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「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集)と在原業平が詠んだ意味を、高校生の時にはわかったようでわからなかったが、この年になるとまだ咲かないか、もう咲いたか、もう散るかなどとわざとらしく騒ぎ立てている自分がいる。何だか本気か本気でないのかわからない。
そう言えば、業平のこの歌も、藤原定家に「技巧的に過ぎる」と言われていたのを思い出す。定家も結構技巧的だが(苦笑)。
季節の変化を感じるというのは、自然的なように見えるが、むしろ生命力としては衰退している。それが証拠に、難病にかかって動けない私の家内(http://www.ashida.info/blog/cat8/)は季節のことしか言わない。老人も季節の言葉しか語らない。
なぜか。
季節の変化を感じざるをえないくらいに生命が衰退しているのである。言い代えれば、季節の変化に堪えられない身体になっているわけだ。
自宅(=内部)に閉じこもりがちな病人や老人は、実はもっとも外部を感じている人たちであって、彼ら、彼女らはむしろ内部に閉じ込もれない人たちなのである。だからこそ、彼ら、彼女らは自然を愛でることも出来る。
自然が「風流」だというのは、生命の衰退と相関しているのであって、その逆ではない。「子どもは自然の中で育つ」というのは半分ウソ(ロマン主義的なウソ)。子どもほど反自然的な存在はない。冬でも元気だ。サクラも愛でない。
そんなこんなで私もまた昨日かの電動自転車で乗り出していたが、すれ違う人ほとんどがデジカメをもって歩いている。若い人ばかりではなく、「おじさん」も「おばさんも」。そして私も。スターリン時代よりも秘密警察が多い日本(苦笑)。
自宅近辺の芦花小学校の後ろの通りも、ご覧のとおり、サクラに敷き詰められた裏通りになっていた。
この下段の写真の遠景に登場する少年が約1分後サクラに狂い出す。
なんとチラチラと舞い落ちるサクラを帽子で闇雲にキャッチしようとし始めた。その風流と顔が似合わないところがまたいい。サクラを惜しむ行為を身体全体で表現している(しかも意味もなく)。大人ではとても出来ない表現だ(笑)。思わずシャッターを切ってしまった。
そうこうしていると、背後からもう一人の少年が私(の自転車)に近づいてきた。
「何付けてんの?」と。私の自転車のナビに目を付けたのだ。
「何よ?」
「何付けてんの?」
「ナビだよ」
<画像:(9)boy2DSCF0546.JPG>
ナビを珍しそうに覗く少年。
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