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教育の目標は「試験の点数ではない」、「点数で子供の?能力?を測るべきではない」と言われて、もっとも被害を受けるのは、文化的にも経済的にも貧乏な家庭の子どもたちだということを未だにわからない連中がいる。
その連中は、「知識だけ」ではなく、?主体性?や?人間性?が大切とか言いながら、文化的にも経済的にも貧乏な家庭の子どもたちを食いものにしているだけのこと。そもそも「主体性」「人間性」という科目免許を持った教員などいない。そんな教員審査もされていない。誰が何の名目で、そんな?審査?ができるというのか。
そもそも泥棒も主体的に(場合によっては命がけで)泥棒をやっているわけだし、戦争のような非人間的で卑劣なことを行うのも人間性と言われているものの一つです。人間的であるからこそ非人間的であることはいくらでもあります。主体性とか人間性という耳障りのよい言葉は、問題の本質を解決する言葉ではなくて、むしろ混乱の元になっている言葉です。
具体的には「コミュニケーション技法」や「自己表現力技法」という科目の先生ほどつまらない授業をやる連中はいないのだし(大学の場合)、中等教育の「◯◯探究」なんて科目は?主体的?な分、さらに無知蒙昧な授業になっている。実質「◯◯探究」授業は受験放棄の授業でしかない。受験だけが人生ではないと言いながら。
現代の(中曽根臨教審後の1990年代以降)文科省の教育施策は、〈力〉(ハイパーメリトクラシー)能力ばかりを前面化するが、それは、勉強嫌いな子供たちには、無理して勉強させる必要はないという三流のエリート主義施策なわけだ。それでは、自らの省庁が三流だと宣言しているだけだ。無能な学校、無能な大学の教員たちを救済しているだけのことだからだ。
私立大学の6割が定員割れというのは、その種の抽象的な力(りょく)能力に走り、低学力学生の底が抜けているからだ。教育格差の拡大の実態はそこにある。入ろうと思えば、入ることのできる大学を高校生が選ばない事態もそこにある。もはや、「とりあえず大学だけは行っておけ」という〈大卒〉資格主義は通用しない。
なぜか。そこそこの伝統ある中位大学の偏差値もどんどん下がって、もはや無試験でも入学できる状態にあるからだ。いまや、中位以下の大学は、学力のない高校生(大学本来の教育に付いていけない高校生)の奪い合いになっているのです。偏差値50未満の国立大学さえどんどん増えている状況では、〈大卒〉資格主義の大学は崩壊する。
かつての中堅伝統大学が入りやすくなってきているという事態では、「とりあえず大学には行かないと」という層は、中身は何であれ、「名前のある」大学を選ぶのは当然のことだろう。どの大学へ入ってもその4年間の中身は大して変わらないのだから。
この〈大卒〉資格主義の中身というのは、期末試験などの厳格な成績判定で教員の教育目標や学生をしばらずに、のびのびと楽しく4年間過ごすという住宅パンフレットのキャッチのような大学作りのことを言う。教育ではそれを〈アクティブ・ラーニング〉と呼んでいるだけのこと。手足は動いているが、頭は何も動いていない。この種の授業は、出席だけしていれば、まず不合格になることはない。こんなことで保護者や高校生をだまし続けることができると思っている文科省の気がしれない。
底の抜けた大学教育に国庫助成をすることなど無駄遣いでしかない。教育助成を増やすことを言うのなら、バケツの底の穴(?主体性??思考力?などの穴)を塞ぐことをまずやるべきなのだ。
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上記は、2025/08/24以降のツイートですが、それに対する反応として、もう〈学校〉には期待しないで、すべて自由化すれば、という意見もありました。「私は、もう私塾で義務教育の卒業資格を取れるようにしてしまえ、とさえ思います。ある程度の指導要領以外は自由にしてしまってはどうですか」というもの。それには、私は、以下の回答をしています。
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