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「電子書籍」について ― 日経BPnet「ストック情報武装化論」連載(第二回)[論文]
(2018-03-29 23:24:01) by 芦田 宏直


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●iPad現象と電子書籍の現在

古典と呼びうる芥川賞的な「純」文学と直木賞的な「大衆」文学とは何が異なるのか?

両者に截然とした差異があるわけではないだろうし、サブカルチャーの水準は従来よりははるかに高度化しているが故にますますその差異を見極めることは難しいだろう。しかしにもかかわらずその差異は相対的には存在している。

敢えて言えば、古典としての純文学は反復読書に耐えうるものということだ。何回もの読書に耐えうる一冊の書物、それを〈古典〉と言う。

何回もの読書に耐えうるというのは、何を意味しているのか。それは読む度に〈そこ〉に何が書いてあるのか、その意味が変わるテキストが存在しているということだ。「意味が変わる」というのは、色々な意味が含まれているということではない。そのつどの時点で、「こう理解するしかない」と決定されたことが変化するということだ。

だからこそ、人は何回もその書物に向かう。決定されていた意味の誘惑に基づいてこそ、その決定が変化する。若い頃に読んだその本に思わず線を引いた箇所が、20年経ってふたたび読み戻ったときに、なぜこんな箇所に自分は線を引いたのかと不思議に思うくらいに文面の意味は異なって見える。それが古典だ。ハイデガーは「存在の決定(Austrag)」という言葉を使っていたが、このAustrag(アオストラーク)というドイツ語は、「忍耐」、「臨月まで持ちこたえる」、「配達」と訳すこともできる意味を有している。

一つの古典が存在しているということの意味は、その存在が様々な亀裂や変貌に耐えているということであって、その意味での耐忍(Austrag)の書物が〈古典〉である。

マルクス主義文学論が盛んなころ、古典文学における文学的な普遍とは何かが盛んに議論されていて、当時の論客の一人小田切秀雄(当時は法政大学教授)などは「人類学的等価」などという今から思えば陳腐な普遍価値論(歴史、民族を超えて人類に共通な価値に触れ得た文学こそ古典という)に言及していたが、それはロマン主義的な「等価」論だった。

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