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痛烈な機能主義批判 ― 芦田宏直『努力する人間になってはいけない(学校と仕事と社会の新人論)』を読む[新刊『努力する人間になってはいけない』]
(2013-09-17 10:48:49) by 芦田 宏直


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祝スピーチを頂いた中西先生(http://www.ashida.info/blog/2013/08/201387_8.html#more)から書評を頂きました。以下、全文御紹介します。

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本書のハイライトは第9章「ツイッター微分論 ― 機能主義批判と新人論と」です。ハイライトでもあり、最も難解なこの第9章のために、著者は第8章まで読者を騙し続けます。あたかも、若者向けの啓蒙書のように。この本は決して啓蒙書ではありません。(特にわれわれ心理学者にとっては) とても危険な本です。

第9章は「ツイッター微分論」と名付けられていますが、ツイッターについての話ではありません。重要なのは副題の「機能主義批判」。私は心理学を専門としていますが、いわゆる「科学」を名乗る学問は全て機能主義のやり方に従っています。

心理学者は個人を微分して、かけがえのない個人ではなく、平均化された、つまりデータとしてみじん切りにされたどこにも存在しない個人 (「個人」と言っていますが、心理学者にとってはそれが人間であろうと人間以外の動物であろうとロボットであろうと、全て等価です) を研究しています。

これが「モデル」という考え方です。「モデル」という職業がありますが、あれも「どこにも存在しないような美人」という意味ですから、まさに「モデル」なわけです。こうしたモデル型の研究パラダイムは19世紀の後半に心理学が誕生してから、われわれがずっと一貫して採用しているものです。心理学の屋台骨を支える重要なモデルは、刺激―反応 (S-R) です。

新行動主義ではその間に媒介変数を採用することになった、なんてことはどうでもいいことです。相変わらず心理学者がやっているのは、刺激と反応の関係についての関数の研究です。こうした研究パラダイムは研究業績を大量に生み出すことに貢献してきました。おかげでわれわれ心理学者は大学に講座を得て、国から研究費をいただき、多くの研究成果 (おそらく、著者に言わせると「ゴミ」) を蓄積していくことができたわけです。

「『タイプ』『モデル』的な結合、つまり述語結合を諸々の接合や離合の軸に置く考え方は、機能主義心理学の人間観です。そうやって、サイバネティクス以後の心理学は主語 (=内面) としての人間 (=アリストテレス的な魂、あるいはウーシアへの問い) を相対化してきたわけです。それらはすべて、統計学的なコンピュータサイエンスの徒花みたいなものですが。心理学 (機能主義心理学) がもっともそうに見えるのは、方法論が数学的な体裁を取っているためです。対象 (ウーシア) としての <心> なんてどうでもよい。<人間> もどうでもいい。機能主義科学 (すべての近代科学 science は機能主義 functionalism ですが) は、<方法論> しかないのです」 (p. 369) と痛烈に批判していますが、著者は心理学者以上に心理学のことをよく知っています。

多くの心理学者にとって「機能主義」は過去のものであり、「私の心理学は単なる機能主義ではない」と主張する人が多いと想像されます。多くの心理学の教科書では「機能主義」はウィリアム・ジェームズによる構成主義批判として生まれ、過去のものとして扱われていますが、未だに心理学の主流は機能主義です。刺激を条件間で統制して、それへの反応の差異を検討するという最も心理学者の好きな研究手法 (=実験) が、まさに機能主義であるわけです。

「外面性の強度は、内面性の強度と『相関』しているというのが、機能主義=行動主義の論理的な帰結」 (p. 365) とあるように、心理学者にとって重要なのは、外部からの刺激に対してどのような反応が観察されるか、ということに尽きます。要するに、ある刺激をある反応に変換する「関数」がどのようなものかを明らかにするのが心理学 (機能主義) の目的です。

その意味で、心理学者にとって人間と同じ振るまいをするものは、それがロボットだとしても人間と等価だし、人間の病気と機械の故障は区別ができない。しかし著者は、「人間の生はいつでも廃品になるし、いつでも新品になる、そのように生死は間断なく再生する。だから、人間の病気は機械の故障ではない」 (p. 182) と喝破します。とても壮快なところですが、心理学者にとっては死刑判決に等しい。「『故障』はまだ直せるが、死は直せない」にもかかわらず、「最大の病は人間が死ぬということ」なのです。このことは、死が「<機能> や <目的> に帰すことはできない」ということを意味しています。つまり、機能主義は完全に破綻しているのです。

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