飛行機は楽しい。楽しいのは、たぶん離陸するからだ。離陸というのはたぶん人工性の極致だ。反自然そのもの。ヘーゲル的に言えば、飛行機は、その意味で精神の極限のあり方かも知れない。つまりヘーゲル的には飛行機は人間性そのものなのだ。
<画像:TUMI(2)DSCF0655.JPG>
この写真の意味は後で分かります。
ヘーゲルは労働を自然の人工化(人間化)と考えた。精神の介在の度合いがヘーゲルにとっての美である。彼の大部の『美学講義』はその思想に貫かれている。
飛行機は(ヘーゲル的な)精神の美の一つだと思う。そうやって北朝鮮(ヘーゲル主義の世俗版)のロケットは、ヘーゲル=マルクス的な労働の究極の野望(=ジェットエンジン、ロケットエンジン)を表現している。これに対抗できるのはニーチェ的な大地だけだ。アメリカの空軍もイラクの大地には勝てなかった。
もう一つは、空港だ。空港は飛行機以上に楽しい。なぜか。たぶん離陸の非自然性(非日常性)=人間の死の共同性が空港だからだ。私は飛行機に乗るときに、「この人たちと一緒に死ぬのか」と毎回、じっくり同乗者の表情や動作に見入っている。そのために乗るときには最後部座席になることにしている。全員の顔がわかるからだ。
意識しようがしまいが、飛行機の搭乗者と新幹線の同乗者とは共同性の質が明らかに異なる。飛行機の同乗者の方が共同性がはるかに高い。それは、彼らは死に隣接しているからである。死は人間を単独化するばかりではない。誰にも平等に訪れる共同性の原理でもある。空港は生き仏の集合体だ。だからなんとなくしっとりしている。そこが楽しい。
そんな空港の行き来で、今私がこだわっているのは、出張バッグだ。私は知る人ぞ知るカバンフェチ。一番大切にしているカバンは、ドイツのホフマンのカバンだが、最近はTUMIにはまっていた。TUMIの26141(http://www.tumi.co.jp/product/product-detail/?modelId=111464&searchTerms=26141)だ。写真で見るとあまりかっこうよくはないが、実際はもっとしぶい。このカバンの良さは(ちまたで騒がれているように)材質面にあるのではなく、表面の材質がソフトなわりに型くずれしづらいということだ。その微妙なバランスが何とも言えない。
<画像:hofmannDSCF0651.JPG>
これがそのドイツ・ホフマンのカバン。このアングルのラインが一番美しい。皮の質感もいいでしょう。縫製の精度もピカイチです。寸分の狂いもありません。20年近く前、東京駅大丸のカバン売り場の鍵付き硝子ケースの中に展示してあったもの。一目見て、心が躍り、「買うしかない」。息子の太郎もさすがにこのカバンに一切さわらずに大人になった(苦笑)。このカバンは買って15年以上経っているが、それでも未だに全面皮張り替えのサービスに応じてくれる。それだけでも20万円近くはするだろうが(笑)。