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大学入試改革を議論する文科省「有識者会議」(座長・安西祐一?)の最終報告について[これからの大学]
(2016-03-27 04:12:50) by 芦田 宏直


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●〈人物〉評価とは身分の評価でしかない

安倍政権の「教育再生実行会議」(座長:鎌田薫・早大総長)が、大学入試(センター入試)を?人物重視?に改める提言を10月末日(2014年)に発表しました。また昨日25日(2016年)は、その「教育再生実行会議」の議論の延長上で、大学入試改革を議論する文科省「有識者会議」(座長・安西祐一?)の最終報告がなされました。後者の力点は「知識偏重」に対する記述式問題の導入という観点です。

こういった動きに関連して、私は、まずは朝日新聞朝刊社説面(オピニオン欄)で「脱・点数主義の罠」(2013年11月12日)として論じましたが、ここではさらにその論点を詳述してみたいと思います。

「人物本位」の大学入試に問題があるのは、〈人物〉評価というのが、生まれたときからの長い時間を経た、本人の意識や努力にとどまらない要素、つまり環境(ハビトゥス) ― 家族やその交友関係や地域の文化環境 ― によって左右される部分が相対的に大きいからです。

逆に言えば、ジェネラルエデュケーション(国語・算数・理科・社会・英語)からリベラルアーツ(専門教養主義)へと至る学歴主義的知識や技術の世界は、個人の意識や努力を基本にした、ある意味、?人工的なもの?です。この意味での人工性を普通〈知性〉と呼んでいるわけです。〈人物〉〈環境〉の反対語としての〈知性〉です。

試験科目が「国語・算数・理科・社会・英語」などの「主要」五科目に限られやすいのも、それらが、体育や美術や音楽などの科目と比較して、先天的で潜在的な〈才能〉としての〈人物〉 ― 本人の個人的な努力を超えた環境によって作られたもの ― に依存する度合いが相対的に低い科目群だからです。体育や美術や音楽は、いわゆる「一夜漬け」の効かない科目群だったわけです。

環境に影響される度合いが相対的に低い〈知性〉について、ペーパーテスト※という平等・公平な競争を行うことで、次世代のリーダー候補を選抜する。江戸時代の身分社会から近代社会への移行で大切な改革が、そうした学歴主義による中間層の拡大でした。それによって世代ごとに階層がシャッフルされ、欧米に比べても階級がない平等な社会が実現したと言えます。学歴社会の〈知性〉主義は、したがって人工的なものとしての〈カリキュラム〉によって生み出されるものですから、〈カリキュラム〉こそ〈環境〉の反対語と言ってもいい。
※科挙の試験制度を支えたのは、世界に誇る、宋朝の紙と印刷技術だったという井上進(『中国出版文化史』)の報告がある。紙試験(ペーパー試験)というのは、「貴族の政治的リストラ」(与那覇潤)の基盤であったわけです。紙試験と出版技術は、貴族のハビトゥスを打破する力をもっていたわけです。


●時間と環境と〈ソーシャル〉

近代社会は、一つにはこの人工性が原理になっています。家族や地域といった長い時間の〈環境〉によって形成される人物評価とは、簡単に言えば、個人の意志や努力を越えた階層評価に過ぎないわけです。それは、ブルデューが〈ハビトゥス〉と言ったものに近い。

〈環境〉とは〈現在〉の反対語であって、極端に言えば「一夜漬け」の効かない評価が〈人物〉評価です。近代社会はいい意味でも悪い意味でも「一夜漬け」の社会なわけです。評価(自他観察)の時間が短ければ短いほど、近代的な徴表である〈自由〉〈意志〉〈主体性〉の強度は上がるのですから。

実際、Twitterなどでは140文字以内の「なう」によって、MixiやFacebookにはない多様な「ソーシャル」交流が生まれています。「ソーシャル」とは、個人間の自由で多様な交流を意味するのではなく、階層間の自由で多様な交流を意味するのです。MIXIやFacebookは反省(Reflexion)のメディアにとどまっているために、〈人物〉の平均値で― たとえば学歴、たとえば業界、たとえば趣味、たとえば顔Faceというように ― 情報が丸められてしまい、交流が限られています。そもそも相互承認なしには始まらないMixiやFacebookは〈人物〉評価主義なわけです。〈人物〉〈人格〉〈主体〉という概念自体が比較的長い時間の自他反省の〈平均値〉でしかない。


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