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学術論文にもFail Safeは必要 ― その後の「インターフェロンベータ1bは日本人の再発寛解型MS患者において有効である:ランダム化された多施設研究」論[家内の症状報告]
(2009-11-14 01:25:05) by 芦田 宏直


Xさんへ from P (2009/11/14/01:13)

Xさんは最前線におられる科学者と推定され、「科学的妥当性」の“実際”に関する査読システム等のご説明は、当該論文を含めた科学情報を主体的に解釈して頂く上で、患者を含むブログ読者の大変な参考になると思います。代わってお礼申し上げます。

議論は概ね収束してきたようにて、下記は小生の“つぶやき”です。

論文が掲載される過程での関門となっている現状の査読システムは完璧ではない、あるいはもっと言えば ― 何でもそうですが ― 完璧にはできないというのがXさんのコメント(
http://www.ashida.info/blog/2009/11/_1bms_4.html#more)を読んだ率直な感想です。

論文内容のみで評価できる純粋な理論の世界ならともあれ、“データ”が論じられる実験系の世界においては、真の意味での「科学的妥当性」は実務を行った当事者のみぞ判断できることなのだろうと思います。また、それが正しく判断できるという責務を負うからこそ、職業科学者なのだろうと思います。

Fail Safeという言葉があります。航空機において、ミスを前提として、予めそれをカバーするようなシステムになっているという意でよく登場します。

たとえ一つのエンジンが故障しても、残るエンジンで着陸動作ができる。万が一の食中毒を懸念して、機長と副操縦士が異なる食事を取る。航空機の運用ではこういったあらゆる点でFail Safeが敷かれている。

なぜか。「100%大丈夫」ということはあり得ないからです。そして、僅かな確率であったとしてもFailとは即ち死(墜落)に直結するからです。万が一にもFailが生じた場合、それを単純悪としてつるしあげるのではなく、徹底的に調査し、それら過去のFailに学び、そのFail Safeシステムを設計する。安全を希求する旅客の声が、Fail Safeシステムを成熟させていく。なぜなら旅客は「安全な」航空会社を選択するからです。

医療においても、同様にあるべきではないかと感じます。著者、査読者、編集者、読者たる現場の医者、患者団体や家族、そして患者本人という多段階のFail Safeが可能なはずです。

著者の限界や査読システムのFailureを前提として、現場の医者レベルでの批判的吟味を行う。患者団体レベルでの冷静な情報提供と解釈。患者本人や家族も治療を漫然と受け入れるのではなく主体的に選択する。そして医療全体のFailSafeシステムを成熟させていくのは、やはり患者本人や家族の「主体性」ではないかと思っています。

以上生意気なことを“つぶやいて”しまいましたが、またお立ち寄りの際にはXさんもお力をお貸しください。→「にほんブログ村」

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