この12月は寂しいだけではなく(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=76)、なぜか、その寂しさを打ち砕くように忙しい。この三連休も、既に過ぎている(12月20日厳守)締め切りの論文が書けず、結局今日の14:00までかかってしまった。書けないときは書けない。3日間の休みで書けたのは20行くらい。それなら外へ遊びに行った方が良かった(三日間一歩も外へ出ずじまい)。おまけに月曜日の天皇誕生日の夕方に『高校教師』(真田広之・桜井幸子主演)http://www.ponycanyon.co.jp/video/koukoukyoushi/kk_kyoushi.htmlの再放送をやっていて(イヤな予感がした)、あどけない桜井幸子(http://www.nigun-niiba.co.jp/sakurai/)のセーラー服姿を見るとなぜか切ない。そこへ森田童子(http://www.gogorocket.jp/doji/h/m-cd1.html)の『僕たちの失敗』(http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?pdid=20114704)が流れてくるともっと切ない。論文を書いている場合ではない。今日は朝8:00前からテラハウスの校長室に籠もりきりで書いていた(といっても何人もの来客があったが、鍵をかけておきたいくらいだった)。この論文は、財団法人東京都私立学校教育振興会の「学校研究助成金の交付対象とした研究」になっています。
●なぜ教育改革は進まないのか ― 授業評価の停滞
1)教育評価は授業評価でなければならない
高等教育(ポスト中等教育としての専門学校も含む)の教育改革は何度も叫ばれてきた。しかし一向に進まない。90年以降「少子化」が現実的に進行しても、結局閉鎖、統廃合される学校が生まれてきているだけであって教育改革が加速しているわけではない。勝ち残った学校が教育改革に先んじた学校というわけでもない。営業力がしっかりしていたり、立地条件がよかったりという場合も多い。
なぜ、教育改革は進まなかったのか?
それは教育評価が不在であったからだ。教育目標は何度も更新されながら存在してはいたが、評価不在の教育目標が空手形のように発行され続けていた。あるいは目先をごまかすように新学部、新科が設置され続けてきた。
ところで、教育評価とは何か?
これまで教育評価については、カリキュラム評価、教員評価、教材・設備評価、学生評価(学生による評価)、募集評価などが議論されてきた。しかしどれもこれも教育改革を前進させるものにはならなかった。
カリキュラム評価は実行評価が伴わないというのが最大の難点だった。大学では「講義概要」「シラバス」の名の下にカリキュラム評価を可能にする情報が公開されている。特に90年代初頭以降、教育改革の名の下に「シラバス」詳細化は一つのブームにもなり、年々シラバスは分厚くなっていった。分厚くなって(詳細化して)いくことが、教育改革の進行度を表現するかのように分厚くなっていった。
しかし本当にシラバスの詳細化は教育改革を前進させたのだろうか。「シラバス」は講義計画にすぎない。計画だからその通りいかないこともある。むしろその通りに行かないことの方が多いくらいだ。その通りには行かないだろうと思いながらシラバスを書いている教員も多い。しかしもともと計画というものはそういうものだ、というわけにもいかない。重要なことはシラバスの実行度を評価する体制がないということだ。だから一般論として「なかなかシラバス通りにはいかない」と言われることがあっても、どの講座が計画通り進んで、どの講座がうまくいかなかったのか、その原因は何かなどという具体的なことになるとほとんどの場合、何もわからないことになる。その意味でシラバスの詳細化は舞台評価(上演評価)のない脚本評価にとどまっている。
脚本評価にしても、特に大学のシラバスは専門性の名を借りた講座の自立主義がなおはびこっており講座相互の関連性が薄い。大学4年間と言っても階層的に積み上がっていく講座は少なく(はっきりしているのは、語学くらいか)、諸講座全体(諸科目全体)を統括するマネージャーがいるわけでもない。そういうことができないのが、大学の専門性というものだと思っている教員もまだ多い。したがって実行評価をさしおいたとしても、一つのストーリーとしての脚本(要するにカリキュラム)すら存在していないというのが、「シラバス」改革の実体なのである。
同じように教員評価も教員の何を評価するのかが定まっていなければ、単なる個人評価に終わってしまう。一体、教員は何をしたときに評価されるべき存在なのかがはっきりしていない教員評価は単なる差別評価にすぎない。