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吉本隆明、NHK出演その後 ― 自己表出の「沈黙」は唯物論的(柄谷行人も蓮実重彦も間違っている)[社会・思想]
(2009-01-09 02:21:54) by 芦田 宏直


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※これは先に書いた吉本のETV特集出演に関する記事(http://www.ashida.info/blog/2009/01/post_318.html#more)の第2版です。倍以上に書き足しました。吉本については死ぬまで書くことはないだろうと思っていましたが、あの熱気ある語りが私の頭から寝ても覚めても離れず、ついつい書き足したくなっていきました。第三版、第四版と続きそうな気もしますが、今日はこれで。

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いやー、最初から最後までどきどきしながら見ていました。吉本は私の思想的なお父さんのようなものです(こんなことを告白するのはここが初めて)。彼の書くものは高校1年生(1970年)の頃からずっーと今まで読み続けてきました。

今日のETVを聞いていると、やはりこの人の思想のアルファにしてオメガは、『言語にとって美とは何か』(1965年)の「自己表出」「指示表出」がすべてなんだなぁ、ということがよくわかります。共同幻想論も自己表出論なわけです。

最近、この自己表出と指示表出との関係を吉本はもっと分かりやすい言い方で以下のように言っています。「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います」(『真贋』講談社インターナショナル、2007年)

吉本がこんなに分かりやすく「自己表出」「指示表出」との関係を語ったのは、私の40年近い吉本読書歴の中で初めてのことです。早くそう言っておいてよ、という感じ。

ここで「俺だけにしか分からない」というのが、自己表出性。しかし「俺だけにしか分からない」と誰もが思うわけですから、その「誰もが」思う表出性が指示表出性です。優れた作品(=優れた表現)というのは、ディスコミュニケーションを共有するものなわけです。これが吉本の〈表出〉概念の根源です。〈表出〉の本質は、まずもって〈沈黙〉としての自己表出にあるわけです。

『言語にとって美とは何か』の〈自己表出〉は、「マチウ書試論」(1954年)の「関係の絶対性」を言い代えたものです。「関係の絶対性」は「自己表出」の「絶対性」のことを先行的に示していたわけです。関係の「客観性」と言わなかったのは、そう言ってしまえば「指示表出」性と何ら変わらなくなるからです。「関係の絶対性」は自己表出性の特異な地位を暗示していたということ。

「自己表出」を吉本は昔は「疎外」(初期マルクスの言葉)とも言っていたし、「逆立ち」とも言っていた。この日は自然の方から「変化させられている」という言い方もしていました。

「人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(…)人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである」(「マチウ書試論」1954)

私が生まれた年に書かれた「マチウ書試論」(吉本30歳の時の作品)はいつ読んでもみずみずしい。吉本は人間は選択をする前に選択を強いられていると言っている。「ルッター型」か、トマスアキナス型」か、「フランシスコ型」かは、それ自体が「相対的な」差異に過ぎない。

この「相対」性を「指示表出」と吉本は言い代えたのです。私の言い方で言えば、意味〈がある〉ということと意味〈を伝える〉ということとは全く別のことだということです。

私には、吉本の「マチウ書試論」の〈関係の絶対性〉から〈自己表出〉〈指示表出〉へ至る過程は「選択の自由」の手前にもう一つの大きな〈自由〉があることを感じさせるに充分な思想だった。またその自由は徹底的に強いられているが故にこそ根底的な自由であることを感じさせるに充分な思想だったと思います。

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