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毎日1時限目の授業をすべて見て回る(場合によっては後席で参観します)、という私なりの校長の仕事があります。「授業評価」と呼んでいますが、学校の教育活動の生命線のひとつです。こういったことを本格的にやっている学校は、わが学園だけです。見るだけでは意味がないので、当然教科担当者や科長と問題点を確認しあって、日々、授業改善をはかっています(私のその日のコメントは学内のノーツの掲示板に必ずUPするようにしています)。以下は、昨日のそのコメントです。こんなにも忙しいため、「芦田の毎日」はときどき日にちが空いたりするときがあります。
●何故授業がつまらないのか
「TCP/IPとは、インターネット上の事実上標準(デファクトスタンダード)のプロトコル」なんてことを言われただけで、誰が何をわかるというのだろう。そもそも「TCP」とは何か、「IP」とは何か、なぜ「TCP/IP」なのか、「事実上標準」とは何か、なぜそこにだけ括弧をつけて、「デファクトスタンダード」とカタカナで表記されているのか、「プロトコル」とは何か、そもそも何語で、なぜ、その事態を「プロトコル」というのか(なぜ「プロトコル」なんていう言葉が使われるようになったのか)。そういったことに何も言及されずに「TCP/IPとは、インターネット上の事実上標準(デファクトスタンダード)のプロトコル」でというふうに、説明がすんでしまう。こんなにくだらない授業はない。
上の、どの用語もそれだけで長い話ができるし、またそれだけをきちんと理解しただけでもたいしたものだ。みんなわかったような気になって使っているこれらの言葉にも長い歴史がある。そのイミでは、言葉の意味を理解するというのは、言葉の歴史を学ぶということとほとんど同義だ。問題は定義や意味そのものではなく、歴史(生成の起源)を語ることだ。学校というところは、たとえ実務の専門学校であっても、その意味での〈歴史〉を学ばせなければイミがない。それはインテリア科や建築科や自動車整備科が「インテリアの歴史」「建築の歴史」「自動車の歴史」と言う場合の歴史とは何の関係もない。歴史とは無意識に過ごしているものに足を止める(踏みとどまる)ということだ。不意打ちや驚異のない歴史(ありきたりの歴史)など歴史ではない。この授業には不意打ちも驚異もない。手垢にまみれた"説明"の連続だ。
そう言えば、むかし社会学の授業を受けていて「家族とは社会の最小単位です」という「説明」を受けたことがあった。「社会」とは何かについて、誰も簡単には説明できていないのに、その「社会」を自明なように使って、場合によってはもっとややこしい「家族」の"定義"をする、その教授の無神経さにあきれたことがあったが、この「TCP/IP」の説明も同じように無味乾燥な"説明"に終始している。
なぜ、こんなことになるのだろう。多分、この教員は「コミュニケーション」(の道具)としてしか言葉を理解してこなかったのだと思う。実務の現場では、意味が通じればそれで済む(ジャイアンツの新庄の英語のようなものだ)。実務の現場では、わかっていなくても動ける方が、わかっていても動けないよりも重宝する場面が多い。だから、徐々に(言葉に)立ち止まらなくなる。別の言い方をすれば、学ぶことに意志が介在していない。実務の現場では、課題は不可避に、また日常的に押し寄せてくる。だから、その場にいるだけでも勉強になる。立ち止まらないこと(立ち止まれないこと)が、実務の現場に緊張感を強いている。これが経験から学ぶということだ。だから、経験や実務から学ぶというのは、非歴史的に学ぶというのとほとんど同じだ。そして非歴史的に学ぶというのは、言葉を大切にしないというのと同じことだ。歴史は言葉(起源の言葉)の中にしか存在しない。
しかし教室や学校は行動の場所ではない。むろん実務の現場でもない。たしかに実際に整備ができることは重要だろうが、行動として(だけ)の整備ならば、何も学校へ来て(高いお金を出して)学ぶことはない。
学校は、非日常的で、歴史的な場所でなければならない。分かりきったように使われている言葉や分かりきったように行っている行動を内省する場所でなければならない。それが学校の有している生産性だ。若い学生の一生に影響を及ぼす教育があるとすれば、先端を教えることにあるのではなく(教えられる先端とはもはや先端ではないのだから)、内省するきっかけをつかませることでしかない。
それは専門学校であれ、大学であれ、共通する課題である。「家族とは社会の最小単位です」などという社会学者(大学の先生)は、単に私語をしているにすぎない。つまり教授生活の実務と日常を露呈させているだけであって、〈先生〉ではない。
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