Twitterを使い始めて約1週間が経ちました。まだまだ五里霧中という感じですが、私なりの解説をしてみよう。
まずtwitterの仕組みを簡単に。
利用するには、登録画面にアクセスします。→http://twitter.com/
登録画面の右側「今すぐ登録」をクリックすると登録画面に移ります。→https://twitter.com/signup
登録画面では「名前」「ユーザー名」「パスワード」「メールアドレス」を打ち込んで「アカウントを作成する」をクリック。
「名前」も「ユーザー名」も勝手に付けることができます。ちなみに私の場合、「名前」は芦田宏直、「ユーザー名」はjai_anです。既に使われている名前だけははねつけられますが、後は自由に付けることができます。
これでtwitterの参加者となります(twitterになったわけです)。
ここまでで何ができたかと言いますと、世界中のtwitterの「つぶやき」を聞くことができるtwitterサーバーに登録され、自分自身も自由にtwitter(さえずる=つぶやく)ことができることになります。
「つぶやき」の受発信はどんな仕組みでなされるのかと言うと、キーワードは「フォローする」「フォローされる」というものです。
「フォローする」は、ある特定の人の「つぶやき」をその都度読み続けるということ。自分が関心ある人の「つぶやき」を追い続けるということです。「フォローする」人を「フォローワー」と呼んだりもします。
「フォローされる」は、そのように「フォローする」対象に自分自身が特定されるということです。
フォローする人物の特定は、検索で行います。twitterサーバーにある世界中の人の「つぶやき」を全文検索できますから、関心のある言葉(事柄)を「つぶやく」人をどんどん選んで「フォローする」というアイコンをクリックするだけで、その人物の「つぶやき」をリアルタイムでフォローできるようになります。
有名人のリストなどはTwitter社が人物の特定(偽者ではないということ)を公認しながら公開しています(http://twinavi.jp/populars)。それを見ながら「フォローする」こともできます。
さて、自分自身の「つぶやき」は自分を「フォローする」人にしか見えません。自分自身を「フォローする」人が誰もいないときには自分自身の「つぶやき」は誰にも読まれることはありません。またつぶやきを「非公開」にすることもできます。フォローする人同士で組織的に「つぶやき」を「非公開」にすることもできます(仕事のグループウエアで使っている人もたくさんいます)。
ミクシィ(MIXI)のようなSNSとtwitterが異なるのは、「フォローする」「フォローされる」という関係が双務的な関係になっていないということです。
ミクシィ(MIXI)では、このフォローの双務性を「マイミクになる」という言い方をします。この場合、基本的にはお互いの書き込みが読まれ得る関係に入ることになりますが、twitterではその関係はありません。フォローしても、フォローされることはない。相手にはフォローしたことがわかるにはわかりますが、特にフォローし返す必要はない。
そもそも「フォローされた人」がそのフォローした自分自身をも「フォロー」していない限り、自分自身のそのフォローした人への「つぶやき」を直接見ることはありません。twitterでは、反応(返信)自体が孤独な「つぶやき」なのです(自分をフォローしている人には、その孤独な返信が共有されていますが、フォローを拒絶することもできます)。
したがって逆に、ミクシィ(MIXI)のように、「書き込み(更新)したのにコメントがないのは冷たいじゃないか」というような(「社会」的な)プレッシャーがありません。
このフォローする、フォローされることの非対称性を、一言でいえば、「つぶやき」ということになります。「つぶやき」は、返事をされたり、賛否を問うことを期待していません。フォローする人に見られはしていますが、SNSのような堅苦しさはないわけです。
このフォローする、フォローされることの非対称性は、「つぶやき」の持っている短文性からもきています。twitterでは最大140文字しか入力できません。これでは応酬するだけの材料が出てきません。またつぶやく人もそれだけの短文であれば、何かを期待して書き込んでいるわけでもない。「つぶやき」の短文性が、フォローする、フォローされることの非対称性を構成しているわけです。
その上、短文であるために何十人か、何百人かを「フォロー」すれば、1時間単位、10分単位でいくつもの「つぶやき」が続き、あっと言う間に「つぶやき」が流れ消えていきます(追おうと思えば追えますが)。「つぶやき」の短文性(軽さ)は「つぶやき」の大量性に繋がり、その大量性がますます非対称性を強化していくわけです。無視されていることが大量になれば、無視されていることはインフレし、どうでもよいことになります。無視されることが気にならない。