7日の出版記念パーティーが終わって(http://togetter.com/li/545497)、一週間後の14日そろそろ感想聞かなくてはと参加していた某超大手広告代理店の中堅二人を、ロイヤルホスト高輪店(笑)に呼び出して、一週間後の話を聞いてみた。
なんと18:00に待ち合わせて、終わったのが、24:30。そもそもメニューを決めるまでに思わず話し込んで2時間ほど話し続けていたから、そんな時間になってもおかしくはない。ロイヤルホストにしておいてよかった(笑)。以下は、その参加者の一人がまとめてくれた記念パーティー解題講演と本の感想の一部です。
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アルバイト店員が内輪受けの悪ふざけをソーシャルメディアに投稿して炎上するという事象が方々で沸き起こっている流れで、低学歴高学歴という言葉を最近よく目にします。
ものすごく差別的かつ刺激的で極端な言い方をすると、低学歴高学歴というよりも家庭や地域でのしつけや教育の差、つまり親や地域の教養や品格のレベルの差と捉えるべきなのではないでしょうか。
それが今たまたま学歴差と同等になっているから、低学歴高学歴という呼び方がうまくハマるけれど、決して学歴差の話ではなくクラス差の話なのだと思います。つまり今、クラス差=格差が如実に日本に戻りつつある……戻るというのは、おそらく戦前レベルに。ジブリ映画「風立ちぬ」の時代にです。
では、戦前に在ったクラス差を日本はどのように解消し、そしてなぜまた戻ってきているのか……ということについて「バブル経済が崩壊した後、経済力格差が広がったから」というよく言われる説明にはどうにも納得出来ない、腑に落ちない、そんなもやもやをずっと抱えていました。
さてそんな中先日、芦田 宏直さんという哲学の先生から「いわゆる自己啓発本」の著作PDFが私のもとに突然メールで届き、さらには「出版記念パーティやるからお前いいから来やがれ(本当はこんな書き方はされてませんが、ニュアンス的にはこんな感じw)」という圧迫メール的な何かもついてきました。どう考えても事前に読了した上で参加しないと潰されるようなすごい殺気を感じたので、とりあえずそのPDFを読み始めます。
自己啓発本ジャンルと著者ご本人が言うだけあって、読みやすい……本を哲学の方が書くわけがありませんでした。ちょっとした小話的なものから始まるので、すごくわかりやすいなと思って読み進めていくと、突如としてドイツ語の哲学用語が乱舞し始め、ドツボにハマって行き、ああもう形而上とか機能主義とかもうそういうのやめて! ライフゼロ!さっきからもう同じ3ページ何回読み直してるかわかんないから!
しかも言葉の意味調べてるうちに何調べてるのかもわかんなくなってきてるから!……となり、早々に読了を諦めた状態で出版記念パーティに参加します(もちろん目立たないように)。パーティで実際の書籍も頂きましたが、自己啓発本ジャンルのくせに(くせに!とあえて言いたい!)ハードカバーで500Pもあるとかどういうことだよ(ノ`Д´)ノ彡〜〜〜┻━┻と、改めて思いを深くします。
そんなパーティで著者講演が始まったのですが、その内容がなんと冒頭の「クラス差と学歴差」についてつらつらと考えていた私の頭を晴らすものだったのです。
「教育とは、家族と地域の影響からこどもを引き剥がす意味を持っている」という言葉。底辺層の家庭で生まれたら一生底辺、アッパー層で生まれたらそのままアッパー、そんな格差を埋めるのが本来の学校教育で、さらに一発試験の受験制度は「たった1日の試験にさえ合格すれば、人生変えられる」というものでもあると。
そしてその試験が面接や論述から選択方式に変われば変わるほど、純粋に学力だけを図る方式へと突き詰められ、子供の背景に広がる地域や家庭環境の影響を消し、階層のシャッフルが起きていっていたのだと。「お前の親は中卒で、しかもお前は高校卒業したあと浪人しているからうちの大学では受け入れられない」なんて東大も慶応も言いません。試験さえ受かれば入れる、前歴は問わない、それこそが日本の教育であり、学歴社会だったんです。
ところが学歴社会が行き過ぎると当然、こんな言い分が出てきます。「いいおうちに生まれて良い教育を受けて素晴らしい能力の子供がたかが試験1回失敗しただけでだめになるのはもったいない」。
まあ理由はこれだけではないでしょうが、日本の教育制度がある時期から変化(中曽根臨教審だそうです)し、その変化こそが、子供の背景に広がる地域や家庭環境の影響が出やすい教育を生み出してしまい、その結果数十年かけて格差がじわじわと広げ直され、そして現時点を迎えている……ということを私につきつけたのでした。嗚呼これが、クラス差=学歴差と呼んでも話が通る今の状況かと。