カリキュラム(の時間割)の外で、“できなかった”学生を残して、補助指導を行うのを通常、「補習(あるいは補講)」と呼ぶ。塾などではおなじみのものだし、最近では大学でさえやり始めるところもある。
しかしながら、補習の全面廃止という方針は、われわれの「教育改革」(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)の根本方針の一つだった。これまで私(たち)が発表してきた「補習」についての資料は、代表的なものとして二つある。
1)「Aプロジェクト私的議事録」(1998/10/04 01:23)from 「学内ノーツ伝言板98」。この伝言板の記事が結果的には「履修改革」の機縁になった。すでに“最古の”資料から「補習禁止」は最重要課題だったということがわかる。
2)東京都専修学校各種学校協会 平成13年度紀要論文「高等教育における授業改革とは何か ― 教育における目標と評価」(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)の第一章第4節の記述。この論文は私の私的なものというよりは、履修改革論議の集大成的な議事録のようなものである。
以下その当該箇所を便宜のため掲載します
1)「Aプロジェクト私的議事録」(1998/10/04 01:23)from 「学内ノーツ伝言板98」より
(承前)
●学園の衰退局面(1)
我が学園では、授業中、学生が寝ていても誰も何も言わない。むろん、そこで起こしたり、注意することが問題なのではない。何も言わないということの問題は、寝ていても卒業できる体制が根本のところで露呈しているということである。むろん「寝ていても誰も何も言わない」というのは、単に比喩である。出席率が悪い、授業がざわついている、授業内容とは別のことをやっているなどいくらでも同じような事態があげられる。にもかかわらず、卒業(単位履修)できるとはどういうことか。
理由は、簡単である。我が学園には「補習」「補講」、あるいは「課題提出」という便利な仕掛けがあって、どんなに試験の点数が悪くても、あるいはどんなに出席率が悪くても、あるいはどんなに授業態度が悪くても、そういった仕掛けによって“救われる”ようになっているのである。
ここで“どんなに…悪くても”という言い方には注釈が必要だ。程度のひどい学生にはそれに応じた「補習」「補講」、あるいは「課題提出」を課して同等の“教育”を施しているのだから、結局のところ点数も出席率も授業態度もカバーしている、というのがさらに“寝ている学生”を放置する第二の仕掛けになっている。つまり点数の悪い学生には点数をきちんと「取らせている」し、出席の悪い学生にも「出席させている」ということだ。とんでもない学生にはとんでもない「補習」「補講」「課題提出」をさせてバランスをとるというものだ ― たとえば、出席率の悪いものには夏休み、あるいは卒業直前の春休み毎日でも学校に来させるといったようなバランス。
“寝ていても卒業できる”のは、こういった履修システムの“二重帳簿”のような構造が背後で働いているからである。現場の言い分は“それなりの指導”をして履修させているということだ。
もっといえば、学生が寝ていても放置している先生がいるのは、たとえ0点に近い点数をとっても(結局)卒業させる前提(正確に言わないと、また“現場”から反論されそうだから、言い直しておくがかの二重帳簿履修システムの中では、この0点の学生は〈知的な体罰〉を経て、70点とか68点とか「それなりの点数」になるようになっている)で授業をやっているからである。つまり、最初から教育する気などないのである。寝ていても放置している先生が点数をつけているのだから、点数をつけること(学生を評価すること)自体が放棄されているといってもよい。ことを荒立てないとすれば(自分の授業が杜撰なことを荒立てないとすれば)、「補習」「補講」「課題提出」によって卒業させるしかないのである。泥棒に家の留守を任せているようなものである。
こういったことが一教員の一学生に対する関係にとどまっている場合は、まだいい。しかし授業中まともに勉強もしていない“あいつ”が、2年生として同席していたり、卒業したりしているのは誰の目にも明らかなことだから、当然のことながら、まじめに勉強したり、そこで100点を取ることの意味は軽薄なものとなりはじめる。最初から評価を放棄しているのだから、“その”先生の付ける100点や70点に意味などないのである。ましてや「補習」「補講」「課題提出」の内容や評価、つまり〈再〉試験の点数に意味など何もないのだ。信用度はルーブル通貨以下である。むろんこんな学校に誇りを持てという方がおかしいのである。
●学園の衰退局面(2)