「会えない時間が愛育てるのさ」と郷ひろみは言いました。歌のタイトルはまさに『よろしく哀愁』だったわけです。「哀愁」(OUTPUTのないINPUT)こそが〈育む〉ことの原理なのです。
まさに大学受験勉強などは、それゆえ、「哀愁」の勉強だったわけです。最近の若者は、「哀愁」に「よろしく」が付いている意味がわからない(中曽根臨教審から最近の教育再生実行会議までの教育思想の犠牲になっているとも言えますがhttp://www.ashida.info/blog/2014/07/post_429.html#more)。昨今のコミュニケーション論の対極にある言葉が「よろしく哀愁」です。
さて昨年12月29日の忘年会のこと。若い人のよくある勘違いに出会った。
まずは“仕事をする”ことを、社会保険をもらうことと同じだと思っている。
もう一つ、「あなたの知らないこと、できないことを僕はしている」(だからあなたになんだかんだと言われたくないというもの)。
三番目に「生きるとは何ですか」と抽象的な問いに関心を持っていること。
最後の四番目に「あなたになんか私の辛さがわかってたまるか」、と先の抽象的な問いの対極の個人論にこだわっていること。
こんな26才(だったかな)の若者に出会った。
まずは一番目の問いから。
仕事とは何か?
それはキャリアパスのあるもののことです。キャリアパスとは、INPUTの表出(OUTPUT)までの時間が長いプロセスのことをいいます。5年かけないとできない仕事がある、10年かけないとできない仕事がある。
そんな職場に入ることを、就職する、「仕事に就く」といいます。一番、いい例がメーカーのエンジニアです。GTRやアルピナのエンジンを開発するのには(ひとまずは)技術のヒエラルキーを追う必要があるわけです。明確なキャリアパスがあります。
あるいは、製造業だけではなく、学生にとって身近な卒業論文作成(論文審査)にしても、期末試験OUTPUT(せいぜい半期15コマ)よりも長いINPUTのプロセスがあるからこそ、はじめて「身につく」知識試験になるわけです。
「卒論書く時くらいかな、少しは勉強したのは」とよく聞くのは、OUTPUTへの禁欲期間が長いものが卒論作成だからです。今ではこれも「コピペ」によって短くなっているのですが。
大学受験のときにこそ、高校生が「勉強する」のも、それが学期末試験を超えた長いINPUTの時間を経験するからです。学んでもすぐには使えないストックなしには、高偏差値受験にパスしない。
テスト(OUTPUT)というものは、そのINPUT(テスト受験勉強)が短ければ短いほど記憶依存になるため、時間が経てばINPUT自体が消失していくようなプロセスを辿ることになります。
大学でも2単位授業(半期15コマ授業)の中でさえ、期間中の小テストを履修判定に使う大学がありますが、私の大学ではそれを禁じています(小テスト自体はいくらやっても構いませんが)。
履修判定のストック度が短い試験をしてもその学生の実力(あるいは教員の教育力)など分からないからです。記憶の勢いで解ける?問題?が前面化します。
この場合、〈記憶〉の反対語は〈理解〉です。
そして、〈理解〉のためには体系(ヒエラルキー)が必要です。〈体系〉、つまり時間の滞留です。それ自体がOUTPUTであるような、どこにもOUTPUTをもたないような時間の滞留なわけです。
企業社会においても同じです。若い時代には、なかなか顧客に前に立たせてくれない?仕事?こそが仕事だということです。
その若者は、「そんなこと言ったって、優秀なエンジンを作っても売れなきゃ意味ないでしょ」と言います(顧客の前に立ちたがる)。
もちろんそうですが、売る過程と作る過程には大きな違いがあります。売ることには法則はない。売れないことには法則があるかもしれないが売ることには法則がない。
車の営業マンでもクルマをよく売ることのできる人が必ずしも商品知識の多い人であるわけでもない。作る過程をよく知っているとも限らない。それらを知った「から」と言って売れるようになるわけでもない。
そして、一人の売れる営業マンのノウハウを盗んだ(真似た)からと言って自分が売れるようになるわけでもない。そういった職場に若い時代に馴染んでしまったら、実績(結果)だけが“ものを言う”という人生訓をはやくから身につけることになります。
なぜ、実績主義になるのか。それはプロセスが不明だからです。だから、そういった職場は大概が極端な実績主義と極端なヒューマニズムが前面化します。知識や技術のプロセス(キャリアパス)が不明確だからです。間(あいだ)に割って入る知識や技術の束が細いのです。
言い換えれば、そんな職場は知識をINPUTする時間が短い。短いままでも顧客の前に立てる。短いままでも顧客の前に立てるのは、〈顧客満足〉にルールや体系は無いからです。