昨日の私のコミュニケーション能力論(http://www.ashida.info/blog/2009/06/post_350.html#more)について、ありがたいことに、以下のようなコメントを頂きました。まず全文掲載します。
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読みました。完全に芦田さんの書いてる事を私が理解できたかは不明ですが、コメントを書こうと思います。
まず一つは、いかに、どんな専門的な知識を勉強する専門学校だとしても、その知識を学ぶのは人間ですし、その知識を誰の為に活かすのかと言えば、それも人間の為だと思います。
だからこそ、仮に属性として弱い意味を持った「コミュニケーション教育」だったとしても、ある程度の意味は持てるのではないかな?と思います。
また、私は思うのですが仮に、「お客さんとのコミュニケーションについても教える専門学校」と、「お客さんとのコミュニケーションについて教えない専門学校」の二つがあったら、学生は「お客さんとのコミュニケーションについても教える専門学校」を選ぶと思います。
またたとえ話になってしまいますが、お客さんも美容院に行った時、美容に関する知識で上手にコミュニケーションが取れる美容院と、美容に関する知識で上手にコミュニケーションが取れない美容院、この二つであれば、やはり上手にコミュニケーションが取れる方を選ぶのではないでしょうか?
結局「コミュニケーション教育」とは、他の専門学校との差別化、あるいは社会進出した後の学生の為、またお客さんとの少しでも円滑な、コミュニケーションを図る為という意味があるのではないでしょうか?
ただしかし「大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない」という部分には、とても笑わせてもらいました。
このコミュニケーション不全状態の背景には、多くの人は物事のあるべき方向性について「こうすべきだ!」という路線を判断し、発言する事が難しい事だからではないかと思います。
長くなってしまいましたが、以上です。
例え話ばかりになってしまって申し訳ないですが、考えられる限りを書いてみました。もし論点がズレていたら、すいません。(2009年06月02日 17:07)
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以上のようなもっともなコメントを頂いた。就職活動中の大学生の方らしい。この質問や疑問は私の議論について普遍的な現象だと思う。また、専門学校の関係者の中にもこういった考え方の中で「コミュニケーション能力」教育を進めている人がたくさんいることを私はよく知っている(苦笑)。
そこで、この大学生の疑問に答える形で、先日の議論を補いたい。
「まず一つは、いかに、どんな専門的な知識を勉強する専門学校だとしても、その知識を学ぶのは人間ですし、その知識を誰の為に活かすのかと言えば、それも人間の為だと思います。だからこそ、仮に属性として弱い意味を持った「コミュニケーション教育」だったとしても、ある程度の意味は持てるのではないかな?と思います」
この点について直接に応えているのは私の昨日の以下のコンテクスト。
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では、専門的な知識とは何か? それは勉強をしないと身につかない知識のことを言う。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」を、営業が「商品知識」を知るようにして知ることなどできない。営業の「商品知識」が「専門的な」(=営業に特有な)知識でないのは、その知識が在るからと言って、営業の目的である〈売る〉ことに貢献することには繋がらないからだ。営業に〈知識〉が必要である度合いは人間性(=人柄)が重要、話し上手が必要という度合いとほとんど変わらない。その意味で営業にとっては〈知識〉は道具に過ぎない。
それに比べて「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」にとっての知識は人間性と代替される道具ではない。それらは「専門的な知識」がないと対象に関われない領域を有している。知識は相対的な道具ではなくて対象そのものに関わっている。