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今日の朝礼は、学園内を支配している「ヒューマニズム」について話しました。
まず、担任主義。
担任は、学生を専門知識、専門技術を学ぶ学生と見なさない。だから、学生が欠席したり、不合格点を取るとその「学生の努力が足りない」というふうに見て、学生の人間的素質(家庭要因、生活要因、基礎学力要因などなど)にばかり言及し始める。しかし学校は教会でも宗教団体でも何でもない。その学生を人間的な要素で指導する“資格”をもった教員など一人もいない。そもそも人間的な要素を"指導"することなど誰にできるというのだろうか。神のみぞ可能といった難題事だ。一体わが教員はどんな顔をして“生活”指導をしているのだろう。どんな生活指導も、自分の生活慣習を押しつけるか、棚に上げるかのどちらかにしかすぎないくせに。
欠席や欠席兆候の最大要因は学校にとっては、授業指導の不備にあるということでしかない。一言で言えば、授業がつまらないから(授業指導に問題があるから)欠席するのである。ここにメスを入れることなしに出席率は(根本的には)上がらない。逆に学校がメスを入れることができるのは、ここにしかない。ところが、〈担任〉は学生から授業不満を聞いても教科指導には走らない。担当する専門が違う場合には、口を出せないからである。さらには、同僚の教員を指導、批判することなどできないからだ。だから、学生の不満を担任が"親代わりになって"聞いてやる体制は、授業改善に向かわずに、学生の個人問題(ほとんどの場合は生活問題や家庭問題)にすり替わる。結局は、学生批判や父兄批判を繰り返す。何一つ自分たちの教育を反省しようとしない。担任主義というヒューマニズムは教育改革に逆行するのである。
次に、組織問題。
昨日の、科長による授業評価レポートで「以前よりもわかりやすくなっている」という評価があった。こんなものは〈評価〉ではない。重要なことは、この先生の授業のやり方で、このままいくと科目目標が達成できるかどうかであって、その先生がよくなっているかどうかは、その先生の個人的な問題にすぎない。よくなっていても、科目目標が達成できないのなら、その先生は"危険"と見なすのが、評価の基本にならなくてはならない。私は(私もこの授業を見たが)どうみてもこの先生が落伍者を出さないとは思えない。「以前よりもわかりやすくなっている」という文言は、ヒューマンで個人的な評価にすぎない。要するに努力はしている、ということだ。
もしそのレベルで評価ということを言うとすれば、私は、努力をしていない人間などこの世にはいないと思うし、悪い人間もいないと思う。というより、人間は努力するときもあるし、しないときもある。悪いときもあるし、良いときもある。それだけのことだ。どんな侵略戦争だって、そこには必ず英雄がいる。心暖まる人間関係がどんなに無惨な戦争であっても必ず生じる。だから、人間というフェーズで見れば、肯定も否定もない。つまり、人間など評価の対象にはならない。人間はそれ自体で肯定されるべきであって、評価の対象ではない。
したがって、授業評価や教員評価を人間性を形成するタームを使ってやってはいけない。
組織が人材(スタッフ)を評価するというのは、組織の目標からの評価であって、それ以外にはない。それ以外にはすべて個人干渉だ。どんなに(組織的に)無能な人間であっても家庭に帰れば頼られるお父さんであったり、愛される夫であったりもする。あるいは、ボランティア活動や地域の活動では尊敬されるリーダーかもしれない。組織・会社があろうがなかろうが、そういったことはそれ自体で尊重されるべき事態であって、評価の対象ではない。ファシズムの歴史的な失敗もヒューマニズムにあったのであって、ヒューマニズムを阻害したからではない。彼ら(スターリンも金日成も)は、"心温まる"国家を作ろうとしたからこそ、ファシストになったのであって、その逆ではない。これは20世紀最大の思想的悲喜劇だった。
要するに、組織内では個人評価(ヒューマンな評価)はやってはいけないということだ。なぜ、組織は時として(「以前よりもわかりやすくなっている」「以前よりも努力している」というような)個人評価に走るのか。答えは簡単なことだ。その組織が目標のない組織になっているからである。
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