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【註】シラバスとは何か ― コマシラバスはなぜ必要なのか
この記事の本文を含む全体は120,000字を超えたところでブログサーバーの一記事容量制限を超えた模様でアップできなくなったためのやむなしの(本文との)分離掲載です。加筆分は実際出版される11月までお待ちください、と断念しかけましたが、折角700バージョンを超える加筆にあきもせずフォローしていただいた読者のために、【本文】と【註】を分けて無限に加筆掲載できるようにしました。両者に【註】の通し番号を打ち照合できるようにしています。その形で両者とも出版まで加筆し続けようと思います。本文(http://www.ashida.info/blog/2019/05/post_444.html#more)と合わせてお読みください。この註だけで50,000字前後あります。註+本文で122,000字くらいです。根気よくお読みください。二ヶ月で120000字書き殴りましたので(頭の中が燃えさかっていますが)、文中なお誤字脱字あるかと思いますが、ご指摘していただけると助かります。よろしくお願いします。なお註の文中●●●などがある場合はすべてその●●●の前の語に付いた傍点を意味します。●が三個ある場合は、その●●●の位置の三語前の語までに傍点が付いていることを意味します。→大学カテゴリーランキング
※1
カリキュラムの「大綱化」=「自由化」と選択科目の増加とは必ずしも同じことを意味しないが、中曽根臨教審に発する「個性重視の原則」に発する「新ゆとり教育」 ― 臨教審の第一次答申「個性重視の原則」1985年は、10年後の1996年中教審第1次答申における「生きる力」養成における「個性尊重」という言葉に引き継がれていく ― が選択科目の増大に影響を及ぼしたことは否定できない。
「個性重視」の教育がどんな害悪を生んだかについては本稿第5章で触れる。なお、この答申を契機に、「シラバス」「オフィスアワー」「セメスター制」「GPA」「授業評価」など、「アメリカで開発されてきた、あまり勉強したがらない学生、あまり教育したがらない教員を学習と教育に向けて動機づけ、さらには強制する様々な装置がわが国の大学にも導入されるようになりました」と天野郁夫は指摘し、これらの「装置」を横文字の「小道具」とも言っていたが(天野郁夫『大学改革を問い直す』慶應義塾出版会、2013年)、私のシラバス論の全体はそれとは別の観点からのものである。
※2
この「転回」の意味については、後述する。
※3
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