【「学び合い」教育の諸問題(1)】この教育「実践」を行う教員たちは「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」に期待する教員が多いが、学校教育「以前」、教員の教育「以前」、教室授業「以前」の子供の「潜在的能力」、「可能性」とは、結局のところ家族の環境や地域の環境に色濃く影響を受けたものでしかない。
【「学び合い」教育の諸問題(2)】その意味で、抽象的な「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」一般などというものは存在しない。「純粋な子供」というのも低俗なロマン主義でしかない。「かわいい」少女もまたただ単に大人が喜びそうな表情、仕草、トークとは何かを心得ている「ませた」少女に過ぎない。まあ、その意味では〈少女〉は男の子よりはるかにませてはいるが。
【「学び合い」教育の諸問題(3)】学校「以前」、教員「指導」以前の素質や潜在的可能性に依存する分、この教育にこだわる教員たちは、いつも「子供は100人いれば、みんなそれぞれの個性や可能性を持っている」と言うことになる。当たり前のことだ。親や育った環境が違えば、子供の諸傾向はばらばらに決まっている。「子供」の「素質」と言いながら、「それぞれ」と言うのだから、教育以前の“個体”のことを言ってるに過ぎない。
【「学び合い」教育の諸問題(4)】家族の環境や地域の環境に影響された子供の存在を肯定してしまうと、階層を再生産することになる。家族の環境や地域の環境とは、階層構造そのものだからだ。最近の研究者の報告では、子供の大学進学率は母親の学歴に依存するというものもある。
【「学び合い」教育の諸問題(5)】貧乏人は金持ちとは一緒に住まないし、金持ちも貧乏人とは一緒に住まない(階層や階級は厳密には経済的条件と直接には一致しないが)。住まないばかりか交流も限られてくる。自ずと立ち居振る舞いも「それなり」のものになる。
【「学び合い」教育の諸問題(6)】学校教育「以前」の「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」は、フィッシュキンが指摘したように「家族の自律性(親の子供への教育権)」と相関しているが、その分、階層格差を再認する構造でしかない。
【「学び合い」教育の諸問題(7)】その意味で言えば、近代的な学校教育(福沢諭吉が明治四年に『学問のすすめ』で高らかに宣言したような「国民皆学」のメリトクラシー)は、子供は「家族の子供」ではなくて、「社会の子供」という立場に立っている。イスラエルのキブツもそうだし、ついでに言えば「母子手当」の民主党もそうだ。