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「いま言われたことがもし本当なら、何度死んでもいい」というプラトンの言葉(『ソクラテスの弁明』)は、「かくあったか、ではもう一度」というニーチェの言葉に通じている。[自己ベスト]
(2025-05-09 06:16:20) by 芦田 宏直


死んだ人と、会わない人との違いはなんだろう。古い同級生などは消息不明だが、消息不明の人と死んだ人との違いはなんだろう。関心のない人と死んだ人との違いはなんだろう。アリストテレスに関心はあっても、会えなくて悲しいということはないし、親しい友人ほど会いたくないということもある。これらすべては、生死や実在とは何かという問題に関わっている。

動物も大概の場合、?抵抗?しない(反論しない)ことを思えば(動物も抵抗すると思う人は、大概の場合、自分の都合のいい抵抗をそう見なしているだけのこと)、死んでいるのと同じ。沈黙する恋人は、噛みつく犬より怖いに決まっている。

ヘーゲルもまた反抗するのが自意識をもった人間と動植物との違いだとどこかで書いていたが、死んだ(反抗しない)人間と動植物との違いはなんだろう。人は墓石に話しかけるように、犬に話しかけているとしたら。

しかし、人間に、生きている人間にさえ話しかけることも、墓石に話しかけるのと大して変わらないとしたら。
たぶん、死んでいる人に話しかける時にこそ、〈話す〉〈書く〉ことが可能だとしたら。

生きていることのもっとも豊かな実りは、死んでいる人に話しかけることであって、無言こそがもっとも豊かな抵抗なのかもしれないとしたら。

そもそも、テキストは墓石(デリダが「竪坑とピラミッド」でヘーゲルを論じたように)のようなものだし。

古典も墓石だし。人は生死に関わらず古典なのだ。

その意味で、コミュニケーションとは、死者との会話なのである。

死者こそ、?抵抗?値が、殴りかかってくる反抗よりも大きいからだ。

その意味で、死者とのコミュニケーションは、「不可能なものの可能性」(ハイデガー)、「分割の根源性」(ナンシー)なのかもしれない。

なぜかと言えば、人はすでに生きているだけで、充分に死んでいるからである。

ハイデガーは、それを「既在的な将来」と呼んだ。常に既に-あることの未だ-ないことである。〈死〉はすでにあるのに未だないことのように?存在?している。過去とは、すでにあることなのではなくて、将来する、これからやってくる未在として?存在?している。

常にすでに在ってしまっているのに、その既在性こそが、これからしか到来しないという人間の曲がった時間性こそが、人間の〈生きる〉意味だと初期のハイデガーは考えた。

つまり、人間は、絶対的に拘束されている分だけ、絶対的に自由だとハイデガーは考えた(サルトルはそれに影響を受けて人間は「無を分泌する」と言い換えた)。?こうしかありえない?私のあり方を一つずつこれから受け入れていくその時間性が、人間の生死の時間性だと。

拘束(人間の有限性)は到来するものであって、逆ではない。〈受け入れ〉はあきらめではなくて、むしろ〈希望〉なのだ。

「いま言われたことがもし本当なら、何度死んでもいい」というプラトンの言葉(『ソクラテスの弁明』)は、「かくあったか、ではもう一度」というニーチェの言葉に通じている。


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