リクルートの『カレッジマネジメント』 ― 「大学・短大・専修学校のための」という副題がついているリクルートの高等教育経営雑誌。私学経営者はよく読んでいる雑誌 ― 編集長:中津井泉(なかついいずみ)さんに依頼され(中津井女史は、リクルートの生き字引のような方、「教育改革にもう“論”はいらないのよ(実践とその具体的な成果が必要)」が口癖)、授業評価にかかわる小論を書いてみた。
実はこの依頼、本当は、教員評価の依頼だったらしいが、私が勘違いして授業評価の内容になってしまった。『カレッジマネジメント』次回特集は教員評価の特集だったらしいが、予定していた私の論考がすっかり抜けてしまった(「芦田さんも結構思いこみが激しい人なのかしら」とたしなめられた)。迷惑をかけてしまったが、この授業評価の小論も結構おもしろいので、「次々回に特別枠でのせます」、とのこと。ありがたいお言葉を頂いた。以下は、その草稿である。
●何のための授業評価か ― 授業評価を妨げるもの
教育評価の実体は、授業評価にある。しかし授業評価ほど難しいものはない。教員が授業を公開したがらないからだ。高等教育ならば、そこに専門性の壁が重なって、公開されても評価できないということもある。
しかし従来、授業評価が進まなかった原因には、別の要因がある。「授業評価」と一口に言っても、評価の基準自体が曖昧なままになっていたからである。教員が授業評価を敬遠するのも、評価基準が曖昧なままになっていることに原因の一つがある。
以下、授業評価が曖昧になる要素をあげてみる。
?補習・追再試・課題提出
時間割が比較的密な専門学校や短大に多い問題だが、「補習(補講)」「追再試」「課題提出」といった履修判定のサブシステムが日常的に慢性化しているということ。
これらは、正規の試験期間中の「試験」で落第点を取った場合、“再試験”や“課題提出”の機会を与えて学生を救ったり、あるいは資格試験による官許的規制などで出席数(受講時間)が足らない学生に「時間補習」などで出席数を補うといった処置を意味している。
これらの処置は、言うまでもなく履修判定のダブルスタンダードを形成しており、履修評価を曖昧にしている。それ以上に、こういった救済処置こそがむしろ落伍者の輩出を慢性化させている。落第点をとっても“再試験”や“課題提出”で何とかなる、出席しなくても「時間補習」で補えばいいという後退した意識が、本試験の評価や個々のそのつどそのつどの授業時間に集中する学生の気持ちを殺いでいる。
これは、学生だけの意識ではない。授業時間中、寝ている学生を注意しない。理解の遅い学生を置き去りにする。出席率の悪い学生に出席指導をしない。教員がそういった授業努力をしないのは、教員側の意識にも、そういった学生の発見=「補習」「再試」、要するに授業外指導という図式が成り立ってしまうからである。
評価のダブルスタンダードは、授業時間の教育を極めて平板なものにしてしまう。できない学生(授業に参加しない学生)がその授業から自ら離れていくだけではなく、教員もまたその学生を授業内の教育対象から外してしまう。両者とも“あとで”何とかなるというふうに思いこむことによって、授業時間の中での努力に集中しなくなるのだ。
授業中寝てしまう、理解が遅い、出席しない。これらは、学生の素質でもあるが、一方では、教員の授業運営に問題があることの兆候でもある。むしろこういった兆候(を受け止めること)こそが、授業改善の契機にもなっていた。教材開発などは、こういった、学生が授業を否定する傾向に教員が直接向かい合うことにこそ動機を持っていたわけである。ところが、補習や追再試は、授業改善に教員を向かわせない。そういった学生を補習・追再試があるために“授業外学生”と早々と見なしてしまうからである。評価の(公然、非公然な)ダブルスタンダードは、単に評価を曖昧にするだけではなく、教育活動の本道としての授業活動そのものを形骸化してしまう。
しかもこれらのサブシステムは本来的には救助システムであるため、事実上、本試験の目標レベル(=履修目標)よりは下がってしまう傾向にある。先にも触れたとおり、科目再履修(落第生を出すこと)が、時間割の緊密さのために事実上留年になりやすく、留年が退学につながりやすい専門学校や短大では、「補習(補講)」「追再試」「課題提出」などは教務的というよりは、経営上の逃げ道になっている。目標達成できないままの卒業生を送り出してしまっているのである。というより、目標達成しないままでも卒業生とみなすためのシステムが「補習(補講)」「追再試」「課題提出」といったサブシステムだと言った方がよい。授業評価という課題は、むしろ公然と捨て去られていると言った方がよい。
?試験の後追い作成