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大学改革は教育改革ではない[教育]
(2001-06-12 01:57:20) by 芦田 宏直


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専門性と教育は対立する。言い換えれば、専門家と教育者は対立する。教えるということは、すでに存在しているものを教えることである。しかし、専門家はたえず、未解答の、未知の、未聞の課題を探求する。

専門家にとって、他人に教えるということは、既知のものをわざわざ教えるという意味で後退現象なのである。他人に教えることどころか、自分が知りたいこと、聞きたいこと、尋ねたいことばかりであるのが、専門家の現在だ。他人に教えるくらいなら、自らの諸課題を解くことを選ぶのが専門家というものである。すでに自分が知っていることをわざわざ他人に教える暇など専門家にはない。自らの課題を自立的に形成し、自立的に解決していく時間(や空間)を確保することこそが専門家の関心である。

 専門家と教育とがかろうじて近接するのは、大学や大学院でのことだが、ここでは専門家は「研究者」と言われる。ここでの授業は、「教育」と言うよりは“研究発表”である。大学や大学院での教育(=講座)は、基本的には研究者である“教授”が、日常的に、あるいは日々新たに研究している主題の展開(未公開の、あるいは作成中の論文)を披露する場所である(もっとも、そうではない、何年も同じ講義ノートを使う“教授”もいるが)。学生が、それをわかるかどうかは一義的には問題ではない。大学生として選抜された学生が「学生である」ことの意味は、その教授の“発表”に付き従えるかどうかをたえず試されているだけのことである。それが大学における教授と学生との関係のすべてである。大学という機関では、教授は学生の能力を顧慮しない。学生が教授を遙か後方から“追いかける”のである。だから、大学の講座には教材開発という動機が最初から生じない。〈教材〉というものは、学生という他者を意識する時にはじめて成立する概念であって、自立的に諸課題を見出し、担い、自立的にそれに答えようとする者にとって、〈教材〉意識など生じるはずがない。自立的な研究者、専門家 ― というより自立的でないような研究者、専門家など(概念としては)存在しない ― にとって〈文献〉を意識することはあっても、〈教材〉を意識することなどありえない ―〈文献〉とは自分自身のための教材(自立的な教材)のことを言う。彼は〈教材〉を意識するとしても「しぶしぶ」意識するだけのことである。従って、大学は「教育機関」ではない。旧文部省は、短大を「教育機関」とはするが、大学はそう呼ばす「研究機関」としたのである。

 少子化が叫ばれ、高等教育の大衆化が叫ばれ、大学進学率も40%を超えるようになると、もちろん、教授を追いかける(前方しか見ない教授の背を見ながら)学生などほとんどいない。背を向ければ、教室に誰もいなくなるほどに、「大衆化」は進んでいる。しかしそれでもそれは単に学生が変わっただけで、教授のマインドに根本的な変化はない。大学教授の生来の願望は、授業などないほどいい、というものである。これは大学教授が怠け者で休みたいからそうなのではなくて、教えるくらいなら「研究Forschung」を続けていたいということから来ている。その意味では、“教授”は、土日を含めて「勤務時間」などもとからなく働き詰めである。研究の合間に(定められた時間としての)授業がある、というのが教授たちの実感だろう。大学改革が「教育」改革という局面でほとんど進まない理由がここにある。大学改革とは、教授たちにとって、研究体制の改革以外には意味のないものなのである。

 したがって、本来、研究者(あるいは専門家)は〈啓蒙書〉や〈入門書〉(あるいは教科書)を書かない。そんな他者を意識した〈教材〉を書いている暇などあるはずがない。自分の諸課題を究明することの方が切実だからである。研究者が〈啓蒙書〉や〈入門書〉(あるいは教科書)を書き始めるというのは、あるいはテレビや雑誌に頻繁に登場し始めるというのは、その研究者が“長老”となって現役をすぎてしまったか、もとから世俗化ずれした三流の研究者であったかのどちらかにすぎない。研究者が〈他者〉を意識し始めるというのは、危険な兆候なのである。研究者は〈事柄(Sache)〉にのみ追従するのであって、どんな〈他者〉にも追従しはしない。〈事柄(Sache)〉にのみ追従するということが、彼らの倫理や社会性の在処なのである。

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