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 番号 日付  題名 投稿者 返信元  読出数
102 2/13(木)
00:09:34
 Hさんの家族へ ― 私は本気です。  メール転送 芦田宏直  No.101  4106 

 
 学校選択の最大の悲劇は、学校を選ぶことで何かを選んだと勘違いすることです。確かに私立学校の方がはるかに先生は優れていますが、子供にとっては最高の先生は〈親〉です。〈親〉が変わらない限り、何も選んだりすることはできません。最高の選択は、親を変えることです。しかし変えられないものを〈親〉といいます。子供の階級を、学校を選択することによって選択できると思うことこそ、幻想です。学校にそんな力はありません。重要なことは、親が自分の子供を信じられるかどうか、自分の子供に何を伝えられ得るかだけです。

 学校や友人や地域を選ぶことによって、子供の教育が可能だと思うこと、それを“成り上がり根性”と呼ぶのです。最大のNobilityとは何か。それは、どんな学校や友人や地域の中にあっても、自分の子供を最後まで愛すること、親が誰(学校や友人や地域)にも負けない子供への愛を信じることです。私立中学校へ子供を通わせるというのは、卑屈なNobilityにすぎません。結局のところ、自分の子供の力、自分が子供を育てたことの意味をわかってはいないのです。

 親の学歴や分別や配慮が問題ではなく、子供を信じる力、子供への愛情が子供を育てるのだということを、もう一度原点に戻って考えるべきです。この場合の愛情の有無というのは、能力(愛情の能力)の問題ではありません。そういった能力がないから私立中学へ入れて、ある種の“安心”を買うという問題ではもとからないのです。そんな安心こそが幻想だと言っているのです。そもそも「公立中学校の教科書は薄いから」なんていう心配を本気でするのなら、東大に合格するためには、どんな学校の教科書も薄いというべきです。どんな学校の教科書であっても、教科書では入学できない大学を“一流”大学というのです。また、私が大学院で席を同じうした「英語の発音がきれい」(留学体験すら豊富な)女子学院や桜蔭中学出身の女子学生たちは、T.S.エリオットのエッセイすら(あんなに簡単な英語ですら)まともに訳せませんでした。学校が教えることなどたかが知れているのです。どんな場合でも、学校が子供を進学させるのではなくて、子供が“進学”するのです。

 私学への“進学”や“安心”がうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。公立中学へ入れてうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。それは、現実的にも理論的にも全く等価です。育つものは育つし、育たないものは育たない。それだけのことです。それだけのことにすぎないのに、学校選択を“安心”だと思うその傾向が卑屈だと言っているのです。親が基本的にコンプレックスを持っているのです。だから、自分の子供への関わり方も否定的にしか関われない。子供のことを結果信じることができない。“評判”や“知見”でしか、自分や自分の家族を評価できない。だから、「いい学校」へ入れても、それを「いい」と思う親のそばにいること自体が子供への害悪です。子供の本当の能力が見えていないのです。

 親が最高の先生であり得るのは、“評判”や“知見”以前に子供を裁くこと(あるいは許すこと)ができるからです。それが、最大の〈教育〉です。それが親の最大の責務であって、学校を選択することなどどうでもいいことです。親が社会的でないこと、それが親の子供に対する最大の教育なのです。家庭は(くだらぬ社会学が言うように)「社会の基本単位」ではありません。家庭はもともと反社会的なものです。それを私は、「子供を信じること」(親であることを信じること)と言ったのです。そうやって自分すら信じることができない子供を誰が育ててくれるというのですか。卑屈なNobilityの集団。それが東京の私立中学校というものです。それは結局のところ、家族の力を信じていない者たちの集団なのです。


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