あけめしておめでとうございます。
遅まきながらやっと年賀状を書く気分になりました(笑)。ただしまだ前半です。
●mixiばかりではなく、Facebookも終わっている
昨年のメディア界は、Twitter現象に代表されるように「ソーシャル元年」と言われました。
私のSNS(Social Networking Service)体験は、mixiが最初でしたが、Social Networking Serviceとは言いながら、人の交流がそこで活発になるとは思えなかった。
ミクシィ(MIXI)は2ちゃんねるや一般的な掲示板にくらべて、会員制による属人性が高い分、荒れる度合いは格段に減りましたが、結果的には、孤独なBLOGの書き手が、より反応性の高い媒体に移っただけのこと。Facebookもその点では全く変わりありません。
この反応性は囲い込まれた分、生じた反応性であって、決して〈ソーシャル〉と言えるものではなかった。ブログに同じ傾向の人間が集まったように、ミクシィ(MIXI)にも同種の人間が集まっただけだった。
孤独なブログの書き手に比べて、反応性が高くなる分、メールしか打てなかった若者たちも少しは長い文章を書くようになった。それがブログとミクシィ(MIXI)との差異、ミクシィ(MIXI)の意義でした。
強い専門性や趣向性、つまり強い発信力を持たなくてはいけないブログにない会員制の魅力は反応性の有無だったのです。読んでくれる人がいるのなら、書いてもいいかと。
しかし、会員制SNSはミクシィ「村」と言われてもいるように、同種の人間が集まることでしかない。
●長い時間の観察や分析が、人間性を構成している。
同種の人間が集まることは、なぜ〈ソーシャル〉でないのか。それはいつも排除の論理を前提にしている。
なぜ、ブログやミクシィ(MIXI)は排除を含むのか。それは平均性や傾向性を前提にするから。
平均性や傾向性はなぜ生まれるのか。それは反省の時間や観察時間のスパンを長く取る記述の形式を取っているから。
忙しいお昼に手軽なカレーライスを一人で食べて、そこそこ美味しくても、ディナーで彼氏や彼女と素敵なご馳走を食べたら、その日の(終わりの)日記は、ディナーの話になる。
たった1日の出来事でさえ、それを就寝前にまとめようとすると、一番印象に残ったものによって、1日が「まとめられる」。
もともと「まとめる」という行為は、観察や分析の時間スパンを長く取るということだ。
「まとめる」とは、一つの、あるいはいくつかのテーマによって、1日の出来事の凹凸が平均化され、傾向を持った一つの塊として見なすということ。
まとめなければ、安いお昼のカレーライスだって、朝食抜きで昼に至った、その「いま」の食事の感想としては「おいしかった」と言えるはず。その「いま」が、1日の反省(編集)では、消えてしまう。
「人間性」「人格」「個性」「自主性」「性差」などもまた、時間のより長い観察や分析の結果、「まとめられた」ものに過ぎない。
「まとめる」という長い時間の観察・分析は、「人間性」「人格」「個性」「自主性」「性差」、あるいは「メーカーと消費者」などのそれぞれの凸凹を取り去って(つまり昼食のカレーライスの出来事をないものとして)、ひとつの抽象物(物語)を作る上げているわけです。
「性差」でさえ、Twitterの「いま」では男女差が消えてる場合が多いのですから。