●Twitterとは何か(1) ― 電話からTwitterへ、あるいはポストGoogleの課題
Twitterの特長は、同期性だ。ブログやSNS、掲示板やチャットとどこが違うのか、とよく話題にされるが、Twitterは携帯電話の延長にあると考えて良い。
電話はもともとが同期メディアだった。「同期」というのは、発信者と受け手とが同時に存在しているということだ。話し手、聞き手が同時に〈そこ〉にいるという実在性が電話コミュニケーションの基盤をなしている。
ところが、電話の特長であるこの同期性が薄れてきた。留守録機能と着信通知機能(あるいは着信非通知)が電話の同期性を殺いでいる。おまけに持ち運びが手軽にできる携帯電話は同期という時間性だけではなく、場所の制約も相対化してしまった。
電話の同期性は留守録機能と着信通知機能によって意識的な選択の対象になり、自然な時間性(あるいは場所性)を回避するようになってきている。
人々は「便利」だと思っていた電話の同期性(や場所の特定)をむしろ「うざい」と思い始めたのである。
Twitterもまた発信と受信が同時に起こる。書いているときが読まれているとき、そういう同期構造を成立させているのが「タイムライン(=TL)」だ。フォロー数が多ければ多いほど同期性(現在の共有度)は高まる。
「つぶやき」は、そのタイムラインを通じて、予期せぬ仕方で向こうからやって来るし放っておいても消えていく。つまりタイムラインは同期性=現在を形成し続けている。
電話の同期性は、
1)チャットの同期性と同じように、一つのテーマと相手の意向を追い続けなければならないというキツさを強いられる。
2)この追跡の時間は、リアル時間としての流れる現在であるため、話題や相手の意向の追跡以上に時間に拘束されているというキツさが存在している。
一言で言えば、電話の同期性には現在の共有というコミュニケーションリアリティーは存在しているが、その分、選択と自由がない。その分「うざい」。
特に携帯電話が電話コミュニケーションを徹底的に個人化した分、個人の行動と情報を24時間全面的に捕獲し、「うざい」緊張関係はさらに先鋭化したといえる。
携帯電話以前、リビングや玄関先に固定電話が設置されていたときには、電話に出ないことは自宅に偶然いないことを意味したが、電話が携帯されるようになれば、電話に出ないことは不在を意味するのではなくて、意識的な拒否を意味するようになった。拒否を意味しないまでも、出ないことの理由について“説明”が必要になったのである。着信通知(あるいは留守特機能)はその選別性をさらに強化した。
選別性の強化は内面性の強化を意味している。24時間、電話に出るべきか、出ざるべきかを自己に問い続けることになるのだから。「オンライン自己」(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100524/227559/)の「ありもしない」内面性の起源の一つがここにある。
一つのテーマや話題に集中し、かつ流れる現在においてそれに集中することは、内面をどんどん強化し神経戦を強いられることになる。携帯電話のある時代の恋人たちは、待ち合わせに不自由を強いられることはないが、一旦その関係がこじれ始めると一秒刻みの神経症的な心理戦に落ち込むことになる。分かれるにも「同意」が必要とでも言うかのように。男女関係も民主主義でなければならないとでも言うかのように。「うざい」ことになるわけだ。
逆の言い方もできる。若い世代の恋愛が、ここまで情報ツール、交友メディアが拡大したにかかわらず広がらないのは、友達関係が男女関係と同じかそれ以上に緊密化し、ことさらに男女関係を結ぶことに余裕がないからだ。友達関係を「維持する」ことに手一杯なのである。24時間「会えない時間」まで思いつづけることは、もはや男女関係だけのことではない。というより、少数のn個に対する過剰な配慮が関係の全てなのである。
この携帯電話の〈現在〉共有の限界は、特定の個人に限定されること、それゆえ特定の話題に限定されること。
携帯電話の「いつでもどこでも」の便利さは、むしろ特定の個人との交流を極限化(細分化)しただけのことであって、交流する人々が増えたわけではない。「いつでもどこでも」同じ人との神経症的な交流を深めているだけだ。着信対応が少しでも遅れると「何していたの?」と問われ、「返信が1分でも遅れると(個人的に)嫌われる」「返信が遅いビジネスマンは仕事ができない」といった強迫観念に追われている。
話し相手が遠くにあっても〈そこ〉にいるという臨場感が電話メディアの特質だったが、留守録や着信通知、そして何よりもメール機能によって、電話はフローメディアでなくなっている。
Twitterは、それに反して
1) 多数の他者、多数の話題との交流