学校を選べば、階級が選べるという考えは、学歴社会の思想だ。学歴社会の思想とは、しかし無階級の思想である。そもそも、偏差値やマークシート試験、その元基である○×試験などは、階級を隠すための装置だった。どんなに貧乏でどんなに無階級(“下級”階級)の人間でも、点数さえ取れば、官僚にもなれるし博士にも大臣にもなれるというのが学歴社会というものだった。国語・算数・理科・社会・英語が主要5科とされたのは、その他の科目である音楽や美術や体育には、(「主要5科目」に比べて相対的に)家庭環境や遺伝要素が強かったからだ。前者の主要科目は一夜漬けの努力が効く科目だったが、後者の科目は努力の効かない科目だったのである。主要か,そうでないかは、努力が効くかどうかの指標だったと言える。「主要」科目とは他の科目への差別だといった発言が昔から多いが、むしろ差別的な科目は、音楽や美術や体育なのである。こんな科目は半分以上は親の能力に属している。その意味では、「主要」科目による学歴選抜はもっとも民主的な選抜装置だったのである。
たとえば、○×試験の正反対は、記述試験と面接試験である。これは、親や家庭環境を問う試験であるといってよい。まともな試験官であれば、記述式の文体や文字の形を見れば、国語能力以上に当人の性格や人格をかぎ分けることができる。面接試験となれば、もっとそうである。こういった試験は、知的な(「主要5科」的な)能力を問うているのではない。その生徒の所属する家族や階級を問いただしているのである。日本の私立幼稚園、私立小学校、私立中学校などに見られるこういった選抜試験は、その意味で(その本質において)階級選抜なのであって、学力選抜なのではない。本人よりも親が緊張する試験なのである。日常は成金スタイルで着飾っているブレスレットや指輪を地味なものに変えるのも、この試験にありがちなことである。学力試験は合格点を取っているのに、親が“お下品”ということで不合格になる場合も多い。
そういったことに比べれば、○×選抜は、はるかに本人自体の能力を問う試験だったと言える。「個人として尊重される」という日本国憲法13条の精神(http://www5.ocn.ne.jp/~sekaihe/kenpounokihongenri.html)に○×試験はかなったものなのである。日本のくずれ左翼教育学者たち(日本の教育学者のほとんどは、そして岩波書店の著作や朝日新聞に登場する教育学者のすべてはくずれ左翼です)は、○×試験の“非人間性”をことあるごとに批判し続けてきたが、それはむしろ逆で、人間=近代的個人であるとすれば、○×試験ほど近代的な選抜方式はなかったのである。
日本の高度成長を支えた理由の一つは、日本の一流企業(や官僚組織)に、○×選抜のおかげで多くの階級がなだれ込んだからである。アメリカが人種のるつぼだとすれば、日本の一流企業(や官僚組織)は多階級のるつぼだった。○×選抜のおかげで、日本の一流企業(や官僚組織)は日本の“総力”を結集できたと言える。それが日本経済の活性化の要因の一つだった。
東大の村上泰亮が「新中間大衆の時代」(1984)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01440188&volno=0000と呼んだのも、この事態だった。私の論脈で言わせれば、「新中間大衆」とは○×試験によって形成されたということだ。その後(最近)、京大の橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波書店、1998)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01595374&volno=0000、東大の佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01890101&volno=0000などが、村上の言う「新中間大衆」は80年代以降崩壊しつつあるという論陣を張り始めているが、それは(大阪大学の大竹文雄が言うようにhttp://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/booklet.htm)日本の超高齢化と超高学歴化を無視しているだけのことである。依然として、○×試験の「新中間層」化は機能している。