今日(1月7日)は、わが学園(http://www.tera-house.ac.jp/index.html)の仕事始めだった。毎年4校(中野校、国立校、世田谷校、品川校)の全職員がテラハウス地階のテラホールに集まって「賀詞交歓会」とでも呼ぶべきものが始まる。内容は理事長挨拶、各校校長挨拶にすぎませんが。以下は私の今年の挨拶です(と言っても校長挨拶としては私は新米、初めての挨拶になりますが)。ただし言いたいことの3割くらいが言えてなかった(原稿は元々ありませんから)ので幾分か補っています。
●新年挨拶
1月5日の朝日新聞トップ記事は、なんと一橋大学の教官「通知表」の公開についてのものだった(http://www.asahi.com/national/feature/K2003010500043.html)。教官「通知表」とは、学生による授業評価(授業評価アンケート)のことで、それを科目毎、教官の実名付きで公表するという。「学生による授業評価は各大学で広まっているが、ここまで徹底した『通知票』を公開するのは珍しい」(朝日新聞)。
これを読んで私が思ったことは二つ。ひとつは名門一橋大学でさえ、授業評価をやり出したということ。ひとつは名門一橋大学さえ、授業評価は学生アンケートに頼るのかということだった。
授業評価と学生アンケートは根本的に同じものではない。前者の方が後者よりもはるかに広い概念だ。たとえば、共通質問の第4項「講義要項の記述は履修選択や授業を受ける上で役立ったかどうか」、同じく第9項「講義要項や授業で示した成績評価の方法は適切かつ十分だと思ったかどうか」などは(どちらもきわめて重要な質問であるが)、現在の高等教育では、学生に充分な判断ができる資料が存在していない。
講義要項(シラバス)ごときで(講義“要項”程度の内容で)、半期で15コマ前後(90分×15回)、あるいは通年で30コマ前後(90分×30回)ある授業の全体をどうやって評価しろというのだろうか。できたとしても曖昧なものでしかない。その曖昧さの原因は学生の判断が未熟だということではなくて、判断の材料が講義概要しかないということにある。つまり評価の公的な基準が「講義要項」しかないのだから、最後はお互いの印象批評にとどまるだろうということだ。ちょうど、CPUの処理速度しか書かれていないパンフレットを観てパソコンを買った消費者のようなものだ。「速い」と期待して買った消費者(学生側)が「裏切られた」と思った場合、供給した側(大学側)は、「君、パソコンの処理速度はCPUだけでは決まらないのだよ」と言うに決まっている。
重要なことは、授業を供給する側が評価できる体制を取ることだ。評価をまず供給する側の評価として提案することだ。第4項「講義要項の記述は履修選択や授業を受ける上で役立ったかどうか」、第9項「講義要項や授業で示した成績評価の方法は適切かつ十分だと思ったかどうか」の問いは、まず大学側がどう思っているのか(大学側が何処までの検証の中で ― たとえば、科目を超えたカリキュラムの全体の整合性の中で「講義要項」を公開しているのか)を開示すべきであって、そのことなしに学生にアンケートをとっても意味は全くない。「君、パソコンの処理速度はCPUだけでは決まらないのだよ」というに決まっている。現場(当事者である教授と学生)に評価を委ねれば、評価は現場的に処理されるに決まっている。他人(学生)の意見を聞くことが意味を持つのは、自分(教授)が何をやりたいのかが内外に(当事者以外にも)明らかになっているときにだけなのである。
大学が自分たちのやりたいことは何なのかについての“情報公開”を「講義要項」程度に留めておいて、つまり自分たちのリーダーシップのなさを棚に上げておいて、学生アンケートに授業評価を頼るというのは、本末転倒なのである。それは高等教育のカリキュラムを学生に聞きながら作るというのとほとんど同じくらいに陳腐な事態だ。
われわれは、「講義要項」(=シラバス)を超えて、各授業毎(90分毎)のシラバス(コマシラバス)を作る体制を敷いてきた。この90分で ― 「科目」の内容(=講義要項)のみならずこの90分で教員は何を教えたいのかを学生に明示する体制を敷いてきたのである。もし学生が授業評価を行うとすれば、少なくとも授業供給側が、ミニマムの授業資料として「コマシラバス」を用意しなければ評価などできない。