える場合、どうやって昨年のデータをコンバートするのか。コンバートなどできない。手書きの移し替えには限界がある。データを活かそうとすれば“同じもの”を添付し続けるしかない。たまればたまるほど、文字は見えなくなる。紙もぼろぼろになる。要するにデータ“ベース”にならない。この問題の方が、一覧性の問題よりよほど深刻だった。
しかし手帳の本質を速記性に見る人が電子手帳を認めないという理由は、電子派の難敵だった。ザウルスPI-3000がそれを突破したのである。
ザウルスの成長期には、三つの予期し得ぬ、しかし並行する成熟があった。
1)パソコン通信にはじまり、インターネットへと成長するネットワーク社会の急激な成熟。
2)携帯電話の急激な普及。
3)ワープロからパソコンへの急激な転換、普及
ザウルスと並行して始まったこれらの三つの歴史的な成熟の、(ザウルスにとっての)最も大きい衝撃は、携帯電話の普及である。手帳の大きな機能であった電話番号参照が、まずなくなった。すべては電話の中に入るようになったからである。〈電話帳〉というものがなくなったのである。
そして、旧来の“ネットワーク”のすべてであった電話と電話帳の領域において、あらたにメールアドレスを中心にしたインターネットが普及し始める。スケジュール管理ともう一つの柱である電話(=電話帳)を想定して出発したザウルスにとって、インターネットとの結合は難題中の難題だった。一つには、モデムの電池消耗量が激しく、ACアダプタなしの使用は不可能になってしまったこと。二つ目には、メールのやり取り程度なら充分だが、ホームページ閲覧となるとモニタの大きさが致命的なものになること。
最初の問題は、携帯電話に完敗してしまった。リアルタイムメール受発信において携帯電話(とその電池のもち)に勝るものはない。携帯電話がインターネットメールメディアとして向いていたのは、それが常時接続メディアであったこと、また常時接続状態であると共に常時携帯メディアであったことである。ザウルスは、その二つの条件において中途半端なままの存在だった。二つ目のモニタの問題は、手帳の大きさにとどまる以上、解決不可能な問題だ。
そうこうするうちに、パソコン普及が爆発的なものとなってきた。これはザウルスの初期には想定の枠外だった。ザウルスの登場の当時には、ワープロ専用機の成熟期だった。この意味は、ザウルスデータは、まだザウルスの中だけの世界だった、ということである。今のようなパソコンデータとのシンクロなどというようなことは想定されてはいなかった。むしろキーボードに全くなじめない反ワープロ派、反パソコン派のためのせめてもの“電子”ツールがザウルスだったのである。キー入力より決して速くはない手書き文字認識機能をザウルスの第一のキャッチコピーにしていたことからもそれはあきらかだ。
ところが、Windows95以降、ネットワークがパソコン環境の常識となってきた。電子手帳、あるいはワープロ専用機を使わない人も会社ではパソコンを使うようになってきた。キーボードアレルギーが(おじさんたちの間で)激減したこと、電話連絡の第一の機能であるアポイントメントをメール(=パソコン)でやるようになったこと、パソコンデータを持ち歩きたくなったことなどが、ザウルスの内部のデータとパソコンデータとを共有する必要、つまりザウルスをノートパソコンのように使いたいという贅沢な要望が出現し始めるきっかけになっていた。WindowsCE(1997年)の登場は、この要望に直接答えるものだった。最初、この動きが活発化しなかったのは、80年代から培われた、カシオ+シャープの電子手帳の個人情報管理(PIM)のノウハウに、WindowsCEの中身がはるかに貧弱だったからである。むしろ初中期のWindowsCEは、完成したパソコン本体での情報を持ち歩くための端末0Sにすぎなかったと言える。
ザウルス=シャープは、このWindowsCEの出来の悪さにほっとしていた。現に私も何度もWindowsCEへの転身を図ろうとしたが、そのつどザウルスに舞い戻りしていた。ところが、この現象は、当たり前のことだがザウルスユーザーだけのものだった。ザウルスのPIM(Personal information manager)の便利さを知らない多くのパソコンユーザーにとっては、WindowsCEのパーソナルな端末化は、それで充分だった(ザウルスと比較するからいけないのである)。その後、「PDA(Personal digital assistant)」(WindowsCE、PALMなど)と呼ばれるようになった多くの“端末機”の興隆は、キーボードアレルギーから(最初から)解放された新しい世代の“電子手帳”派を形成したのである(90年代の最後半〜現在)。
要するにザウルスは、キーボードのできない古い世代の“端末機”。PALMは、パソコン世代の新しい世代の“端末機”ということに、いつのまにか色分けされていた。もちろん、ザウルスは単なる“端末機”以上の自立性を有していたが、新しいパソコン世代は、メガ、ギガ、テラと増えてくるデータ量、15インチ、17インチ、21インチ、VGA、XGA、SXGAと拡大するモニタの性能、そして貯めるよりは流れるインターネット情報(オープンデータ)の有益性をよく心得ていたが故に、手帳の大きさに何が期待できて、何が期待できないかをよく心得ていた。ザウルスは、いつのまにか、おじさんが、パソコンでできることをキーボードを使わずに何でもできるためのもの、という場所に落ち込んでしまっていたのである。
ザウルスがPI-8000(1997年1月)を最後に(MI Zaurus:1997年以降)、インターネット(+マルチメディア)に走っていくのは、それがなおも初代機のキーボードアレルギー世代を前提にしているためだと言える。だから、E-1 ザウルス(2000年12月)になって、簡単なキーボードが付いたときには、もうこの商品のコンセプトは、完全に解体してしまったのである。携帯電話よりは、優れたキー入力とモニタ。WindowsCEよりは手軽。これが現在のザウルスの位置づけだが、前者よりは電池が持たない。後者よりはモニタが小さい(あるいは、キー入力しづらい)という欠陥を持っている。しかし、どちらも、〈パソコン〉と〈インターネット〉を意識しなければ、生じない“欠陥”にすぎない。
言い換えれば、携帯電話ほど常時携帯する大きさ、重さではないザウルス(ザウルスをリアルタイムメーラーとしては使えない)、モバイルパソコンほどパソコンではないザウルス(ザウルスをワープロ代わりには使えない、ザウルスを会議資料のデータベースには使えない)、という中途半端。これが現在のザウルスのすべてだ。
結局、私のザウルス遍歴は、PI-3000(1993.3)、PI-4000(1993.6)、PI-6000(1995.8)、PI-6500(1996.11)、PI-8000(1997.1)、MI-500(1997.7)、MI-110M(1997.11)、MI-610DC(1998.3)、MI-310(1998.8)、MI-C1(1999.12)、MI-E1(2000.12)とたどり、MI-L1(2001.6)で終わることになる。PI-3000からPI-8000までは正常進化し続けた歴史だったが、MIシリーズになってからはユーザーインターフェイスの思想が乱れはじめ、ジグザグを繰り返した。シャープ内部でザウルスを作る事業部が変わったこと、WindowsCE、インターネット、PALM勢力の進展などが悪影響を与えたのである。
そうして、ついに「ザウルスよ、さらば」となり、JORNADA720となった。これで、私は、毎年の、あるいは半年毎のザウルスとモバイルパソコンとの“並行”購入という悪癖から逃れられることになる。
要するに、ザウルスを持ち歩くようなところでは、同じようにJORNADA720も持ち歩ける大きさと重さであること(大きさは、189(W)×34(H)×95(D)mm、重さは510グラム)。電池の持ちもかわらないこと(どちらも10時間)。そしてJORNADA720であれば、OFFICE文書の新規作成、および再編集とホームページ閲覧という点でモバイルパソコンの代わりが完璧にできること。P-in m@sterとコンパクトフラッシュの200メガを超える拡張メモリの同時使用によって、モバイルパソコンの代用が可能になった。代用どころか、スイッチオンですぐに使える快適さはまさにモバイルそのものだ。要するに“ザウルスのように”パソコンが使えるのである。要するにVAIO C1もFIVAも大きすぎるし、電池の持ちもダメなのである。ザウルスがダメなら、VAIO C1もFIVAもダメなのだ。
WindowsCEというOSも未だに中途半端で未完成なOSで、マイクロソフトがどこまで真剣に作り続けるかわからないところがあるが、JORNADA720自体の商品コンセプトはザウルスよりははるかにはっきりしている。「ザウルスよ、さらば」だ。8年間、ありがとうございました。
2001/11/4(日)18:03 - 芦田宏直 - 464 hit(s)
今日、久しぶりに電車に乗った(とはいえ、毎週土曜日には「明大前」の“王将”までは餃子を買いにいっているが(あの“王将”事件以来、ずーっと土曜日は〈餃子の日〉になっている)。
「八幡山」駅で、斜め前の席に、中学生の男子(制服から見て明大附属中学)が3人のってきた。3人とも席に着くなり携帯電話を使い始めた。初心者のようだ。「“送信にしました”だって」なんて言って喜んでいる。
中学生から携帯電話。バカな親もいるものだ。なんで与えるのだろう。学生(or生徒)というのは、〈社会〉から隔離されていてこそ学生だ。〈連絡〉というものから隔離されていてこそ学生である。
〈教育〉というのは〈社会〉の影響を受けないからこそ、〈教育〉でありうるのであって、だからこそ、次世代を担いうる人材を育成することが出来る。「即戦力」という言葉があるが、市井の英会話スクールやパソコンスクールの教育目標ならいざしらず、その意味の実態は“使い捨て”ということに他ならない。
学校教育の目標は、大学を含めてさえ、〈基礎〉教育というものにかかわっている。〈基礎〉教育の〈基礎〉とは、わかりやすい、簡単なもの、つまり「初心者」のための教育というものではなくて、〈社会〉がどんなふうに変遷しても変わらない(=生き続けている、これからも生き続けていく)“資産”を伝えるためのものということである。
そのため学校教育は、どうしても保守的になる。時代遅れになる。それは学校教育の“欠陥”ではない。その保守性や時代遅れは、社会的な変化(消失するもの)を“フィルター”にかけるためのものなのである。もちろん、こういった保守性や時代遅れは、次世代や将来を見通してのものである。〈基礎〉は、〈社会〉に媚びないからこそ、いつでも新しいものの源泉になりうるのである。
だから、〈学校〉は〈校門〉をはじめとして、〈塀〉(=学校を取り囲むフェンス)で囲まれている。それは〈社会〉や〈変化〉から浸食を受けないためである。それは、〈監獄〉が〈社会〉から隔離されて〈塀〉で囲まれているのと同じことである。どちらも〈社会〉からの隔離という点では同じなのだ。たとえば同じ〈学校〉と言っても、〈社会〉に近い、〈変化〉に近い、実業教育、職業教育を標榜する専門学校には〈塀〉が存在していないのは、その理由からである。
したがって〈塀〉の中の学生が、携帯電話を持って、〈外部〉(〈社会〉)と“連絡”を取るというのは、不思議な事態なのだ。彼らは、もはやその時点、〈学生(or生徒)〉ではない。最初から社会化している学生に、どんな〈才能〉や〈能力〉を見出そうとするのだろうか。
たとえば、最近、私の息子の都立高校に“名門”私立高校から生徒が“転校”してきた。不況で親が学費を払えなくなったためだ。あるいは学業すら続けられない子供がこの時代のあちこちに出現しているのだろう。
本来、こんなことはあってはならない。こういった、教育からの脱落は、それ自体〈学校〉の〈塀〉の中に社会的な変化が浸食していることの結果なのである。こういった脱落組が負の浸食だとすれば、携帯電話は正の浸食である。携帯電話を持つ学生は〈塀〉の中にいながら(学校に在籍しながら)の退学者なのである。“社会”が豊かであることの意味は、学校を“社会”からどこまで孤立させられるかに関わっているのであって、その逆ではない。
これは単なる推測だが、携帯電話所有率、利用率の学生分布一覧でいえば、所有率・利用率が高い学校ほど、学生に勉強をさせていない学校であるに違いない。社会化した学校はもはや学校ではない。〈現在〉の中に自らを解体させてしまっているからである。
ところで、しかしこの状況は、学校がもはや〈社会〉の影響を受けないでいることは不可能な時代になりつつあるということではないだろうか。ちょうど、旧ソ連が〈社会〉の影響を受けて解体したように(ソ連の社会主義は、〈学校〉としての国家の歴史的実験だった。同じように学校的な中国も社会化しつつあるが、むろん〈学校〉は〈国家〉と同じではない)、〈学校〉も解体しつつあるのだ。
私はこの社会化を防ぐ唯一の砦が〈家族〉だと思うが ― 親や家族こそが〈社会〉からの初源の〈塀〉なのである ― 、その親が、ふたたび子供に携帯電話を持たせて、〈家庭〉を社会化させている。家庭は“連絡”の渦にまみれている。もともとは、機能(利益)や目的に支配されない〈長い時間〉の絆によって形成されている家族の共同性が〈短い時間〉の連絡にずたずたに引き裂かれて解体しつつある。
今こそ、親こそが“保守的”になって、子供から携帯電話くらいは取り上げようではないか。「みんなもっているから」なんて子供に言われたら、「みんなもっているから、持たないでいい」と言おうではないか。
※この記事は、「子供に携帯電話を持たせてはいけない」、および「続・子供に携帯電話を持たせてはいけない」に連続した記事になっています。よろしければ参照してください。
2001/12/25(火)11:49 - 普通の父親 - 52 hit(s)
突然ですが、相談です。
娘の私立中学では携帯電話を持っていることが前提で緊急時の連絡になどと言う名目でほとんど全員が持っています。我が家でも大論争になり、ただし私対娘達と妻との対戦ですがどうにもこうにもこの冬休みのスキー合宿にはどうしてもということになりかけてるわけです。
まさに<学校>の解体です。使い方を限定してという情けない結論になりつつあるので助けていただきたく相談申し上げる次第です。
2001/12/25(火)23:51 - 芦田宏直 - 79 hit(s)
この質問だけでは、わからないことがあります。学校が持つように強制しているのか(そんなことはありえないと思いますが)、娘さんが「どうしても」と言っているのか。そこがわかりません。
もし前者だとすれば、そんな学校は即刻辞めさせて区立中学に編入させてください。区立中学は教員がサイテーですが、生徒達は健全です。そもそも女子中学生で私立に行かせる理由などまったくありません。小中高(あるいは中高)と私立の女子高校で育った学生(生徒)で、男女関係についてまともな感覚をもった子供に出会ったことは一度もありません(すくなくとも私の20年に渡る教員体験の中で)。大学までも女子大である場合はもう救いようがありません。
事情が後者だとすれば、まったく持たせる必要はありません。子供が親に電話するために携帯電話をもつなんてことはありません。せいぜい、着信拒否か、留守録にスイッチオンされるだけです。かなり遅れて「返事」があるだけです。親が連絡を取りたいときに、連絡ができることなどほとんどありません。たぶんいやな友達からの電話より受けるのが嫌いな電話が親からの電話でしょう。
スキー合宿なんて、親から離れるから(親と連絡を取れないから)価値があるのであって、いつでも親(家庭)と連絡が取れる「合宿」なんて本末転倒です。私の息子は、小学2年生の時(まだ毎晩家内と一緒にしか寝ることができない頃)に長野の戸隠高原に五泊六日のスキー合宿に行きました(行かせました)。
親(家庭)から離れて初めての夜を五泊も過ごしたのです。途中、こちらから連絡したくなることが何度もありましたが我慢しました。六日後、上野駅に私と家内とで迎えに行き、元気に帰ってきた息子を見たときは、感慨ひとしおでした(家内は息子の顔を見たとたん泣いていました)。「長かったよ」とポツンと息子が言った言葉を今も覚えています。あとで聞くと、息子は合宿所から家に連絡を取ろうとしたらしいのですが、「03」の市外局番を押すのを忘れて、電話をかけていたらしく、何度かけても「斉藤です」という返事が返ってきて、そのつど孤独になっていたらしい(家がなくなったのかもしれないと子供心に心配していたらしい)。周りの人に聞けばいいのに、バカな息子です。でも、それって、いいことじゃないですか。それ(連絡をとれないこと)が彼をまたひとつ大人にしたのです。親元を離れて、連絡が取れないことが、家庭(親がいること)の意味を理解する第一歩になるのです。
だから、携帯電話をもって合宿に行くなんて、サイテーです。何のための合宿でしょう。30過ぎになってもお嫁にもいかない東京出身の若いOLが、仕事すらできないのは、親元を離れたことがないからです。結局、家族とは何かがわからないのです。いつでも親と連絡が取れると思っているからです。だから「社会」すら形成できないのです。
家族というのは、人間の孤独の源泉です。誰も親を選んでこの世の中に生まれてきたわけではないのですから、人間は、親を選び直さなければならない。親を承認しなければならない。つまり人間の親子関係は自然な関係ではないのです。人間の優しさ(Motherhoodという意味でのMothership)というのは、自分の親を受け入れることができるかどうか、に関わっているわけです。いわゆる“非行少年”というのは、どこかで、親を受け入れることができなくなった少年のことです。帰属性のない孤独(勇気のない孤独)、孤独という契機のない帰属性は、“非行”を産むだけなのです。
孤独と家族とは、いつでも裏腹です。家族を形成するSEX(男女関係)が、失恋という孤独を形成するのは、根源的に親を受け入れねば(受け入れ直さなければ)ならない人間の孤独の陰画です。失恋の孤独など、私の息子が局番なしの電話を何回もかけ直した孤独(家族がなくなったかもしれないという心配)に比べればたいしたことはないのです。そうやって、子供は、人間の優しさ(Mothership)とは何か、家族とは何かを根源的に理解し始めるのです。
だから、お父さん、ここでくじけてはいけません。子供に、親との連絡が取れるなんてバカな理由から携帯電話を与えてはいけません。子供など、生まれたその時から連絡が取れないものだ、と思ってちょうどのものです。絶対に、携帯電話を与えないでください。
2001/12/26(水)14:09 - 普通の父親 - 57 hit(s)
さっそく回答ありがとうございます。質問の仕方がいけなかったのですが、娘の学校では例のテロの事件とかあって強制はしませんが禁止ではなくなったため急に普及しました。
それで「みんなもってるからどうしても」と言い出したのです。こういう家庭は多いのではないかと思います。
>連絡が取れないことが家庭の意味を理解する第一歩だ
確かに。でも子供達は親との連絡ではなくて友達との連絡が大切のようです。
たわいのないことであっても携帯メールでちょっとのやりとりを繰り返すのが大切なコミュニケーションのようです。
それは緊急時の必要性とは全く正反対なのですが「そういう希薄な友達関係なんて」という私の言葉は親父くさい説教にしか聞こえないようです。
それでは「社会」を形成できないと言うことを考えると、子供達は親から買ってもらった携帯を使って大人のまねごとから始め、大人達よりも無駄なく交信できるほど無意識に使いこなしています。自分たちの方法で「社会」を形成する入り口にいるとは言えないのでしょうか?
数ヶ月前より割り安の携帯がどんどんでてきていて、「とにかくこのくらいのもの自分で使いこなせないようじゃIT世界に遅れてしまう」とまでせがまれるともうとっくに親元から離れてしまっているような情けない気持ちすらしています。携帯を使いこなすのがとてもIT革命とは思えないと言いながら、こんなに親として考え込むのは初めてかもしれない。娘だということもあるようです。息子には持たせないと今から断言できるのですが・・・。
そこで
>お嫁に行かない東京出身の若いOL
このくだりが妙に引っかかります。やはり親元から離れたことがないこと=「社会」すら形成できないということですね。
私には「芦田の毎日」は正しい部分と極端でうなずけないことが交互にあり解読するのに大変です。他のテーマは全体に理解できればおもしろく読ませていただいてますが、
このテーマは年頃の接点が少なくなった我が娘との大切なテーマだけにこちらも年末の挨拶回りの忙しい中、書いてるわけです。
一体自分は娘にどんな大人になってほしいのか今非常に混乱しております。
2001/12/26(水)23:39 - 芦田宏直 - 103 hit(s)
普通の父親> >連絡が取れないことが家庭の意味を理解する第一歩だ
普通の父親> 確かに。でも子供達は親との連絡ではなくて友達との連絡が大切のようです。
もちろんです。だからこそ、「緊急時の連絡という名目」など(あなたの言われるとおり)名目にすぎないということを、私は言いたかったのです。私が言いたいのは、したがって、「友達との連絡」になるからこそ、与えるべきではないということを言いたかったのです。
あなたは、「たわいのないことであっても携帯メールでちょっとのやりとりを繰り返すのが大切なコミュニケーションのようです」と言い、それに対して「そういう希薄な友達関係なんて」という「親父くさい説教」をしますが、なるほど、それでは「親父くさい」かもしれない。私は、そこ(=「希薄な友達関係」)に携帯電話の罪悪を感じはしません。
携帯電話の子供にとっての罪悪は、そのメリットと裏腹です。「いつでもどこでも」連絡が取れる。だから一度、使い始めると止まらなくなる。特にメールをやり始めるとますます終わりがなくなる。おしゃべりだと「それじゃ」で終わることの実在感が(その声の調子とともに)まだありましたが、メールは、「これで終わりだ」と言っても言葉(書き言葉)だけのメッセージでは、本当に終わりかどうかわからない。だから、メールを始めると、その反応について脅迫的にならざるを得ない。「いつでもどこでも」のメールだから、いつだって反応はあり得るし、いつまでも反応はありえないかもしれない。だからいつまでも待つことになる。授業中であっても、電車の中や帰り道であっても、自宅であっても、就寝中であっても、それらの時間や空間に集中などできない。(潜在的には)ずーっと、待っている。だから何にも集中できない。寝ることさえできない。好きなテレビや映画を見ていても、分刻みで中断して携帯電話を見る。好きなテレビや映画でさえそうなのだから、授業中の勉強や予習や復習の自宅の勉強なんて、10分も集中できない。だからメールをやり始めるとどんどんバカになっていく。
「子供達は親から買ってもらった携帯を使って大人のまねごとから始め、大人達よりも無駄なく交信できるほど無意識に使いこなしています」とあなたは言いますが、逆です。メールは、分刻み、秒刻みの待ちとレスの神経症状態を作ることによって、「無駄」な時間を集積し続けるのです。この神経症は、学校に行っても、帰り道でも、街を歩いていても、電車の中でも、自宅でも生じているため、どこにいても、自分が移動している場所(や時間)の意味がわからない。彼女たちは、いつでも“同じ場所(同じ時間)”にしかいない。電車の中で携帯電話を利用している人が、なぜ、周囲の人は気になるのか。物理的なノイズとしてみれば、隣席の会話の方がはるかに大きなはずなのになぜ気になるのか。それは、その人だけがみんなで電車に乗っているという環境(時間と空間)から逸脱して、別のコミュニティに属しているからです。だから、携帯電話で話すだけではなく、メールのやりとりで指を動かすだけでも周囲の人は気になるのです。
だから、携帯メールは決して「『社会』を形成する入り口にいるとは言えない」のです。質のない会話は、社会的な会話とは言えません。
2001/11/12(月)12:58 - 芦田宏直 - 381 hit(s)
田中真紀子がどうしようもないのはわかるが、野党・民主党の菅直人が「国益や外交の連続性を損ねる」と言って彼女を批判するのはどういうことだ。大臣が何もしていないというのはどこの省庁でも同じなのに、与党のように「国益」を口にするのはどういうことか。今の官僚システムで「国益」を守っているところなどどこもない。「官益」を守っているところはあっても、「国益」など何一つ守っていない。だからこそ、“構造改革”だったのではないのか。民主党の、田中真紀子攻撃でほくそ笑んでいるのは、外務官僚と“国益”派の自民党議員たちにすぎない。こんな連中のいう“国益”というのは私益にすぎない。菅直人は田中真紀子を批判する前に外務省を批判すべきなのである。それが“政治”というものだろう。
「業務の連続性」だとか言うけれどもほとんどは私益の連続性を保持することだけが関心のありかなのだから、ほとんど無視すればいい。すべての外務官僚をクビにしても、今の外交程度ならば、三井物産でも充分にこなせるはずだ。「連続性」なんて言い出したら、すべての企業では人材更新や戦略転換をできなくなる。ダメな管理職ほど「業務の連続性」を主張してなわばりや権益を拡大していくのである。外務省であっても例外ではない。
なぜ、野党である民主党が官僚に嫌われている田中真紀子を攻撃するのか、全く意味不明だ。たぶん攻撃しやすいからだろうが、そういった攻撃のしやすい大臣を相手にする暇があるのなら、最近怪しげな石原伸晃(行革担当大臣)あたりを体系的に攻撃して、“構造改革”の言質を取ることのほうがよほど重要な気がする。与党が弱いものいじめをするのはわかるが、野党が弱いものいじめをするというのは、最初から政権をとる気がない卑屈な戦略だと言わざるを得ない。
2001/11/24(土)00:59 - 芦田宏直 - 334 hit(s)
今日の祝日(勤労感謝の日)は、快晴だった。こんな日は、きっと散髪屋は空いているだろうと思って電話をかけたら、やっぱり空いていた。「5分後に行きますから」と“予約”して、いつもの散髪屋さんに行った。私は東京に出てきて、約30年、6回引っ越しているが、散髪屋は2回しか変えていない。学生時代を含めた前半の10年くらいは、実家の京都に帰ったときにだけなじみの散髪屋に行き(というより、散髪するためにのみ京都に帰っていた)、中盤の10年は家内によるカット、残りの10年が東陽町の散髪屋と今の世田谷・粕谷の散髪屋さんだ。
散髪というのは、今時珍しく身体を介在させる作業であって、私はまず女性にカットしてもらうのが耐えられない。指先の感触が“愛撫”の連続のように感じるからだ。どんな“おばさん”にカットしてもらってもそうだ。今日(こんにち)の仕事や生活において、代理の効かない行動は、たぶん散髪という行為であって、第二に通勤という行為だ。満員電車の中では、いやおうなく、人間である自分が身体を有しているという“自覚”をせざるを得ないし、散髪は合法的に自らの身体に他人を介在させざるを得ない。第三には“病気”(診療と治療)があるが、これは健康である限りは日常的ではない。
仕事なんてものは、自分がいなくてもいつでも代わりがきくと思っておいた方がよい。これは、自分と同等かそれ以上に能力のある人間が職場にいるという意味ではなく、経営の本質は、自分が退いたときでも、組織が同じように(あるいはそれ以上に)回転する状態を作り出すことにあるからである。「こんな会社なんて俺がいなくなったら、直ちにつぶれるんだから」なんてほえている限りは、その管理職は無能な社員である。むしろ、経営(=管理職)の本質は代理にある。だけども、散髪だけは管理職であろうがなかろうが自分で行くしかない。秘書に任せるわけには行かない。会社を休むことはあっても散髪に行くことは休めない。
私は、この代理の効かない“散髪”という行為がいやでいやでしようがなかった。こんなに近くに人が寄ってきて好きなだけ髪の毛をさわり、切るなんて、恋人であっても、家内であってもここまでは近づいたり、さわったりはしないだろう。なんと“エッチ”な行為なのだろう。
だから、散髪屋を何度も変えるなんて、それは女房を取り替えるのと同じくらいスリルがありすぎて、とんでもないことなのだ。散髪屋を平気で変える人間は、自らの身体を上手に受け入れることができていないのである。
私の行く世田谷粕谷の散髪屋は、60代のご夫婦が営んでおられる。どこから見ても普通のご夫婦だが、お子さんがおられない。普通どころか、最初の頃は、奥さんは無粋だし、ご主人のぎょろっとした目が怖くて、「この夫婦、何が楽しみで生きているのだろう」と思っていた。たしか、7,8年前、ご主人が胆石か何かで入院されて、1,2ヶ月お店を不在にされたとき、「主人を看病に行っても、店を閉めるな、帰れ、と言うんですよ」と話しかけられ、なんで? と聞いたら、「だって、お客さんが他の店に行っちゃうと困るじゃないですか」とさりげなく答えられたのが印象に残っている。なるほど、なじみの散髪屋が店を休んでも、髪の毛は伸びるのだから、いくらなじみであっても“我慢”できることではない。他の店に行かざるを得ない。散髪屋というのはうまい下手というよりは、“なじみ”かどうかが決め手なのだから、店を不在にするというのは致命的なことなのだ。
「店を閉めるな、帰れ」と言われたご主人のコトバとそれを守って店の開店を死守しようとしたご夫人の緊張感がひしひしと伝わってきた。ご主人不在の入院中ちょうど店を通りかかったときに店じまいのカーテンを閉じようとしていたご夫人を見て、“頑張っているな”と思わず応援したくなったものだ(そう思っても毎日髪を切りに行くわけにはいかない。毛が薄い私にはとんでもないことだ)。こんな超平凡な(少なくとも私にはそう見えていた)日常の中にも重い日常があるのだと思ったら、急にこのご夫婦がほほえましく思えてきた。
今日の勤労感謝の日、このご主人からいい話を聞いた。
ここのご主人は青森県出身で、東京に出てきて修行され、粕谷に店を構えたのが昭和30年代。ところが、最初は、東京は修行の場にすぎず、一人前になったときには、青森に帰り、そこで店を構えることになっていた。青森で農業をされていたご主人のお父さんは、それを楽しみに、土地や店の資金を用意して待っていたらしい。たぶんそれがご自身の老後の最大の楽しみだったのだろう(地方出身の私にもよくわかる話だ)。
ご主人も、そのつもりで何度か青森に戻り、店の計画を具体化しようとされたが、こんな田舎で何ができるのだろう、と思われ、帰るのを急遽断念。東京に残って、東京で店を出すことを決意された。もちろん、お父様は失望され、激怒。それ以来勘当の日々が続いた。ご夫人との結婚式もされないままの(ご夫人はお父様にあったことがないままの結婚生活だった)、家族から孤立した日々の中で、粕谷に貸店舗ではあるけれど独力で最初に店を構えられ、8年後にはご自身の土地と店(=今の店)をお持ちになるようになった。
お店は、ふたりが努力をして軌道にのり、その4年目の(お父様は66才になられていた)夕方のことだった。「どこかでみたことのある人が店の前でタクシーから降りてきたんですよ」。よく見たら「親父だったんです。びっくりしました」。「心配で見に来られたんでしょう。ドラマみたいな一瞬ですね」と私。
そのまま、お父さんは一週間滞在されたらしいが、一日目は三人で同じ部屋に布団を並べて寝たらしいが、いびきがやかましくて、遠慮して次の日からは別の部屋に寝ることになったらしい。朝起きたときには、箒で部屋を掃除したりして、「そんなことは青森の家ではやったこともない親父だったのに」そうだったらしい。
緊張したのか二日目に歯が痛くなって、ご夫婦は歯医者に行かせることにした。これには作戦があった。なじみの歯医者と手を組んで、「一ヶ月くらい治療させることにしたんですよ。そしたら親父もゆっくりしてくれるじゃないですか」。なるほど、せっかくの父上の来京とはいえ、店を閉めるわけには行かない。「月曜日」しかゆっくりできないのだから、歯痛は、この心優しいご夫婦にとってチャンスだったのだ。
ところが、この歯医者に朝一番に行った「親父」がお昼になっても帰ってこない。「おかしいな、おまえ見てこい」といってご夫人を見に行かせたら、お父様が待合室に座ったまままだ順番を待っている。訊ねてみると、「わたしなんか急いでいないのだから」と言いながら、後からきた人を、どんどん先に送っていたらしい。確かに「戻ってこない」はずだ。
忙しいふたりに相手にされないまま、付近を散歩に行ったお父様。青森弁が通じない。まだ田んぼののこる粕谷の農夫に話しかけても青森弁が通じない。最後には「耳が聞こえない」そぶりをされたらしい。「東京の人は耳が遠い人が多いなあ」なんてうそぶいていたお父様。
お店ではたらくふたりを見ながら、「わざわざ、お店にきてくれるお客様からお金なんか取るんじゃないよ。ただにしてあげなさい」となんども「親父に言われた」。ご主人は、「東京は、お金をもらわないと生活できないところなんだよ」とそのつど“教えた”らしいが、最後まで納得されなかったそうだ。
そんなお父様も、例の一ヶ月作戦は実らず、1週間で青森に戻られた。戻ってからは、「東京はいいぞ。もう農業なんかやっている場合じゃない。もうそんな時代じゃない」と盛んに周囲の人たちに言われていたらしい。お父様はその後ほどなく病に倒れられ、和解の来京後2年で(70を前にして)お亡くなりになった。「たぶん、ご夫婦の元気で働く姿を見られて安心されたんですよ」と私。
私がそのとき思ったのは、66才にして「東京はいいぞ。もう農業なんかやっている場合じゃない。もうそんな時代じゃない」と思えるこのお父様があってこそ、ご主人の「帰らない」と言える若き決断があったのではではないか、ということだった。若いご主人の、またご夫婦の孤立は、決して孤立ではなかったのだ。お父様を拒絶した若い決断と長い勘当が、むしろお父様自身の夢を実現する道程だったのである。そう思うと、私の髪を切りながら淡々とお話になるご主人を鏡に映して、涙を隠すのが大変だった。いい勤労感謝の日だった。
2001/11/25(日)21:55 - 芦田宏直 - 381 hit(s)
土曜日夜の我が家の定番番組は8チャンネル「めちゃ×2イケてる!」。これを見ていたら、ナイナイの岡村が「♪♪♪大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ… 」と盛り上がって唱っていた。そう言えば、そんな歌があったな、と思って私も急に唱いたくなったが(聞きたくなったが)、そこしかわからない。たしかH2Oという歌手だったところまでは思い起こしたが、そこで、インターネット。YAHOO JAPANで「H2O 大人の階段」と“複合検索”をかけてみた。なんと204件もある。真っ先に出てきたのが、「大人の階段のぼーるー って歌ってた人誰か知ってる?」という同じ悩みで困っている人のサイトだった。
このサイトは「消息不明アーティスト」というインデックスがあって、そこで知りたい歌手や歌名を入れると情報交換のページに移ることになっている。ありがたいサイトだ。ここでは、アニメ「みゆき」の主題曲だったこと、「思い出がいっぱい」という曲名だったことがわかった。そう言われればそうだった、と思う程度の情報だが、普通はここまでもなかなか出てこない。YAHOOで次に出てきたサイトが決定的だった。なんと歌詞と曲が付いて(最新の携帯着メロなみの)流れてくる(以下参照のこと)。ここで(探し始めて数分で)、全体の曲と歌詞がつかめた(つい唱ってしまった)。さらに、この曲が「阿木燿子 作詞 鈴木キサブロー 作曲」であったことを知る。道理ですてきな曲なはずだ。となりにいた高一の息子に、「おまえの高校の卒業式の歌は、全員でこれを熱唱しろ」と言っておいた。
H2Oの歌は、特にボーカルの声が素敵だ。透明感ではない。単に硬質なわけでもない。たぶん青春の声なのだ。
☆想い出がいっぱい(作詞:阿木燿子 作曲:鈴木キサブロー)
古いアルバムの中に 隠れて想い出がいっぱい
無邪気な笑顔の下の
日付けは はるかなメモリー
時は無限のつながりで 終りを思いもしないね
手の届く宇宙は 限りなく澄んで
君を包んでいた
大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ
しあわせは誰かがきっと
運んでくれると 信じてるね
少女だったといつの日か 想う時がくるのさ
キラリ木洩れ陽のような
まぶしい想い出がいっぱい
ひとりだけ横向く 記念写真だね
恋を夢みる頃
ガラスの階段降りる ガラスの靴シンデレラさ
踊り場で足を止めて
時計の音 気にしている
少女だったとなつかしく 振り向く日があるのさ
大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ
しあわせは誰かがきっと
運んでくれると信じてるね
少女だったといつの日か 想う時がくるのさ
少女だったとなつかしく 振り向く日があるのさ
この歌手の中で一番素敵なのは、「しあわせは誰かがきっと 運んでくれると 信じてるね 少女だったといつの日か 想う時がくるのさ」というところだろう。“しあわせは、自分でつかむしかない”という大人の、ある意味で悲しい、寂しい、悲壮な認識を逆手にとって、それを「少女だった」という年齢に重ねるところが痛切だ。思わず泣けてくる。この「少女」の痛切感を「大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ」のさびに結びつけて、歌い上げる(目一杯大きな声を上げて)ことができるのが、またいい。痛切なほど歌い上げたくなる。これで忘年会のカラオケソングは決まりだ。
ところが、H2O事件は、これで終わらなかった。サイトを探っていくと、「翔んだカップル」というコトバが目に付いた。そうだ、そう言えば、「翔んだカップル」という番組(漫画をテレビドラマ化したもの。“巨匠”相米慎二によって映画化もされ、薬師丸ひろこ+鶴見慎吾の共演もよかった)の主題歌もH2Oだった。でも歌詞も曲名も浮かばない。もともと私が気に入っていたのは、この「翔んだカップル」の主題歌のH2Oだったことをまざまざと思い出し始めていた。そこで今度は「翔んだカップル」+H2Oで検索した。そうしたら、今度は、H2Oファンのサイトにぶち当たり、「翔んだカップル」の主題歌が「僕等のダイアリー」であることを知る。
そういえば、そうかという感じで、当時私は桂木文、轟二郎、柳沢慎吾などのその番組に夢中になるよりはこの「僕等のダイアリー」を聞くために見続けていたこと(でも桂木文は悪くはなかったが)をまた思い出し始めた。もともとは私は「思い出がいっぱい」派ではなく、「僕等のダイアリー」派だったのだ。だけど、先の着メロ風のサイトには「思い出がいっぱい」はあっても「僕等のダイアリー」はなかった。どこを探しても「僕等のダイアリー」の歌詞はあっても曲がない。
こうなったら買いに行くしかない。そう思ったのが夜中の0:50。TSUTAYAだ。成城にTSUTAYAがあったはず。検索だ。つたやの「つ」は「Sが入るよ」と息子に言われながら、検索すると、なぜか成城店だけがAM1:00終了。あきらめかかったが、千歳船橋は2:00まで。早速電話したが、「ありません」。しかしTSUTAYAのサイトは大変充実していて、どんなメディアでもデータベース化してあるのを知った。「僕らのダイヤリー」を検索すると「視聴」ができる。ここで曲が聴けた。思い出した。(NHKの「プロジェクトX」のアナウンサーの読み方で、この「ここで曲が聴けた。思い出した」を読んでください)。「夏色の雫」というタイトルで今年の6月のベストアルバムが出ている。しかも、1曲目が「思い出がいっぱい」、2曲目が「僕らのダイアリー」だ。「これだー」と声を出したが、もう夜中の2:00近く。「すべてが遅かった」(「プロジェクトX」)。
もちろん、TSUTAYAのオンラインショップでも購入できるが、配達が3日〜16日後と表示されてすぐにキャンセルした。一秒でも早く、聞きたい。こんな気持ちになったのは、ドリカムのデビュー曲以来のことだ。
いらいらしながら、朝、近辺のCDショップに5,6件電話をかけてみたが、「ありません」「H2Oはおいてありません」と冷たいものだ。探してもくれない。ひょっとしたら、昨日の「めちゃ×2イケてる!」を見ていた奴が、同じようにH2OのCDを探しているのかもしれない。そいつが先回りして在庫を減らしている、なんて被害妄想になったりしてしょげ始めていた。
結局、新宿のタワーレコードにあることがわかったが、今度は家族の誰が買いに行くのかが問題。「私一人で行くの?」と家内が先制的に脅迫。わざわざ、ふたりで行くようなところでもない。「でも自分で買いに行くのがファンでしょ」と詰め寄られる。太郎(息子)はどうかな、と私。「CD一枚買ってやるから、行って来てくれよ」「いいよ」。すんなり決まった(あとで、家内にそういったお使いのさせ方はよくないと怒られた)。
今は、ずーっと、一曲目「思い出がいっぱい」と二曲目「僕らのダイアリー」をリピートしながら、これを書いている。私は、やはり「僕らのダイアリー」の方がより好きだ。作詞は来生えつこ、作曲、来生たかおだ。星勝のアレンジもいい。詞はとりたてて言いわけではないのだけれど、曲調が若い男の心理を上手にのせていて、「ドンマイドンマイ今に見てろよ」なんていうときには、本当に女に仕返したくなる。これは曲を聴いてください。明日から一週間はずーっとテラハウスのインナーロビーでこの「思い出がいっぱい」と「僕らのダイアリー」が鳴り続けていると思います。
☆僕らのダイアリー(作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 編曲:星勝)
たかが恋などと 言ってくれるなよ
僕には大問題だ ややこしくて
女心には まるでお手上げさ
大胆不敵な天使 かなわないよ
キスの味はレモン・パイ 肌の香りラベンダー
その気にさせて肩すかし 僕をじらすよ
あちらこちらカップルが 翔んで翔んでうわの空
やたら僕を刺激する ドンマイドンマイ今に見てろよ
恋はフクザツで やたらせつないよ
日毎に大問題だ 悩ましくて
甘い言葉セクシーで のぼせすぎてグロッキー
その気にさせてラブ・パンチ 僕にくらわす
あちらこちらカップルが 翔んで翔んでうわの空
やたら僕を刺激する ドンマイドンマイ今に見てろよ
ところで、桂木文や轟二郎は、いま何をしているのだろう。もうおよそ20年前の歌と番組の出来事だが、ちょっと気になる、調査してみましょう。機会があればまたご報告します。
2001/11/27(火)11:38 - ふく。 - 175 hit(s)
「思い出がいっぱい」
この歌を中学の卒業式で歌ったことを思い出してしまいました。
そう言えばあの頃は、この歌の歌詞の意味が、どうも納得できずにいました。
この歌詞の中で一番素敵なのは、「大人の階段昇る 君は……シンデレラさ」ここだ。と思っていました。
“シンデレラ”だなんて、なんだかロマンチックな表現に魅了されていたのです。
そして、「少女だったといつの日か 想う時がくるのさ」この部分は、いらない。と思って歌っていました。
君はシンデレラさ。と持ち上げられて。
でも結局は、いつまでもシンデレラでいられると思ったら大間違いだ。
と叩き落とされる感じが、なんだか嫌だったのです。
(ただ単に「シンデレラだ」と言ってくれればいいのに、何で変な忠告するんだろう…。
「しあわせは誰かがきっと 運んでくれると」そう信じてて何が悪いの?夢見る少女心は大切なんじゃないの?人を信じちゃいけないの?
そもそも、そんなに“信じてる”って程でもないし。私は大人になってもシンデレラでいたい。
などなど言い訳しながら、“複雑な気持ちで”歌っていたのです。)
ところが今になって考えてみると。
幸せは誰かがきっと運んでくれると“信じて”きた自分に改めて気づきます。
あれから10年も経って最近、ある出来事を通して、もっと自分に自信を持って自分から一歩踏み出さなきゃいけない。と思い、そして今年の夏、自分の力で何かを始めたくて、一歩踏み出して、テラハウスの門をくぐったのです。
H2Oの予告通り、そう思う時(少女だったと想う時)が本当に来るなんて。これは驚きです。
この歌の歌詞を本当の意味で理解できた今、中学(少女)時代に、この歌を歌うことができて良かったと思し、この歌詞の中で一番素敵なのは、「……少女だったといつの日か 想う時がくるのさ」ここだ。と言えるし、10年も経ってからこんな風に考えさせられるこの曲は、かなり名曲だと思うのです。
H2Oの思惑(?)に見事にはまった私も、
今年の忘年会では是非、この歌を“さわやかに”歌うしかない!と思っています。
(ちなみに、私は土日定額コースなので、土日もロビーで流して頂けると嬉しいです。)
全体的に私的な内容で失礼しました…。
2001/11/25(日)22:56 - 芦田宏直 - 220 hit(s)
「勤労感謝の日」の散髪屋さんの話ではないが、20年前の自分の青春ソングを、16才になった自分の息子に買いに行かせるというのも、感慨ひとしおだ。まっただ中の私の“青春”において自分の子供のことなんか思いもしなかった。思う暇も余裕もなかった。それが(もう一度)青春している若い息子が電車に乗って父の青春ソングを新宿まで買いにいこうとする。そんなことなどもっと考えもしなかった。時間が逆転している。〈親子〉というものは、散髪屋さんの親子のように時間が逆転している。考えもしなかったことが逆転しつつ起こっていく。これが〈伝承〉というものだ。伝承は、将来に向けてではなく、過去に向かって受け渡されていく。考えもしなかったことが実は反復されている。〈反復〉とは同じものの反復ではなく、思いもしなかったことの反復なのだ。そうやって伝承は、過去に向かって受け渡されていく。伝承とは青春なのである。ぜひ「思い出がいっぱい」を息子の卒業式に唱わせたいものだ。
2001/11/27(火)10:26 - 門外漢 - 162 hit(s)
本題の趣旨とは違うかもしれませんが、もちろん、昔懐かしでもないのですが、
本日、新聞を見ていたら「ベスト・オブ・ステージ101」なるCDが発売中とのことです。
「若い旅」とか「涙をこえて」とか、おもわず購入してしまいました。
http://www.ultra-vybe.co.jp/101/101top.htm
http://www.ultra-vybe.co.jp/101/101.htm
2001/11/27(火)23:43 - 芦田宏直 - 160 hit(s)
今日、またもや新宿のタワーレコードにそのベストオブステージ101を(家内に)買わせに行かせましたが、ひどいものでした。特に塩見大治郎の「若い旅」なんてサイテーでした。当時と違うアレンジであったのがショックの原因です。こういった“なつかしもの”は、当時と同じものを再現しなくてはいけません。当時と同じだからこそ新しいのであって、その新しさこそ“思い出”になりうるのです。反復があたらしさの源であって、現在でも通用するものが反復されるのではありません。そんな普遍性などどこにも存在していない。
天地真理やあべ静江なんて、この世に年を取って(太って)登場してはいけないのです。尾崎紀世彦(「また逢う日まで」)も舟木一夫(「高校三年生」)も、昔唱った歌い方を勝手に当世風にアレンジして唱ってはいけません。そうやって、現在の自分によって、自分の過去を否定するのは、自分の現在そのものを否定しているからです(自分の現在を否定的にしか受容できない)。いわゆるコンプレックスというものです。現在もメジャーでなければ、過去の歌を過去的に歌うことなどできないのです。過去を素直に再現できないということは、現在を受容するプロセスに欠陥があるのです。そうやって、舟木一夫も尾崎紀世彦も“堕落”しています。
2001/11/29(木)00:38 - ぽこあぽこ - 188 hit(s)
伝承とは青春、とのことですが、思わず16歳になった娘と2人で読みふけってしまい、「キミはまだシンデレラさ〜〜」と合唱(!?)。
逆転の発想に敬服。三者面談が控えて、進路とは人生をどう生きるかみつける事ができさえすればどうでもいいことなのではないか、(逆も真なり)と激論を戦わせたあとだけにしんみりしてしまいました。
しあわせは自分でつかむものでしょうか?これがしあわせ、と本人が確信するならば、橋の下が住まいであろうが貧乏であろうが、しあわせなんですよね。
とするならば、あるがままをすんなりと受け入れて自然体でいられることがしあわせ、即ち獲得するものとは限らないとも考えます。ただし私個人がこだわるしあわせとは他の人々との関係を切って考える事はできない、という点です。(携帯電話の話に出てきた社会性と関係すると思いますが)他者との関係性の中で育まれないしあわせは、ヒトという社会性を持った生物にはそぐわないのではないかと。(またも携帯電話につながってしまいますが、その意味においてクラスで最後の携帯電話不保持者の立場を娘に死守(?)して貰っています)ほかの人が持ってくるしあわせなんていやだよなあ、と少女の頃(があった)思っていた私はかなり傲慢で不遜で嫌な奴だったのか・・・
本題に戻って、そう、思っても見ない形で反復されていくのですね。高校生の頃も大学生の頃も子供を持つなんて考えもしなかったのに・・・歌い終わった娘が曰く、普段からよく吹いている(彼女はクラリネット吹き)そうで、しっかり”思わぬ形で”継承・・・いえ、伝承されているのでした。論点が飛び飛びですがお許し下さい。(レポートなら不可、かな?)
2001/11/29(木)23:49 - 芦田宏直 - 129 hit(s)
「ただし私個人がこだわるしあわせとは他の人々との関係を切って考える事はできない、という点です。(携帯電話の話に出てきた社会性と関係すると思いますが)他者との関係性の中で育まれないしあわせは、ヒトという社会性を持った生物にはそぐわないのではないかと」。
ここは違うような気がします。ではおたずねしますが、「他者との関係性の中で育まれないしあわせ」とあなたが言う場合、たとえば、太陽とひまわりとの関係は、あなたの言う「他者との関係性」の中に入りますか、入りませんか。
“関係”という意味では自然物でさえ、“関係”を持っています。まして動物同士ならもっと“関係”を持っています。場合によっては、「ヒトという社会性」よりははるかに「社会」的であるのが“自然”であり、“植物”“動物”です。
だから私は「社会なんてつまらない」と言ったのです(→)。「他者との関係性」「ヒトという社会性」と言ってもそれだけでは「ヒト」の本性や特性を言ったことにはなりません。太陽の方をひまわりが「向く」ように、「ヒト」は好きな「ヒト」に「向く」。なんとつまらない“関係”でしょうか。
2001/11/30(金)01:12 - 佐藤 - 101 hit(s)
いやーまたちょっとわかった気がしてしまいました。自分でぶちあたった問題や気になる事が頭の中に沢山あって、その1つがクリアになったような感じが、「社会なんてつまらない」= 自然、植物、動物がなによりも「社会」的なんだという話を聞いて、しました。同様にデジャブじゃないけど、会社の中で仕事を覚えていく最中で放ったままの数々の問題や気になっていた事が、時間の経過によって何かのきっかけでクリアになっていくことに日々、快感を得て仕事をしているので、同じような気分になりました。今の僕にとっては「仕事」と「勉強」がイコールになっているのかな、と思いました。確かに「仕事」も「勉強」もできるようになってくると、快感だし、自信を持てるようになってくるので、これは良い傾向かなと思います。
それにしても、あのロビーでの歌謡曲はなにげに評判がいいのですね・・・。私も大好きですが・・・。歯医者とかで流れてる、わけのわからんクラッシクよりずーっと良いと思います。歌謡曲が持つ最大のパワーって親近感なのかななんて思います。共産主義の理想じゃないけど、みんなが同じだけ幸せになれる・・・なんて。
バカな事グダグダ書きました。すみません。
佐藤@深夜障害対応中(自宅からTelnet...リセット復旧待ち)
2001/11/30(金)02:04 - ぽこあぽこ - 170 hit(s)
お約束のコメントのつもりで軽くUPしたつもりでしたのに、早速のレスポンスにビックリしています。
ひまわりと太陽はたしかに関係を持っています。そして自然界がはるかに社会的であることも事実です。
ですが他者との関係、で言及したのは自然物との関係性をヒトが超越している、と言いたかったのではなく、
ヒトという種として(実存的な意味で)生きていく上で(或いは死んでいく上で)意識する・しないに拘らず、沢山の人(や事物)を煩わせて存在していることに言及したかったのです。
たとえば私が一歩踏み出しただけで迷惑を蒙っている人もいる、存在しているだけでも不愉快に思う人もいる、それを"明確に意識"して生活していくべきなのがヒトの社会性の一部を成すのではないかと考えます。
(ひまわりや太陽はそんなことを意識したりはしない・・・するのかな。)居心地の良い相手のほうばかりを向いているのが社会性だとしたら、それこそつまらない"社会"ではありませんか!
他の人々との関係で育まれるしあわせ、とは、"知らずに踏みにじっていく様々なものを認識し、そこに想像力を働かせ、しかしなおかつエゴイステックである自分をも客観的に認識し(自分という他者を受け入れ)、その上で自分が存在する為の関係性をあるがままに受け入れる事"、と定義すると良いでしょうか。
その意味において、太陽とひまわりの関係は「他者との関係性」の中に入りません、とお答えします。
但し傍から"不幸せ"に見えてもその人の価値基準では"幸せ"ならばそれでよいではないか、と考えるわけです。多様性は必要です。(アスペルガーの子供に「あなたの幸せのため」と社会に押し込んだとしたらそれは苦痛でしかないのですから)なので"私個人の"と限定しました。
発達心理、障害児教育の立場で考えるクセがついているので、当たり前のように「ヒトという社会性を持った生物」65、と言及してしまいました。
そんなつまらない学問、とおっしゃらないでくださいね。これはこれで考える切り口を与えるものですから。
2001/11/30(金)08:35 - 芦田宏直 - 132 hit(s)
「意識」し、「認識」し、「想像力を働かせ」ても「迷惑を蒙っている人もいる、存在しているだけでも不愉快に思う人もいる」。「迷惑」も「不愉快」もそれでもって減るわけでも増えるわけでもありません。それが、「社会」というものです。だからつまらないのです。同じように「しあわせ」もひとそれぞれです。だからつまらないのです。「社会」がつまらないのならば、「しあわせ」もつまらないものです。「あなたの幸せのために」なんて、ファシズム(「社会」主義)です。
2001/11/30(金)09:05 - ぽこあぽこ - 141 hit(s)
あ、それはもう同感です。先生のおっしゃる社会がつまらない、の意も。(時間がないのでうまく表現できません。また後ほど再考します。)
「あなたの幸せのために」・・押しつけ以外の何物でもない、と。
2001/12/2(日)03:32 - 芦田宏直 - 205 hit(s)
今日の夜9:00、テレビ朝日の日曜洋画劇場「交渉人」、ぜひ見てください。おすすめの映画です。サミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーとが何とも言えない敵役で登場します。特にケビン・スペイシーの何を考えているのかいつもわからないとぼけた演技がこの映画では高度な緊張感を作り出していて、映画全体を引き締めています。私は高層ビルとヘリコプターが舞台になっている設定の映画はどんな映画でも好きなのですが、この映画は無条件でおすすめします。
ただし、この映画の特徴をもう一つ言えば、これはあきらかにホモの映画だということです。女性の描き方が貧弱すぎるくらい貧弱。この感じは、同じく名作「L.A.コンフィデンシャル」を見たときの感じと似ています。この映画も一種のホモ映画です。どちらも(女なしに、男同士で)男の哀愁が描かれていて、不思議な映画なのです。
2001/12/16(日)23:01 - 芦田宏直 - 158 hit(s)
「天使のくれた時間」。ふと自らの結婚生活を省みてしまう映画だ。この「芦田の毎日」でも「社会はつまらない」“キャンペーン”をずーっとはってきているが、結婚の「社会」化を上手に皮肉っていて、いい映画だった。「社会なんてつまらない」と、監督:ブレット・ラトナー( Brett Ratner )も言いたいのだ。ニコラスケイジはいつもの通りの演技だが(彼はやっぱりカツラをつけている、ハゲ俳優だというのをこの映画で再度確信した)、相手役のティア・レオーニが何とも言えないいい味を出していた。
感じはアネットベニングに似ている。アネットベニングのショートカットが魅力的なようにティア・レオーニもなかなかのもので、素敵だった。「アメリカンビューティ」のアネットベニングはまったくいいとこなしだったが、「心の旅」(1991)や「アメリカンプレジデント」(1995)のアネットベニングのショートカットは最高だった。年をとっても髪の毛を垂らしている女性には気を付けた方がいい。
アネットベニングに負けないくらいに、ティア・レオーニの髪型は素敵だった。アネットベニングに比べると、シーンごとに顔の表情が不安定で、どうってことない女優に見えるときと、素敵なときとの振幅が大きくて、それがまた魅力的なのかもしれない。仕事に忙殺されて(=仕事がちょうどおもしろくなってきて)、家族を「社会」の中で見失っている中年の夫婦にはちょうどいい映画ではないでしょうか。ご夫婦で見てください。
家族で見るのにいいのは、「ザ・ダイバー」です。ロバートデニーロが久しぶりにいい。彼でないとできないような役どころででています。あまり好きな俳優ではないのですが、この映画ではよかった。おかしいのは、「サイダーハウスルール」のシャリーズセロンが、まったくどうでもいいところ(デニーロと大きく年齢の違う奥さん役)ででてくるところ。最初、どこかで見た女優だなと思っていたら、セロンでした。たぶん、デニーロがセロンでないといやだ、とわがままを言ったのではないでしょうか。明石家さんまが、米倉涼子を引き連れて番組を作っている“違和感”と同じです。最後の数分は脚本が息切れして通俗的でしたが、デニーロの演技だけでも見物です。わがままを言う(言える)だけのことはあります。
2001/12/17(月)07:24 - ぽこあぽこ - 111 hit(s)
「社会はつまらない」キャンペーンに参加させてあげたい映画に「A.I」も。
当時アプリケーションACCESS病に伝染していた私は"I am unique!"に過剰に反応し、思考が逸れっぱなし、でも、それでも。
大衆娯楽映画にしては社会をニュートラルに捉えていて..減殺される部分...かなりありますが...をさしひいても。
次女は「(こどもに)愛してるなんて最初っから言えばいいのにね」とぽつり。
子供にもわかる「社会はつまらないキャンペーン」なんてどうですか?
9歳の次女付きで観賞するには「サイダーハウスルール」は厳しいものがあり、涙をのんで(?)断念しました。
「天使のくれた時間」も見たいなあ。映画で。
2001/12/17(月)13:24 - 芦田宏直 - 149 hit(s)
「映画で」ですか。私はいつも残念ながら「レンタルビデオ(レンタルDVD)」で見ています。だから、ほとんど一年遅れの映画鑑賞になります。たしかに、映画で、たくさんの人と一緒に見るのは楽しい。反応の凸凹をある程度共有しながら見るのは楽しい。涙が出ているのを映画の最後の最後、出演者・スタッフの紹介が緩やかに流れているうちに乾かしたりするのもいい。その続きにトイレに行って、見つからないように涙をぬぐうのもいい。でも、そんなに劇場に行く時間なんてないですよ。
我が家では、元旦に映画に行く“風習”があって、新宿伊勢丹あたりの映画館を午後から2本はしごして、最後は西口の“天狗”でDINNERを食べて終わりということになっています(うろうろしていますので見かけたら声をかけてください)。それ以外に映画館へ行くことはありません。10年続いたこの風習も(初期の頃はゴジラものばかりを見せられていました)、今年は長男の高校受験で断念しましたが、そのために、自宅にホームシアター体制をひき、もっぱらDVDホームシアターで鑑賞しています(この間の経緯は「芦田の毎日」188番の記事 に詳しい)。一年に一回しか行かない非劇場派(=レンタル派)だから、私の映画紹介は季節はずれなのですが、しかしみなさんに紹介するためにはその10倍くらいの駄作を見続けていることになります。最低でも月10本は見ていますから(3本2泊三日1000円サービスで毎週金曜日に借りています)、やはり当たりはずれが多いわけです。
ところで、「天使のくれた時間」を見ていて、思わず笑ったのは、例のゼニヤ(Ermenegildo Zegna)のスーツをほしがるニコラスケイジのシーンが出てきたところです。そんな高いスーツを(買ってはダメです)、と言って奥さんのティア・レオーニは一笑に付してしまいますが、結婚記念日にZEENAとかいう安い疑似ブランドのスーツをティア・レオーニはニコラスケイジに(心を込めて)買ってあげます。こうやって文字で書くとどうってことないようですが、映像では見事なシーンを形成していて、監督の力量が存分に発揮されているシーンです。私も例の騒動がなければ(447番「ザウルスよ、さらば」の後半で私のゼニヤ騒動にふれています)、このシーンがどこまで理解できたかわかりませんが、素敵な映画の素敵な場面の一つです。
2001/12/18(火)22:52 - 芦田宏直 - 174 hit(s)
明日(19日)、夜10:00より(〜11:30)、テラハウス第14期(2002/4月〜10月)新カリキュラム作成会議第一回目の開催。全世界にその様子を実況WEB中継。テラハウスインナーロビーカメラにてその様子を見ることができます。会議をロビーでやるだけのことですが、関心のある方はぜひご覧ください。ただし、時間が時間ですので、ドミノピザとお寿司の差し入れが途中に入り、食事中の中継も入っています。ちょっと行儀の悪い会議かもしれませんが、日頃、教鞭をとっている先生達が、どんな感じでカリキュラム作成に参加しているのかを見るのもおもしろいかもしれません。こういった会議を3〜5回繰り返して新しいカリキュラムができあがっていきます。
第一回会議の要件は、以下の通り。
(1) 受講生の人気のある講座と人気のない講座の特定
(2) 上記(1)の問題は、講師に問題があるのか、講座内容や講座体制に問題があるのかの特定
(3) 内容理解について密度が濃すぎた講座(関連講座の新設)、薄すぎた講座の特定(講座再編)
(4) 不要になりつつある技術に関係のある講座の廃棄
(5) 新技術の動向を反映した講座の新設
2001/12/19(水)13:45 - ゆうき - 168 hit(s)
数ヶ月前、夜中にテラハウスのホームページで講座の予定を調べていた時(私は受講生でした)、ロビー生中継というコーナーを何気なくあけて見たところ大勢の人たちがなんだか楽しそうに会議らしきものをしていて、その中に私の講座の先生によく似た人がいるのを発見しました。
おいおい、先生達なのか? 芦田所長もいるぞ、でもこんなにおそくに打ち合わせをしてくれてるのかと思い、その次の講座からちょっと襟を正すような気持ちになってしまいました。
でも「あれはなにをしていたのですか?」と聞くのも恥かしく(のぞきみしたみたいで)それからなんとなくテラハウスの先生達を観察してしまうようになりました。
私は雑誌でテラハウスを知り電話をしたら転送されて所長に直接つながってすごく丁寧に説明をしてもらい体験受講だけでもしなきゃとことわりにくいきもちになってしまい、体験したら「ここはいいかも」となって、受講生となりました。
テラハウス全体には何の興味も無かったのですが、ロビー生中継を見てからここの先生達は皆個性的でこだわりのある人が多いと感じるようになりました。
それは、先生方一人一人が自立していてきまりやノルマで教えてるのでは無さそうだという事。
でも仕事として考えるとそういうことはなかなか難しい事だということに気が付き、職場で自分の仕事のやりかたにかなり刺激を受けたような気がしています。
今でも、余裕があれば次のスッテップの講座をいつでも受けたい気持ちです。
というわけで、それからちょくちょく「芦田の毎日」も拝見しています。難しい内容には首をかしげたり、リンクをのぞいて自分のお気に入りに入れたりする程度ですが。
今日はちょっとお邪魔してみました。今夜は差し入れできませんが、いつかまた宜しくお願いします。