★あとがきにかえて
教育の現場に長い間いると、世間の人々のでき不出来、人々の行動のでき不出来がすべて自分の教育の成否に関わっているように見えて、いやーなタイプの人間になりがちだ。組織内の同僚、部下、上長までをも「どんな教育を受けてきたのだろう」という目でついつい見てしまう。その人達の〈経験〉や〈才能〉よりも、受けてきた〈教育〉が気になる。
街のアルバイト学生に出会っても、新人社員の営業や飛行機のCAに出会っても、デパートや家電量販店に行って買い物するときも、「どこの大学?」「どこの専門学校出たの?」とついつい聞きたくなる。接遇面ばかりではなく、家電品、クルマ・オーディオなどの工業製品などを使っていても、なんという不出来な商品!と怒りに満ちた声を上げるときも同じ。
いずれであっても背後に“人材”と“人材像”が存在し、“人材教育”が存在している。製品のできも人材のできに直結している。人を育てるということは人を育てられない分際の認識も含めて、社会観、世界観と無縁ではいられない。
そうやって、社会人はすべて卒業生(=人材)という“偏見”に、私の頭の中は固まっている。職業病だと思ってあきらめるしかない。
そんな病の中でいつも疑問に思うことは、「今のは、この子の個人的な資質によるものなのか、それとも教育が効いているのか(あるいは効いていないのか)」ということだ。もし今の場面に適切に対応できる“人材”を作ろうと思ったら、どんな教員、カリキュラム、シラバス・コマシラバスが必要なのだろうか、と。
そのことに関して最近、私は別のことを考えるきっかけがあった。田村耕太郎さん(前参議院議員)の紹介で昨年末、楽天の社長室長のAさん、人事責任者(常務執行役員)のSさんとお話をする機会があった。周知のように楽天は新卒枠の30%が海外の(特にアジアの)大学新卒者。
アジア進出を考えてのことだろうが、なかなか問題も多いとのこと。「なんですか」と聞くと、なぜこのような製品やサービスを提供しなくてはいけないのか、その「意味がわからない」とアジアのエリート新卒者たちは言うらしい。提供しろと命じれば「頭がいいから」すぐできるが、その意味をわかっていない、とS人事担当者。
私は、「なるほど」と言って次のように話を繋いだ。
私「頭の偏差値は高いけれど、消費者偏差値が低いんだよね、アジアのエリート学生たちは。日本の子どもたちは小さいときから、高度なマンガ・アニメ文化、ゲーム文化、携帯電話文化、そして接遇文化に馴染んでいる。“国際的な”秋葉原も近くにある。『頭がいい、悪い』に関係なく高度消費が空気のように身についている。消費に『頭がいい、悪い』はない。作れないかもしれないが、作る意味は分かる」。
楽天S「そうなんですよ、そこにズレがあるんですよ」。
私「『頭がいい』『作る』ことのできる学生に〈意味〉を教えるのか、『作る』ことは出来ないけれども〈意味〉のわかっている学生に『作る』ことを教えるのか、どちらが〈人材〉を作るのに早いか、簡単かということだよね(笑)。難しい問題だね」。
楽天S「『単に頭がよければいい、英語ができればいい、コミュニケーション能力が必要』という問題じゃないんですよ」。
私「わかります、わかります(笑)。そう思いますよ。だけど、日本の教育関係者がそのことを一番わかっていない。口を開けば『日本の学生はバカだ、勉強できない、基礎ができていない』になる。若者の消費偏差値の高さに気付いていない」。
こんなやりとりだった。資質か、教育かという狭い議論を超えて、日本の消費文化の高さは職業人材を作るもう一つ別の〈基礎学力〉のようなものを形成している。国語・算数・理科・社会・英語だけが「基礎学力」でもないのだ。
ところが、この能力を受け止める高等教育が存在していない。専門学校は大学に行けない子どもたちの受け皿でしかない。「頭がいい」という体系はジェネラルエデュケーション→リベラルアーツの軸でしかない。
消費偏差値の高さを活かす形で職業教育と接続する学校教育体系が存在していない。専門学校は非学校系の厚労省・国交省・経産省系の資格プレゼンスでかろうじて「学校」の体裁を保っているに過ぎない。
専門学校(専修学校専門課程)は議員立法の出自からも明らかなように元々から文科省の関心の外の“学校”だった。自民党文教族(主には私学の早稲田系)の1976年施行の私学助成法圧力のどさくさに紛れてできあがったのが専修学校制度(同じく1976年施行)だった。地方名士による「各種学校」の格上げ圧力が文教族議員立法に結実したのである。四大進学率がこの時代にはまだ20%台(四大進学率は90年代初頭まで20%台にとどまる)だったことからすれば、この制度は一定の役割を果たしたとも言える。