★まえがきにかえて
「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。
自分より少しはバカな人(学生たち)を相手に教え続けるからだ。だから少しはバカな人はどんどん賢くなっていくけれど、自分自身はバカなままにとどまる。社会人なら「お前はアホか」と言われ続ける20代、30代でも、「先生」と言われ続けるのだから、おかしな大人になるに決まっている。そうして自分のバカが学生にばれそうなときに、選択科目は半期で変わり、担当学年が変わり、入学生と卒業生が変わり、学生は消えていく。先生のプレゼンスは長くても4年持てばいいわけだ。先生のバカはそうやって二重に守られている。
100歩譲って、“教え方”はどんどん賢くなっていくと言ったところで、知っている内容が変わらない点では一緒のことだ。教え方が変わることによって教える内容も変わるともっともそうなことを言う人もいるが、それは“教え方”という言葉の乱用に過ぎない。「教育」というのは、“教え方”の研究(文科省は「教育研究」という便利な言葉をよく使うが)でもって教える内容を棚に上げるシステムだと思った方がいい。「先生」と言われる以上は、それくらいの恥を覚悟しないと。
1000歩譲って、「先生」の相手は学会に集う研究者たちであってバカな人(学生)ではないと言っても、日本村のような学会で論文業績を作ることは、大学全入時代の学生を人材として育てるよりはるかに簡単なことだ。もっとも私の経験では、〈教育〉に関心のない教員より、〈研究〉に関心のない教員の方がはるかに教育力がない。100歩譲っても1000歩譲っても、しかしいずれにしても「先生」は変わらない。
昔、トロツキーは、ロシア共産党はすべてを変えたが唯一変わらなかったものは、そのロシア共産党自身だと言ったことがある(埴谷雄高は何度もこの言葉を紹介していた)。前衛主義や啓蒙主義が破綻するのは、自分が考えていることについていつも「知ったかぶり」をするからである。前衛主義や啓蒙主義の本性はいつも軽薄で保守的なものにすぎない。映画『ミッドナイト・イン・パリ』に出てくる大学教授やアメリカ文化もそれと似たところがあるのかもしれない。
ラテン語の格言でDocendo discimus(ドケンドーディスキムス)という言葉がある。「教えることによって学ぶ」という意味だが、これはくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。留保なく教えることができるときにこそ、〈教育〉と〈研究〉は重なることが可能になる。そもそも学ぶ者の程度を選ばないためにこそ専門性探求は存在するのではなかったのか。できない研究者ほど、学ぶ者(の程度)を選びたがる。
「教えることによって学ぶ」とは、教えることによって自分を空っぽにするほどまでに最高判断で語りなさい、教える者自身が一から学び直さなくてはならないまでに教えなさいということだ。
私が大学の最初の教壇に立ったのは400名の受講者のいる階段教室だったが、一コマ目で話すことが尽きてしまったことがある。そのとき私は、10年以上哲学(ハイデガー・フッサール、および現代思想)の勉強に集中してきた私のストックの貧弱さに自己嫌悪しきりだった。10年はたかが10年でしかなかったわけだ。「有益な」情報が学生であってもすぐに手に入る昨今の状況では、当時の10年は今の1年。だから今の大学の教壇に立つには100年はかかるということだ。
トークというのは、研究者にとって通俗の極みのようなところがあるが(そんなものは政治家にでも任せればいいというように)、時として書き言葉よりははるかに圧縮率が高いことがある。500枚の論文の内容も90分のトークで語り尽くせることがあるように。
書き言葉はストックを積み重ねてどんどん観念的、体系的になってしまうが、トークは一言で認識を地べたに引きずり落とすことがあるのだ。若輩者の私にとってストックが足りないのはもちろんのことだが、トークの解体力というのはとてつもなく私自身の「学ぶ」姿勢を揺さぶり続けたと言える。
ところで、この本の諸々の記事は、2001年以来書き続けてきたブログと式辞・講演録からなっている。「ブログ」と言っても半分以上は仕事関連の記事だ。だからブログ本という趣とは少々異なる。それには理由がある。
もともと私がブログを始めたのは、1995年に私が学内にロータスノーツを入れたことが機縁になった。学生すべて+教職員すべてをノーツクライアントにしたのが1995年だから、全国の(大学を含めた)学校の中ではグループウエア導入の最初の組織的事例だったと思う。まだ高速LAN規格も決まっておらず、「イントラネット」という言葉がやっと出回り始めた頃の話だ(当時ITOKIなどは「内部インターネット」という言い方をしていた)。