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「FNSの日26時間テレビ2009」、見てましたか?― 紳助のトークはまだまださんまの話芸に及ばない。[TV・芸能・スポーツ]
(2009-07-26 19:07:17) by 芦田 宏直


「FNSの日26時間テレビ2009」、見てましたか。特に昨晩(深夜)の紳助とさんまとのトーク=「さんま・中居の今夜も眠れない」(http://dogatch.jp/blog/news/cx/0924076649.html)は印象的でした。

紳助のトークは、まだまださんまのトークには及ばないというのが、私の感想。

理由ははっきりしている。紳助のトークにはためがある。言いたいことや言いたいイメージがまずあって、その話し(のおち)が終わってみんなが笑うというパターンの繰り返し。みんなはその話しにじっくり耳を傾けなければならない。そしてその結果笑う。

すでに出来上がった話しを笑うわけだ。つまりこの話しなら笑うに充分値する笑いだということが前提になっている。だから紳助のトークや笑いは受け入れをいつでも強制しているトークだ。その分、息苦しいトークになっている。紳助のトークは限りなく書き言葉に近いトークだ。

それに比べて、さんまのトークははるかにその場その場のトークの流れに即している。一回一回のトークの時間が紳助に比べて短いのがその証拠。

トークは長ければ長いほど、書き言葉に近くなる。長いほど、モノローグに近くなる。主張のあるトークというのはそういうものだ。

しかしそれなら、人(他人)と〈話す〉という意味はない。聞き入れや受け入れのチャンスがあるのがトークというもの。トークの本質はその意味で〈変化〉と〈自己解体〉だ。

トーク(話し言葉)の本質は、相手あっての言葉ということにある。書き言葉は永遠に他者を否定し続けるが、トーク(話し言葉)は永遠に相手を受け入れねばならない。化学変化のように内容が一瞬で変化する、変化させるというのが、話芸の極限でなければならない。

だからトークに主張(「感動」の押し売りのように)があってはならない。紳助のトークは、いつも権力的だ。最悪の場合、周りに子分どもを従えて悦に浸るというトーク(つまり「納得」のトーク)に堕する。それは、さんまや堺正章の話芸に比べればはるかに品質の悪いトーク。

紳助がわかっていないことは、泣かせることより、笑わせることの方が難しいということだ。だからさんまは、人前では絶対に泣かない。泣かせるトークをしない。これはさんまの芸人としての思想だ。さんまにとって感動と泣きは芸の堕落なのである。紳助に見えていないのはそのことだ。

※今年は何年かぶりに「深夜のカマさわぎ」が復活しましたが(一番楽しみにしていましたが)、みんなが深夜3時を過ぎて疲れていたのと紳助とさんまのトークに圧倒されていたのとで、元気がないように思いました。

特に一番重要な役目(実はこの配役がすべて)のラサール石井と渡辺リーダーが元気がなく、全体をもりさげました。前回は、この位置に今田耕司がいて最高に盛り上げましたが、すでにピークをとっくに越えているラサールと渡辺ではこの超一級の若手芸人たちに化学変化を起こさせるのは無理。そこへ、紳助が加わったものだから、余計に盛り上がりに欠けました。せっかく朝6:00まで見ていたのに。→「にほんブログ村」

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