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校長の仕事 Part2[校長の仕事]
(2002-11-11 15:48:37) by 芦田 宏直


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 今日(2002/11/8)はインテリア科2年生の椅子制作実習のプレゼンテーション授業。地下のテラホールで行われた。

 この授業は制作した椅子のプレゼンテーションとしてはたぶん普通のできだ。しかしこんな授業をやっていては、高度人材は作れないという意味では失格だと思う。われわれがここ3年継続的にすすめてきた教育改革(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)はここでは全く実っていない。こういった授業こそがこの改革のターゲットだった。

 まず最初に感じたことはプレゼンテーション評価についてだ。授業では、学生が自分の作った椅子を前にして、その椅子の制作意図などを一人一人発表していた。一人3分という制約が設けてある。教員が発表終了毎にコメントを加えていた。形としては、古典的なプレゼン授業だ。

 このやり方は、以前から問題が多い。学生も教員も個人的なコメントの応酬になる。何を発表すべきなのかの共通の認識がない(“個性的な”発表に終始している)。教員も学生の発表のフォローをするという形のコメントしかできていない。だから私が飛び入りで質問すると教員が学生をかばってしまう。結局、その作品としての椅子が、どう成功しているのか、どう失敗しているのか誰もわからずに発表が終わっていく(わかっているのはその椅子の好き嫌いだけだ)。聞いている学生もほとんどが学生や教員のコメントについてノートを取ろうとしていない(個人的に聞いている)。学ぶべきコメントなど(あまりに個人的で)どこにもないからだ。

 たとえば、私が板の目の使い方に違和感があったので飛び入りの質問してみると学生からは整合性のある回答を得られなかった。教員はそれをフォローする形で、「何分にも、教材購入上の経済的な制約がありましたから」というコメントが続く。このコメントは、続く学生の発表でも見られた。これはコメントではない。教育にとどまらず、どんな椅子制作にも「制約」はある。むしろ実務現場の方が制約が多いくらいだ。だから、椅子批評の原理は、プロのデザイナーが同じ素材と制約の中で、あるいは同じコンセプトで作ったとしたら、このように作っただろうか、というものでなければならない。まず、そこに満点のイメージを置いて、そこからの減点ポイントを指摘することが教員コメントでなければならない。「制約」があることと評価が甘くなることとは何の関係もない。この教員は指導上の観点をすでに外しているのである。だから、その場に参加している全員が、椅子の評価をできないでいる。一体この椅子でいいのか、悪いのか。少なくとも授業指導は成功したのか、していないのか。〈個性〉ばかりが目立つ授業には〈教育〉が欠けているのである。

 さて、椅子評価が個人的だということは、当然のことながら、椅子そのものの仕上がりも個人的なものになってしまう。たとえば、釘の使い方。座面に釘を何十本も無造作に打たせている。この釘は数年(あるいは数ヶ月)使うと必ず浮いてきて怪我をさせたり、衣服を引っかけることになる。たとえば、強度の問題。背中を押し当てるとミシッと悲鳴をあげる背板の椅子がいくつかあった。これでは安心して座れない。たとえば、足の突端が地面に並行していないため安定せず、コトコトと据わりが悪い。

 ほんのいくつかの椅子に座っても、この程度の欠陥が目に付く。というより、これらの症状は、椅子の存在をなさない致命的な欠陥である。椅子は(どんなモダニズム理論、ポストモダニズム理論をもってこようが)座るためにある。個性が花咲くとすれば、その要件を満たしていなければ意味がない。

 専門学校の「インテリア科」の学生が二年の卒業年次で作る椅子があるとすれば、それは第一に椅子の基本要件をすべて満たしているものでなければならない。

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