リクルート『カレッジマネジメント』(http://websearch.yahoo.co.jp/bin/query?p=%a5%ab%a5%ec%a5%c3%a5%b8%a5%de%a5%cd%a5%b8%a5%e1%a5%f3%a5%c8&hc=0&hs=0)で連載中の記事「社会人市場をいかにして取り込むか」の第二回(『カレッジマネジメント』118号)が発表されました。昨年の12月6日に書き上げたものですが、ここに掲載します。もう次回の原稿締め切りが今月の27日に迫っています。連載原稿は地獄です。なお第一回の記事は、「芦田の毎日」61番(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=61)で掲載されています。
●社会人教育マーケットの固有の問題
学生教育と社会人教育とのマーケット要求の違いは何だろうか。
まず第一に、学生教育の場合は、すべてをゼロリセットで始めることができる、つまり体系的に開始することができるが、社会人の場合は、年齢も違う、経験も違う、学ぶ目的も違う、というように同じ講座であってもそれを評価する観点は、学生受講生に比べはるかに多く、複雑になるという点を上げねばならない。
もちろん、学生の場合も偏差値格差や基礎学力格差に悩まされ続けているということはあるにしても、それは“学力”上のリニアな格差であって、社会人の受講格差に比べれば、はるかに単純なものである。
この違いが、社会人の場合には長いスパンの講座を組めない一番大きな要素である。時間が長くかかり、その分内容量が大きい講座ほど、受講の前提が狭まっていく。その講座にぴったりの年齢、経験、目的を有した受講生を見つけるのは大変なことになる。そのために受講料単価を上げざるを得ない。受講料が高いと誰も来なくなる。単に受講料が高いため誰も来なくなるのではない。時間的にも内容的にもボリュームが大きくなると、その内のいくつかの内容は「すでに知っている」ものも多く含まれていることになり、より一層の割高感を生んでいたのである。
ボリューム的な割高感だけではない。長い期間の講座は、大学人(教授)が学校で日頃開講している授業をいくつかのフェーズで焼き直したものがほとんど。社会人(実務家)が講師を務める場合も、いちどどこかで使ったパワーポイントを焼き直したものがほとんど。要するに“書き下ろし原稿”はほとんどない。そもそも、長い講座を教材を含めてすべて書き下ろしで構成していたら、講師料をいくら払っても誰も引き受けてくれないからだ。したがって長い講座はどうしても内容が陳腐になる。今日の変化の早いビジネスや社会が要求する学習の内容からはほどとおいものがほとんど。この意味でも割高感が一層増すのである。
第二に、学生の日常は講座の時間割に従属するが(勉強することが“仕事”であるが)、社会人は、大概の場合、仕事をしながらの学習になる。したがって時間の自由がきかない。突然会議が招集されることもあるし、顧客から呼び出されることもある。そうなると、長い期間の講座受講は不可能になる。長い期間の講座は体系的な場合が多い。体系的ということは、先の受講の内容が前提されて次の講座が展開するということだ。したがって、たとえば、20回20日の講座があるとして、単に18回出られたから90%マスターしたということにはならない。その2回の欠席が前半に集中しているとすれば、全体の理解にかなりの障害になっていると言える。長い講座の理解の階層性は、前半の受講の出席にかなりの緊張を強いることになる。
第三に、講座単位にあつまる社会人は、その講座ではじめて出逢う人たちばかり。しかも先にも触れたように年齢も経験も目的も異なる。仮に講座が同じ講座であっても、その集まった人たちが、どんな基礎知識や経験をもっているのか、何のために(趣味・教養のためか、職務上の必要か、再就職のためかなど)その講座を受けているのかによって、教室の風景と雰囲気は一変する。その集団が幼稚な集団であった場合は、高度学習を期待した場合には幻滅の連続だろうし、その集団がプロの集団であった場合には、初心者受講は、質問も遠慮せざるを得ない不安な受講の連続だろう。こういった事態は、受講する前にはわからない事態だ。そして受講したときにわかっても、受講料は前払いのため、キャンセルするのが難しい。したがって、難しすぎるか、易しすぎる受講の連続の中で失意の内に講座を終えることになる。支払った受講料の半分くらいが無駄なものになる。