70歳にもなると、80歳以上までも生きている人を、ただただそれだけで尊敬したくなるのだけど、最近は、若い人たちへの配慮(敬意)も考えるようになった。
というのもこの人たちは、われわれ年長ならではの、キャリアの仕出かした諸々のミスを背負って、未来へ向けて修正していかなくてはならない人たちなのだから。
これまでは、若い人たちの意見や仕事など(研究者の書き物については当たり前のように)、未熟に思えて鼻にも掛けなかったが、それもよく考えたら、?お前が悪い?と言われているようにも思えて、特に〈教育〉に(思いもよらないくらいに)長い時間を費やしてきた私の立場からすると余計にそう思えてくる。
70歳を超えるというのは、それらの両面(行き着く先と取り残した後)がこれまでにも増して見えてくるということかな。それを一言で言うと、「命短し、恋せよ乙女」ということになる。命は、前にも後にも何も残したりはしない。
この言葉は、人生の後先の話をしているのではなくて、〈現在〉の尊さを謳っている。実際、ほとんどの人は、〈現在〉を生きていないのだ。人の終わり、人の始まりという終始は、どんな人でも言及するテーマではあるが、大概大きな勘違いにとどまっている。
ベルクソンの持続論は、初期の〈持続〉論から〈記憶〉論へと熟していくが、彼の〈記憶〉論は、過去の蓄積(一言で言えば人間の経験)の全体性のことを言うのではなくて、未来と過去とが絶えず〈現在〉へと収斂していくさまを概念化した言葉に過ぎない。
ベルクソンの〈持続〉論が〈記憶〉論に?発展?するのはその意味でだ(だから、彼の記憶論は心理学とはなんの関係もない)。それは、どんな過去もどんな終焉も絶えず更新され続けているということだ。命も乙女も、〈現在〉を意味している。ベルクソンの〈記憶〉論が現在論であるように。哲学のすべての課題が〈現前性〉の拡大であったのだ。(了)