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20 7/15(月)
20:40:56
 東京工科専門学校の教育改革(4)  メール転送 芦田宏直  2263 

 
 授業評価を曖昧にするものはまだたくさんある。
 
 実習授業の履修評価も、いい加減なものが多い。実習授業の履修判定は、ほとんどの場合、作品提出か、実習作業のチェック(実際に実習作業をやらせて、その行為の妥当性を評価するもの)のどちらかである。

 作品評価の担当教員は、「作品を見ればわかる」というが、それはよほど優れた作品か、よほどひどい作品のどちらかの場合であって(つまり誰が見ても、専門家でなくてもわかる作品の場合であって)、たいがいは優劣を付けがたい中間的な作品が多い。なぜ、この学生が不合格的で、なぜこの学生が合格かの明確なラインは、作品(の存在)だけでは見えてこない。ほとんどは教員の好みにすぎない。

 なぜそうなるのか。それは作品というオブジェクトに評価指標(技術指標や創造性の指標)が紛れ込んでおり、いったいこの作品が作品として存在しうる指標の何をどこまで満たしているのかを明確化する手だてそれ自体は、作品の中にはないからである。それは作品を評価した教員の胸の内にしかない。ほめられてもけなされてもわけもわからずそうだというのが、作品履修判定の実際だった。これでは、よほど著名な創作家を教員にする以外に、評価の社会性(=信用)を勝ち取ることは不可能だ。

 実習作業の評価も同じことが言える。あることが〈できる〉か、〈できない〉かという評価は、一見実践的で高度な教育目標のように思えるが、しかし一方でわかりもしないのに〈できる〉学生を作り出しているのではないか(厳密に言えば、わからないとできないような高度な実践課題を見いだせていないのではないか)。実習授業や実務教育を特徴とする専門学校の実習評価には、特にその傾向が強かったのではないか? 意味を理解しないまま黙々と作業に従事するというマニュアル職の職業人を作り出してきた要因がそこにあるのではないか? 

 〈作品主義〉と〈実習主義〉に共通する誤りは、両者が結果しか見ていないという点にある。教育課程の学生に必要な履修判定は、その学生がその作品を通して、あるいは実習行為を通じて、どんな〈能力〉を身につけたかを判定することであって、能力の判定=作品(or 行為)判定ではない。〈作品〉や〈行為〉評価は〈現在〉しか見ていないが、〈能力〉評価は〈未来〉を見ている。“その”学生が別の課題を与えられたとしたら(課題と蓄積がゼロリセットされたとしたら)、一体何をどこまでできるだろうか、その力を評価することが〈能力〉評価であって、それは現に今ある〈作品〉や〈行為〉を直接的に評価することとは何の関係もない。

 重要なことは、作品や行為の中にある技術の指標や創造性の指標を、作品や行為の現在とは離れて独立して取り出すことである。教育目標の設定は、まず真っ先に、この指標を取り出すことなしにはあり得ない。この指標をカバーするためには、どんな作品ができていなければならないのか、どんなことが〈できる〉のでなければならないのか、が明らかになっていなければならない。作品を作る能力を養成することが教育の目標であって、作品を作ることが目標なのではない。現状は、この逆になっているのである。(次号に続く)


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