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「一流」とは何か?[社会・思想]
(2001-04-17 02:01:21) by 芦田 宏直


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この間、わが校生え抜きの講師が某大手ベンダーから引き抜きの誘いを受けた。

本人は、結構うれしそうに、「これは芦田さんには内緒にしてね、と言われたんですけどね」だって。なさけないことだ。そう言われてひるんだ瞬間、このわが校講師は、本当の意味で「二流」の人間に成り下がったわけだ。私は、なぜ、「あなたこそ、わが校で一緒に私と働きませんか」とすぐさま言い返せなかったのか、とその講師をしかりつけた。

私は、こういった問題は「一流問題」と呼ぶことにしている。

一人の人間が、こつこつと努力してそれが認められてメジャーになる。いわゆる「出世」。これはよくあることだ。

たとえば、お笑いの西川きよしが「出世」して国会議員になる。お笑いのたけしが「出世」して映画監督になる。同じくお笑いの島田紳助が「出世」してニュースキャスターになる。

しかしこういった「出世」はどことなくうさんくさい。

たとえば同じ芸人でもタモリや明石家さんまは、こういった「出世」の仕方を拒んでいる。彼らは「出世」したからといって、「国会議員」や「知識人」「文化人」にはならない。要するに芸人としては(あるいは思想家としても)タモリや明石家さんまの方がはるかに優れている。こういった違いはどこから出てくるのだろう。

結局、西川きよしもたけしも紳助も自分にコンプレックス ― 現在の自分を否定的に考える性向。この性向の究極がキリスト教。「原罪」というやつ ― があるのだろう。

自分にコンプレックスがあるということの意味は何か。自分の存在の評価を他者による評価によって図ろうとすることだ。

他人にほめられると自分を過度に甘やかし、他人が非難すると極端に自信喪失する。自分で自分のしていることを評価できない。

ほめられても簡単には納得しない。けなされても落ち込んだりはしない。そういった自己評価ができない。自己評価することができないと通俗的な既成の世界秩序(=世間)に頼らざるを得なくなる。

最近、島田紳助は、松本人志と深夜番組(日本テレビ)で対談する番組をレギュラー化しているが、紳助の、松本へのこのすりよりは見てられないほど悲惨なトークを露呈している。それはたけし軍団を侍らせ、おもしろくもないトークを連発するたけしと同じ悲惨さだ。

漫才師よりは国会議員、知識人、文化人。ジャーナリストよりは大学教授。学歴や部長、重役といった肩書き。小さい会社よりは、大きな、有名な会社などなど。こういった悲惨な秩序は蔓延している。

もちろん最初から社長であったり、最初から文化人であったりすることなどできないから、こういったことを気にし始めるといつもコンプレックスで悩まされることになる。

大きな会社から誘いを受けたり、多額の給料を提示されたり、芥川賞を取ったりしたら、急に偉くなったような気になって、態度が変わり始める。

いったいこれはどういうことか。

そういった社会性は、一人の人間にとってはいつでも偶然だ。社会的な不遇も、厚遇も理由をつけようと思えば、いくらでも付けることができそうだが、ほとんど嘘だ。

人は偶然出世し、偶然落伍する。それが“社会”観の究極の認識だ。

つまり社会評価は、評価にはならない。

そもそも社会的な頂点というものはいつでも没落の始まりでしかないし、没落は、また新生の始まりでもある。横綱になってから強くなる「千代の富士」みたいな力士もいるし、勝ち続けていても強くない「巨人」のような野球もある。それが「社会」というものだ。

〈評価〉とは、そういった「社会」からかぎりなく遠ざかることだ。「王様は裸だ」と言うことのできる力を持つことだ。何が没落の兆候であり、何が新生の始まりであるのかを見極める力を持つことだ。

このことは、〈現在〉の自分の社会性とは何の関係もないことである。というのも〈現在〉とは、没落と新生との交点だからだ。

どんな企業も最初から大企業であったことはない。どんな企業も永遠に大企業であることはない。同じようにどんな〈人物〉も生まれたときから天才であるわけでもなければ、永遠に天才であり続けたわけでもない。

大概の個人(天才)は、死ぬ何年も(何十年も)前から衰退しているし、逆に死ぬ数年前に「有名」になる人もいる。企業の成長、個人の成長は、どんな生理や有機体とも類似のない仕方で盛衰を繰り返している。

したがって、どんな〈現在〉にも不利、有利、二流、一流ということはない。〈現在〉は、差別なく平等に(没落に向かっても、新生に向かっても)与えられている。この〈現在〉が自己評価の源泉だ。

たったひとりの自分だけが自分の支持者にすぎないことが、世界を魅了する天文学的な支持量となって現れることの始まりであるのかもしれないし、そしてその時点こそが、現在「である」かもしれないことを誰も拒むことはできない。

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