◎京都元祖『眠眠』とその社長秘書・中井さんの絵
この拙宅の玄関にある絵(2015年60歳になる秋に終の棲家に引っ越して以降)は、私の伝記自体みたいなものなので、その経緯を?遺書?として書いておきましょう。
と言っても大した意味はない。単純に、たぶん私の今の自宅にあるもののなかで、一番長く私が持ち続けている物だということだ。家内と会ったのが中学一年だから、この絵はそれより2年先にあっているということ。長い!
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特に大事にしたいと思っていたわけでもなく、気づいたらなんとなくまだ持っていたという感じで。私が小学4年生前後の10歳くらいの時に手を入れたものだから、考えてみれば、もう57年間も経ったことになる。
家内の服や持ち物は、家内が寝たきりになって、入院中に無断ですべて捨てまくったのに(息子が「それも捨てるの?」みたいな顔して横で心配していたが)。だから、57年も持ち続けているというのは、私の意志を超えているのだと思う。家内との付き合いも55年経つが、それよりこの絵の方が上を行くわけだ。
私の父親は中学校の社会の教員だったが、たまたま担任として持ったクラスの?非行少年?の再生に強い関心を持ち始め、保護司や篤志面接委員を37才で拝命して、私の自宅にはいつも4〜5人くらいの、委託補導(少年院に入れるかどうかを委託補導の様子を見て決める、と裁判官が判断した場合の処置)の少年・少女がいた。私にとってはお兄さんやお姉さんたちだったが。一緒に生活していたのである。
三ヶ月間くらいごとにその少年たちは巣立っていき、父が46才で亡くなるまでには(直前まで父はその少年たちの指導に奔走していたが)、60人くらいのお兄さん、お姉さんと、私の家族は(家族のようにして)過ごしたことになる。
その少年たちの就職先の受け入れ先に協力を買って出てくれたのが、当時の大衆中華店『??』(京都)だった。
まだ『王将』の存在しない、『王将』がモデルにした『??』だった。いくつも京都市内に店舗を持ち、私たち家族も二ヶ月に一度くらいは四条大宮の『??』を利用させていただいていたが、なぜか、そこはいつもただで食べていたのが不思議な感じだった。父はお金を払おうとするのだが、受け取ってもらえない。子供心に不思議だなぁと思っていた。
しかし『??』の餃子は『王将』どころではなくおいしい(デリダの初来日の京都滞在のときには、日本料理にデリダがこだわったので、彼を京都日仏会館に見送った後では、いつも京都河原町の『??』で餃子を食べるのが楽しみだった)。
兎にも角にも『??』の餃子は、皮がとても薄いのが特徴だった。ジンギスカンやレバーの唐揚げもとてもおいしかったのを今でも覚えている。『??』の餃子、ジンギスカン、レバーの唐揚げなしには、『王将』は存在しえなかったと思う。ヒルトン東京の王朝との今の付き合いも半世紀前のここが原点なのかも。ここだけの話だが、王朝の餃子より『??』の餃子の方が絶対おいしい。
ある日、父が、『??』の社長の自宅に呼ばれた、とか言って、伏見の山、一山全体を自宅にされている社長が主催されるミンミン祭りに家族みんなで参加した。
社長は「女社長」(さすがに名前は忘れたが、父も、「??の社長」としか呼んでいなかったのだから仕方ない)で旦那様は画家だった。
ミンミン祭りには、芸能人や関係者がたくさん来られていたが(そりゃ小さい山全体がたくさんの桜の花咲く庭になっているので、100人以上来てもどうと言うこともない大邸宅だった)、私が社長に会ったのは、その時が初めてだった。※この「女社長」は、今の社長で言えば、栄陽子留学研究所の栄陽子女史にすべてが似ている。