東大の授業の英語化(東大大学院工学系研究科)が議論されているが、昔、柄谷行人が(日本語で思考することの不利がらみで)英語で書き始めたとき、吉本隆明が、ほんとに国際的な水準を有しているのなら、誰かがその論考を何語にでも訳してくれるさ、と揶揄していた。たしかに、フーコーと吉本隆明との画期的な対談を通訳していたのは、後に東大の総長にまで上り上がる蓮實重彦だった。
太宰治の『人間失格』のような?島国?的な作品さえ、20ヶ国語以上に翻訳されているらしいから、グローバリティというのは、難しい話なのだ。
昔、大島渚が男女の〈愛〉こそ国際的な映画の主題だとして『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』で、カンヌ映画祭に挑んだが、そこで「パルム・ドール」を受賞したのは、今村昌平の『楢山節考』だった。世界の人に通用するという問題は、英語の?共通性?とか、内容の?普遍性?という問題とは何の関係もないところで動いている。
英語で話し、書く、英語で授業をするというのはそれ自体一つの貧乏性なのだ。