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学校教育と生涯学習と家族と ― 中曽根臨教審の呪縛(学ぶことの主体とは何か)[教育]
(2011-06-28 13:30:40) by 芦田 宏直


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フィッシュキンは、「メリット」(メリトクラシーのmerit)と「生活機会の均等」と「家族の自律性」とは三つ同時には実現できないと言っている。

厳密に言うと、これらの内の二つを実現すると残りの一つは実現できない「トリレンマ」に陥る。

「実力」と言っても、最初から恵まれた立場に置かれてしまえば、その本人の「実力」とは言い難い。実力主義は、家族主義的な階級制と反するように見えるが、結果的には家族主義的,地域主義的な“格差”を温存する場合も多い。純粋な「機会均等」は、存在しない。機会を与える前に決着が付いてることの方がはるかに多いのかも知れない。

「メリット」と「生活機会の均等」とは「子供は社会の子供」という立場にほぼ立っている。後者の「家族の自律性」は子育ての権利は(社会ではなくて)親に属しているというものだ。

学歴社会における〈学校教育〉の意義は、子供を教育することを、親の影響や地域の影響、あるいは世代の影響から隔離することにある。1+1=2を教えることに、あるいは学ぶことに親も地域も世代も(場合によっては社会も)必要ないからだ。

つまり〈身分〉や〈格差〉と関係なく、1+1=2ということを教えるという場所が〈学校〉。

その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が国家的に条件付けられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員国家資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。

この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。学ぶ主体を〈生涯学習〉的な視点から認めてしまうと、結局のところ、自動詞的な〈学び〉が前面化する。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化する。

言い換えれば、何か〈を〉学ぶという対象への集中(漱石的な〈則天虚私〉)よりは、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在することになる。世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。

1980年代後半の中曽根臨教審答申以来、個性教育と生涯学習はパッケージで前面化してきた。〈個性〉ばかりではなく「関心・意欲・態度」が各科目評価に加わったのも中曽根臨教審答申を受けた92年の新学習指導要領以来のことである。

ペーパー試験で100点とっても「関心・意欲・態度」の“悪い”者は、80点扱いになる。評価全体の内、2割が「関心・意欲・態度」評価に当てられている。つまり〈知識〉や〈技術〉の累積と「関心・意欲・態度」とは別のものだという判断がこの評価には働いている。

外面的な(=外からの)注入型の教育と「関心・意欲・態度」が切り離されてしまえば、この「関心・意欲・態度」を担う主体は、学校教育以前の〈パーソナリティ〉でしかない。いわゆる〈人間論〉が前面化する。

人間はそもそもが内発的に学習する主体(=学びの主体)だという生涯学習論の思想的基盤もそこにある。教員は(上から権力的に)教える者ではなくて、サポーター役、あるいはファシリテーター役に留まる。

〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉とは、結局のところ、親や地域の(あるいは時代や社会の)影響を色濃く受けた〈主体〉に過ぎない。

〈学校教育〉に、「上から」の「権力」が存在するとすれば、この親や地域の影響という地上性を払拭する為のものであるからに違いない。

実際、池田寛(大阪大学)、苅谷剛彦(東京大学)たちが明らかにした「関西調査」では、学びの個性論教育、あるいは意欲主義教育は、むしろ、学力格差を拡大することになったことをデータから示している。

「関西調査」の結論は三つある。一つには、中曽根臨調以来の個性主義教育+意欲主義教育は学力格差をむしろ拡大するということ。二つ目には、意欲を育てるのはむしろ学力であって、学力のない者は意欲もないということ。三つ目には、「学び合い」などの児童・生徒たちの意欲的な「学び」を前提とした「新学力観」型授業は、学力格差を拡大するということ。この三つである。

このことを一言で言えば、苅谷の言う「インセンティヴディバイド」となる。

結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の名の下に、《社会》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。

現在、〈学校教育〉は、入口と出口において、その境界を無くしつつある。この事態は〈学校教育〉が〈生涯学習〉と等置された臨教審路線の反映に過ぎない。80年代と、バブル期以降、IT革命以降のグローバリゼーションによる労働市場の大変化(高卒市場の10分の一の縮小)=キャリア教育の登場とは一見、別物のように見えるが、しかし臨教審の〈学校教育〉=〈生涯学習〉論は〈キャリア教育〉に親和的である。

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