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小学校の「学び合い」授業を参観して(1)[教育]
(2011-02-25 18:27:08) by 芦田 宏直


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福島県の某市立小学校の「学び合い」教育の授業を2月23日終日見せていただいた。お昼休みの食事なし(笑)の教員との意見交換、終了後、再度約4時間の意見交換、計5時間の意見交換ができ、貴重な授業評価会だったと言える。この学校は上質な「学び合い」教育を行っている学校と聞いている。授業改善に前向きに公開的に取り組まれる校長先生、教員の方々のご協力に心から感謝したい。

<画像:★★jyugyouIMG_2986.JPG>

今回は、小学校3年生(算数・国語・理科)、5年生(社会・国語)が中心の参観。それぞれがすべて各担任の授業。重要なことからまとめておく。なお、以下のまとめは、すべて当日担当教員とのやりとりで議論した内容である(幾分かは補説しているが)。私の立場は、「良い授業」こそ批判すべきだし、伸ばすべきだというもの。2人の教員とも優れた教員だったと思う。

1)この授業全体を通観して思う最大の問題は、レフェランス(とりあえず「基準値」と訳しておこう)というものが不在だということ。致命的な問題だと思う。

2)生徒の進度のみならず理解度も授業内でばらばらなため(それなりの進度・理解度の集合はあるが)、〈より進んでいる〉、〈より遅れている〉という相対指標しかない。

3)しかもこの進度や理解度は、隣の子供より〈進んでいる、遅れている〉か、教科書の単元内の進行がより〈進んでいる、遅れている〉か、単元の内外の業者テスト(ほんの一部オリジナルテキスト)の練習問題の消化率がより〈進んでいる、遅れている〉か、それともこの三つの複合的な状態でより〈進んでいる、遅れている〉かのいずれかである。

4)そして、この相対的な進行の原理は、いい意味でも悪い意味でもすべて子供は「それぞれが違う」という「子供の個性」「子供の可能性」論に直結している。

5)しかもこの「学び合い」での「子供の個性」「子供の可能性」は「子供はそれぞれ違う」という意味での個々人の可能性でしかない。

6)「それぞれ違う」と言いながら、「学びの共同体」(佐藤学)のような個人主義は取らず、コミュニケーションが「子供たちの能力」を引き出すと言うが、進行の差は依然として「(子供は)それぞれ違う」論になる。〈個人〉が最初にあるか(佐藤学)、後から出てくるか(西川純)の違いしかない。

7)しかし、「子供の可能性」は何も学びのあれこれのサークルの中にすべて顕現しているわけではない。パーソナリティなら少数のサンプリングで顕現するかもしれないが、〈学力〉ということになるとそれはむずかしい。

8)小学校3年生、小学校5年生の(私学中学受験を意識した)進学校を含む全国水準はどのようなものかを意識しない「子供の可能性」など存在するわけがない。あれこれのNPOの夏の野外合宿ならいざ知らず、学力(今回は鶴亀算)が問題になっているのだから。

9)同じ「鶴亀算」をやらせても、同じ学年の、別のクラス、別の学校、別の地域の学校では、この難しい問題を短時間で単独で解ける子供がいる、あるいは逆にこんな簡単な鶴亀算さえできない生徒がいる、その中でこのわがクラスの生徒たちがどう〈より進んでいる、より遅れている〉のか。

10)それが、とりあえずのレフェランスだ。「学び合い」教育のレフェランスは、“全国試験”では「平均より上」どまり。しかもこの「全国試験」には中の上以上の進学校は参加していない。

11)しかも、“寝ている子はいない”、“全員参加”の「学び合い」がモットーだから、(何度も言うように)「平均」は上がるに決まっている(この「学び合い」関係者はいつも「平均点」を争っている)。10点の生徒が20点になれば、「2倍も」成績が伸びたことになるが、100点の生徒は100点のままだ。80点の生徒も2倍伸ばすわけにもいかない。

12)もともと“落ちこぼれ”(言い換えれば“授業への不参加生徒”)が出るのは、教員が基準値(理解のレフェランス)を前面化するからだ。1対n個(一人の教員が生徒全員に対峙するという授業形式)の授業というのは、レフェレンスが存在するからこそ落ちこぼれも存在する。

13−1)しかし「学び合い」では、“落ちこぼれ”は見かけ上存在しない。一授業内で教員が採点するということはほとんどない。回答を教員が読み上げて生徒が自主採点するか、生徒同士で採点制御を行うかどちらかだ。何がどうできなかったかを理解する場面はすべて生徒の「学び合い」の中にある。

13−2)100点満点という参照性もないどころか、そもそも何点だったかという参照性さえない。問題(課題)ばかりに取り組んでいる割には、点数のレフェランスがない。少なくとも私の見た授業のすべてはそうだった。

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