ザウルスは、なぜダメなのか。それについて、私は「要するに、あれもこれもできるようになったザウルスは、もはやザウルスではなくなったということだろう」(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=447&e=msg&lp=447&st=0)と書いた。それにつきる。
「ザウルス」はPI-3000として1993年10月(定価65000円)に発売された。それを買うまでは、私はカシオの「電子手帳」派だった。シャープのそれは、カバーがビニール製で好きになれなかったことと文字入力が特殊な方法だったからである。いずれにしても1993年以前はカシオとシャープが互角に戦っていた。3代くらいのデータがたまっていたカシオ派の私が「ザウルス」に転向したのは(丸々二日間かけてデータを手入力で移した)、このザウルスで、初めて(つまり、“電子手帳”至上初めて)、文字変換せずに、手書きの走り書きができるようになったからである(ついでに言うと手書き認識ができるようになったことも大きかったが、当時の私はそれにあまり大きな魅力を感じなかった。キーボード入力については1983年以来ワープロになじんでいたからである)。
紙の手帳と電子手帳との利便性の差は、一覧性(見開きの手帳の広さ!)において電子手帳が劣るという問題と、なんと言っても速記性(走り書き)の問題が残っていた。もちろん場合によっては、走り書きにおいてさえキー入力の方が早いかもしれないが、心理的な敷居としては、即応性が求められる“電子手帳”におけるいちいちの文字変換は結構、電子派になれない“問題”だったのである。
一覧性の問題は、“電子手帳”の欠陥と言うよりは、選択の問題だ。私が一覧性を犠牲にしてでも初期の“電子手帳“に走ったのは、毎日、毎年増えていく“連絡先”の紙への記録は、データの自殺に近い出来事だと思ったからである。毎年紙の手帳を変える場合、どうやって昨年のデータをコンバートするのか。コンバートなどできない。手書きの移し替えには限界がある。データを活かそうとすれば“同じもの”を添付し続けるしかない。たまればたまるほど、文字は見えなくなる。紙もぼろぼろになる。要するにデータ“ベース”にならない。この問題の方が、一覧性の問題よりよほど深刻だった。
しかし手帳の本質を速記性に見る人が電子手帳を認めないという理由は、電子派の難敵だった。ザウルスPI-3000がそれを突破したのである。
ザウルスの成長期には、三つの予期し得ぬ、しかし並行する成熟があった。
1)パソコン通信にはじまり、インターネットへと成長するネットワーク社会の急激な成熟。
2)携帯電話の急激な普及。