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ノート論[これからの大学]
(2018-05-16 11:46:40) by 芦田 宏直


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1)ノート論

授業が?わかる?とか?わからない?とかいう場合の一番切実な問題は、学生一人一人の理解の水準に授業(授業教員)が対応できないということである。

理解の?水準?と言っても、それは学生の基礎学力に差があるということではない。?水準?というより、すべての人間(学生)は同じひとつのことを学ぶにしても、様々なプロセスを通して?理解?に至るのであって、一人の教員が授業で行う展開は、たんに一つの理解プロセスをシミュレーションしているにすぎない。

水準が多数あることが問題なのではなくて、理解の仕方が多数あることが授業(特に集団教育的な授業)をわからなくしている最大の問題だということだ。

この問題は、授業を主宰する教員が〈話す〉ことだけに頼った授業を行った場合に特に顕著になる。〈話す〉ということは時間(のリニアな流れ)において話すということであり、〈最初に〉話すことが〈後に〉話すことの前提(原因)になり、その順序が逆転することはない。話すことを〈聴く〉者は、一つの流れに不可逆的な仕方で追従せざるを得ない。

一つの〈前〉〈後〉の関係を理解できない場合には、それは〈全体〉の理解に至ることにかなりの障害を生むことになる。つまり〈話す〉授業は、理解プロセスの多様な経路を最も単純化し、単一的に閉ざしてしまっている。

従来、この話す授業の欠陥を補うためになされてきたのが、〈板書〉であり、学生のとる〈ノート〉であった。どちらも、話す時間(=前後)を空間的な〈位置〉に変換し、前後を同時に(=後からでも)見渡せるメディア変換を行うためのものである。

両者にはしかし微妙な差異がある。板書は教員の理解プロセスを示したものだが、ノートは学生自身の理解プロセスを示している。一つの授業には学生の数だけのノートがなければならない ― 事実はそうでなく、板書をただ写すだけのノートを取る学生がなんと多いことか! 原因は教員の方にもあって、中学・高校の教員で「写せ、写せ」といいながらノートを強制している教員がいるが、ノートと板書との落差の意味を教員自身が理解していない教員も多い。

もし、写すことがノートを取ることの意味であるなら、教員は最初から自分自身が授業レジュメを作って(あるいは教員自身の講義ノートを)学生に前もって配っておけばよいのであって、わざわざ授業時間中に学生にノートを取らせる意味はない。

仮に、そのレジュメを前提にして、先生が板書なしに授業を続けたとしよう。それでも、学生はそのレジュメに何かのコメントを書き加えるだろう。そして、そのコメント(の場所と量)は学生一人一人違うはずである。その全体が〈ノート〉である。〈ノート〉はいつも(教員の意図を超えた)メタレベルを含んでいる。
 

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