『あの日の指輪を待つきみへ』(http://www.yubiwa-movie.jp/)、見ましたか。2007年の映画ですが、私は今頃見て泣き続けています(苦笑)。
この映画は戦争映画ではありません。『ニュー・シネマ・パラダイス』(http://n-c-p.jp/)が古良き映画の時代を描いた作品でないのと同じように。
若いときの約束はそれが純真であればあるほど裏切られる。そして裏切られること自体がその約束の意味をより重くする。
言い換えれば、〈約束〉の〈意味〉は、約束の〈そこ〉にはない。それはいつも当事者の意識を超えて遅れてやってくる。「若いときの約束」と言うより、約束というのはいつも「若い」ものなのだ。そして青春とは、〈約束〉=PROMISEであり、一つの未決(PRO-MISE)、先延ばしであり、未決であるために一つの〈永遠〉を拘束する。
この未決としての永遠を担うには人間の時間はあまりにももろい。それは若い人間もいつかは老いるという時間よりもはるかに異次元な時間だ。時間的な時間ではない。〈人生〉でもない。
『あの日の指輪を待つきみへ』の主人公は、最後のシーンで友人と抱き合うが、これは「長い時」を経た赦しの時間ではなく、一つの約束の再現なのである。この最後の抱擁のシーンにこそ約束(=未決)の純粋性が再度出現するのだ。だからこのラストシーンは美しい。
それは『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公が長い時を経て、隠され続けたラブシーンの集積を見せつけられるシーンに似ている。彼は「失われた時」を最後になって回復しているのではなくて、再度そのキスシーンの意味を失うようにして泣き崩れるのである。
キスシーンの遅れたプレゼントは獲得の成就ではなく、一つの喪失の成就である。私には『あの日の指輪を待つきみへ』の主人公の最後の抱擁は、『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公が泣き崩れる最後のシーンに重なって見えた。
『あの日の指輪を待つきみへ』が公開された当初、どんな反響があったのか私には全くわからないが、この映画の意味は私にしかわからない(苦笑)。「私にしかわからない」というように普遍的なものになっている。いい映画だ。→にほんブログ村
(Version 3.0)
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