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顧客対応とは何か ― 不安の源泉は時間である。[日常]
(2018-10-23 23:49:55) by 芦田 宏直


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お役様相談センターなどで散々待ったあげくやっとつながって(「大変お待たせ致しました」との謝罪で始まるのだが)、相談しているとやはりそこでは処理できずに話の途中で「少々、お待ちください」と言われることがよくある。

もうこうなったら何時間でも待ちますが、「少々」と言われても1分なのか10分なのか100分なのかこちらでは全く分からない。100分と前もって分かるのなら、全然待てますが。

対応担当者としては、「たぶん(これまでの経験では)2,3分で終わるだろうと。ほんとにすぐ終わるだろうから、だから『少々』と答えました」と言うつもりだろうが、そう言われた相手は、その「つもり」は全く読めない。

時間はいつも前から流れる。後ろは見えない。前にあるものは、「少々」という言葉しかない。5分待つのも、100分待つのも同じ。5分で終わるか100分で終わるか結果=終わりが分からない、前から進む時間にさらされた人にとっては。

5分はそれで終わってよかったという結果論にすぎない。ほら「少々」だったでしょ、と終わってから言うくらいなら、最初から「5分前後お待ちください」と言えばいいだけのこと。

「5分」は単なる時間の?長さ?ではなくて、終わりからみた時間の長さに過ぎない。終わりから見た時間は、時間ではなく空間(=?長さ?)でしかない。空間とは終わりの見えた時間のことだから。

待ち合わせの〈約束〉も同じ。約束の時間を「少し」でも過ぎたなら、待っている人は、結果として何分の「短時間の」遅刻であっても不安になる。「少し」も「短時間の」も待っている人が到着してからの結果の言葉だからだ。待たせている人には、到着時間の結果がある程度見えているが待っている人にはそれが見えない。

不安は〈結果〉が見えない不安なのだから、「少し」も「短時間の」もなんの気休めにもならない。待つ人は(到着する)前から待つ。終わり(結果)の見えない〈前から〉待つ。「掟の門前」(カフカ)のように、待つ人は中の見えない(そんな中が在るかどうかさえわからない)門前で待っているのである。『審判』における〈門前〉とは〈時間〉のことなのだ。

最近は、携帯電話(SNS)で育った人や携帯電話(SNS)で仕事をする人が増えたので、こういった不安は徐々に解消されつつあるが、携帯電話(SNS)でリアルな連絡をしても、「『少し』遅れます」と、そんな言い方をする人がいる。これでは〈連絡〉したことにならない。

〈親切〉とか〈優しさ〉とは、〈先に〉言うことしか意味しはしない。それらは、いつも〈時間〉との戦いを意味している。

何かを指摘されて、「そういうつもりではなかった」というのは、時間の戦いに負けているわけだ。そして、人間の誠実や倫理だけが時間と戦うことができる。〈誠実〉や〈倫理〉とは、審判の門前のそれなのである。

前での対応(時間を先取りする対応)は、見えない後ろを見えさせることなのである。自然時間では、決して見えない後ろを。その〈後ろ〉は、決して空間的な背後ではないのだ。

先取りをすると、「少々」で100分待たされても相手は怒らない。出直すか、別のことをしていればいいだけだからだ。要するに、待たされることがダメな訳ではないし、急ぐことが大切なことでもないのだ。

〈配慮〉とは、時間の先後関係は自分と相手とでは絶対取り替え不可能だという認識の上でしか成り立たない。

たとえば、教育上のカリキュラムもそう。学生は初学年から上級学年へ向けて学んでいくが、入学してまだ一ヶ月も経っていないのに、少しでも自信を失うと先が見えなくなって欠席が多くなり、最後には退学したりもする。

教員がその躓きの重さを早期発見できないのは、教員は四年間全体の行程をわかっており、それくらいの躓きは、「後でも」充分取り返せると(何年ものキャリアの中で)思っているからだ。「大丈夫、心配しないで」と。これも、前からしか進めない学生と終わりを見ている教員との齟齬なのだ。

しかし、〈教員〉とは何か?

教員とは、終わりを知っているからこそ、取り替え不能な始まりに遡行できる指導者のことだ。まるで初心者のように振る舞うことのできる者を教員と言う。

これは、特別な才能でも何でもない。誰であっても生まれながらの教員はいないし、生まれながらの専門家もいない。どこかでか、その人は教員になり、専門家になった。誰でもが初心者であったわけだ。その〈どこか〉が始まりであったのだから、それを思い返すことができるかどうかだけのこと。ドイツ語で〈想起〉はErinnerungと言うが、これはEr-innnerung、つまり内面化である。初心者を内面化できるかどうかが鍵を握っている。

これは〈外部(他者)〉を〈内部(私)〉へと還元することではなくて、その逆、私の中の外部を再現することなのである。私の中の〈外部〉とは、先の〈どこか〉のことである。

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