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【第二版】ウズベキスタン戦・岡崎のシュートは良かった ― シュートは自分で決めるものではない(一つの反大久保論 ― 「決着」(Austrag)」とは「持ちこたえること」を意味する)[自己ベスト]
(2009-06-08 00:02:09) by 芦田 宏直


昨日(6日)のウズベキスタン戦(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/extra09.html)、岡崎選手(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E6%85%8E%E5%8F%B8)のシュートは最高でした。

岡崎のいいところは、ボールの動きに、ゴールするまで追従できるということですよね。シュートに繋がったヘディングは、その直前にシュートを打った「こぼれ球」でしたが、あのヘディングは「こぼれ球を拾う」という感じではなかった。

シュートは本来入ってこそシュートですから、自分が「シュート」を決めるのではなくて、それは入ってからこそ決まる贈り物のようなもの。だから、打ってからゴールに入るまでの全行程に追従できることこそ、「シュート」という言葉の意味。

だが、大概の選手は、自分で「シュート」のイメージを決めて打ち終える。自分で勝手に終えてしまう。終わりの(=決める)イメージを持ってキックすることは大切かもしれないが、実践的には役に立たないときがある。特に高度な試合になると「終わり」は自分では決められない。コンマ秒以下の瞬間で「終わり」の様(さま)は変化する。

だから本当は自分が〈終わり〉を決めることなどできない。終わりは、結果に過ぎない。終わりは〈向こう側〉からやって来る。

シュートは終わるまで打ち続けるものであって、その意味ではシュートは終わらない。それが真のシュート。

岡崎のヘディングは、まさにそんな感じのシュートだった。彼はゴン中山を尊敬しているという。何となくわかるような気がした。顔もどことなく似ている(苦笑)。

そんな岡崎の対極にいるのが、FW大久保(http://ja.wikipedia.org/wiki/大久保嘉人)。彼のシュートはいつも自分だけで終わってしまう。自分のキックの意味を自分で決められると思っている。ペナルティエリアだと勝手にからんで勝手にこけて「ペナルティキック」を取ろうとする(今回もそんなシーンがあった)。

彼は倒れたときいつも審判の方を見ている。情けないったらありゃしない(苦笑)。国見高校時代の「実践的な」(=せこい)サッカーがからだから染みついて離れない。ウォルフスブルクでも控えに回ることが多いのはそのためだ。ヨーロッパでは、シュートは終わりではない。単なる一つの始まりなのだ。それが未だに大久保にはわからない。J1神戸が大久保獲得に動いているらしいが止めておいた方がいい。

「シュート」だけではない。「終わり」はいつでも自分で決められないからこそ「終わり」。仕事を自分で成し遂げられない人間は、大概のところ、自分で「終わり」を見つけて勝手に決着を付けている(「決着」のドイツ語であるAustragには、「耐える」、「持ちこたえる」という意味もある)。自分の意味を自分で決められるかのように。そんなことはあり得ない。大久保は「持ちこたえること」(austragen)ができない。私はそれを仕事における「大久保」主義と呼んでいる。

ここ1週間、私は「コミュニケーション」について論じてきたが(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_350.html#more からhttp://www.ashida.info/blog/2009/06/post_353.html#more まで)、コミュニケーション教育論者は言わば大久保のシュートみたいなもので、いつも自分でこけている。「コミュニケーション」なんて「向こう側」からやって来るものに決まってるでしょ。

「終わり」とは「他者」の別名。それは(来るか来ないかわからないようにして)プレゼントのようにして後から付いてくる。岡崎のヘディングシュートは、それを感じさせるのに充分な感激的なシュートだった。そのシュートは一つの偶然に、必然的に出会ったシュートだったのである。

(Version 5.0)

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