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先週の土曜日(7日)に息子の高校の入学式に行って来た。入学式が始まったとたんに、君が代斉唱だったが、突然、教員の司会者が「思想・信条の自由がありますので、起立、斉唱は強制しません」。びっくりした。保護者も戸惑う。最初にごく少数、数人の父兄が立ったが、その目立ちようが異様だった。緊張感が異様。歌い始めてからも、ゆっくりぽつぽつと立つ人がいたが、その遅れがまた、保護者たちの動揺、不安をあらわしていた。
入学式の最初がそうだったから、最後まで不快感が残ってしまった。まずい学校を選んでしまったな、と思った保護者もいたかもしれない。入学式にこんなことを考えさせる学校もめずらしい。
いったいどういうことなのか。なぜ、“国旗”や“国歌”についての取り扱いが「思想と信条」が違うと自由にしていいのか。「思想と信条」が違うと国歌や国旗は“自由”に扱っていいのか。
そんなことを言い出すと校歌、社歌の場合はどうなるのだろう(この学校は校歌を唱わせるときは「一同起立」と命令していたが、なんとこの学校の校是は「自主、自立」だと何度も誇らしげに語っていたのに … )。校歌や社歌は、その人が選んで入った学校や会社だから、「思想と信条」に反することはあり得ないのだろうか。
それであれば、国家だって、国籍を変えることが絶対的に不可能だということでもない。そもそも「思想と信条の自由」ということ自体が国家の精神であって、「思想と信条の自由」のない国家だっていくらでもある。「思想と信条」が違うから歌えないというのなら、それは「君が代」に反対しているのではなくて、国歌そのものに反対しているのだろう。
どんなに民主的に国歌を決めたとしても、国歌というものはその国家にとって一個しかないだろうから、個人的な「思想と信条」の違いは出てくるはずで、となると「思想と信条」で反対する人は、国歌=国家そのものに反対していることになる。
それは「他人(女性)のいやがることをすることがセクハラだ」という“定義”とほとんど同じくらいにくだらない理由でもって、国歌=国家に反対しているのである。
こういうこと(国歌や国旗、あるいは国家そのもの)に違和感をもつ人たちがいるということは、誰でもが知っている。たぶん直接には第二次大戦での中国、朝鮮半島を含めた東南アジアへの日本の“侵略戦争”に対する反省からそうなのだろう。国歌や国旗は、その“侵略”の象徴だったからだ。それを否定する気はない。
しかし国歌や国旗というもの、あるいは一国の歴史というものはそういうものだ。悪いこと、良いこと含めて一国の歴史だ。何を悪いこと、何を良いこととみなすかどうかは議論のあるところだろうが、悪いことを刻印していないような国旗も国歌(あるいは国家)もこの世には存在してはいない。
それは人の名前がそうであるように〈形式〉というものなのである。形式というものは、その意味でもとから暴力的なものだ。自分が決めたものではないという点で。
生まれたときにはすでにあったものが国歌や国旗や名前なのであって、それらを自分(たち)で決めることができるのは、歴史のない国家か“水商売”の女性たち以外にはいないだろう。
そもそも民主主義でさえ、その決定を民主主義的に(多数決で)決めるということ自体は、民主的に(多数決で)決められないだろうから、形式的(暴力的)なものなのである。
結局、国歌や国旗を自分で決めたい人、国家の犯罪を国旗や国歌に刻印したくない人は、逆に〈歴史〉を否定している人たちなのだ。悪いことをした人がいちいち名前を変えていたら、いくつ名前があっても足りないだろう。
悪いことをしたことの反省というのは、その変わらない名前を背負ってこその反省である。歴史というのは、変わらない名前(変わらない名前というより、名前というのは変わらないから名前なのである)があってこそ、悲劇であったり喜劇であったりすることができる。歴史とは名前のことである。
良い歴史、悪い歴史などというものがあるわけがなく、良いも悪いも〈歴史〉〈である〉。〈歴史〉とは〈存在〉そのものだ。善悪を超えたものが〈歴史〉である。国家犯罪に対する反省のためというのなら、国歌や国旗を変えたからといって、反省心の表現にはならないし、犯罪も消えるわけではない。むしろその汚辱の表現として長く存続させた方が、反省の契機になってよいかもしれない。無くすことによって忘れることの弊害の方が大きいかもしれない。
もちろんそんなこと(存続させた方が反省しやすいということ)は根拠のないことだ。それは、アジアの人のために国旗や国歌は変えた方がよいということに根拠がないことと同じことである。
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